憧れの人
「あ、またあの人だ。」
沙也は、いつもの人を見かけて、咄嗟に、物陰に見を隠した。
会社から帰ってくる時間帯にいつも、ドアから出てくる人。
すごく背が高くて、肩幅も広い。身長は、きっと190センチよりあるかもしれない。彫の深い顔に、綺麗な濃い紫色の瞳。固く引き締まった口元も素敵だったし、何より、上品だし、威厳がある。 顔立ちがエキゾチックで、魅惑的な様相をしていた・・・どこの国の人だろう?
・・・意匠デザイナーさんかしら?
洋服も、普通の人と少し違う。黒とも濃い紫ともおぼつかない色をしたスタンドカラーのジャケットに、細見のパンツにショートブーツ。時々は、シルバーのアクセサリーも着けている。何か運動でもしているのだろうか? 引きしまった体が余計にカッコよさを強調する。
(ああ・・カッコいいな。素敵だな。 日本語、話せるのかな?)
沙也は、いつもこの人を見ているだけなのだ。
この人とは、すごく縁がある。沙也には、実は引っ越し癖と言う悪癖があって、大体1年半から2年半になると、別の場所へ住みたくなってウズウズする癖があるのだ。
なぜか、その人は、その都度、沙也のお隣へと引っ越してくるのだ。今回、あの人と同じマンションになるのも2回目。お隣さんなのに、一度も話をしたことがない。・・・いつか、あの素敵な人に話しかけられる勇気がでるのだろうか?
沙也は、鏡を見てため息をついた。
・・だって、絶世の美女じゃないんだもの。ごく普通の容姿をした、ごく普通のOLの私・・・
あんなに素敵な人が、こんな私のことなんか見てくれる訳ないじゃない。
その人の視界に入ることすら恥ずかしくて、そういう訳で、あの人を目にすると、咄嗟に物陰に隠れる癖がついた。「あの人」と呼ぶのが恥ずかしくて、「紫の君」と呼ぶことにした。だって・・・名前すら知らないんだもん。そうして、もう何回、もじもじしながら「紫の君」を眺めたことだろう・・・
「で、紫の君とは何か進展があったの?」
会社で、同期のあっちゃんと、ランチをしている時に聞かれた。そりゃ、乙女の最大のトピックは「恋バナ」でしょー。実体験のない引きこもりの私でも、好きな人の話くらいはできるって。
「え?まだだよー。恐れ多くて、話しかけられないよ。だって、すごい美形なんだもん。 真面目に見たら、美形すぎてきっと目がつぶれる。 」
「何言ってんのよ。いつも眺めてばかりじゃダメだよ。話しかけなければ、恋は始まらないよ。がんばりなよ。」
いつも性格がシャキシャキしているあっちゃんは、絶対に、「肉食系女子」だ。
ワタシにそんな勇気あるかなあ? でも、自分が話しかけても、恋はきっと始まらないよ・・・。
「ダメ元で、特攻して、玉砕されるだろうし・・・・」
イマイチ、腰があがらないのだった。
「紫の君」は一人の時もあれば、友人らしき人を連れていることもある。その人も、超美形で、もしかしたら、モデルさん達なのかもしれない。
そうして、紫の君の後ろ姿を壁の影から、そっと見送ってから、そそくさと、自分の部屋のドアを開ける。・・今日は、タローちゃんと一緒に新作のスィーツを食べようと思っていたんだっけ。
・・・あれ? 紫の君が立ち去った後、彼の部屋のドアの前に何かが落ちていた。
「なんだろう・・これ?」
金色の紋章が入ったものだった。とっても、ゴシックな雰囲気で、アンティークの何かのようだった。
「あの人の落とし物かな?」
なぜかそれが、彼にとって大切なものなのだ、と言う気がした。渡してあげなくては。
そして、少し嬉しくなった。もしかしたら、あの人と挨拶を交わすことくらいはできるかもしれない!
それを大切そうに鞄に大切にいれて、部屋へ戻った。明日も、きっと会社の帰りに出会うだろう。がんばれ、私! 彼に話しかける勇気がでますように。