お客サマに土下座は無用。
慌ただしく、伊藤さんと非常階段を降りていく。
倉橋ちゃんは大丈夫だろうか、どんな対応をしているだろうか、そんな心配ばかりが頭の中をよぎった。
なぜ伊藤さんが、私をクレーム現場に連れて行くのかという理由は簡単。クレームの対応方法などを学ばせるためだろう。
この対応は新入社員全員に覚えて貰わなければ困る。いつ、誰が、何処で、クレームを受けるかわからないからだ。
理不尽なクレームだったとしても謝る。これ基本です。
現場に駆け付けてみると、豊満な体をした男が倉橋ちゃんに詰め寄っていた。
その場に居た同期の女性からの話によれば、客が無理難題を倉橋ちゃんに押しつけて、それに倉橋ちゃんが反発してしまい、あの状況が出来たということらしい。
うん、そうなんじゃないかって心の奥で考えてたよ。
倉橋ちゃんは、非常に喜怒哀楽が激しい性格をしている。笑顔を使った接客には向いているだろうが、クレーム対応などには適していないだろう。
伊藤さんが大声を上げて怒鳴っている客に向かっていく。
倉橋ちゃんは涙を流しており、同期の女性は伊藤さんが心配なのだろうか、私の腕を強く握っていた。
自分自身、前世で何度もクレームの対応をしているが、未だに怖い。
真っ正面から強気で来られる威圧感。息が苦しくなるような重い空気の中で揚げ足を取られないように、しっかりと、対応せねばならない緊張感。
伊藤さんが必死に頭を下げている、その姿をみるだけでも、私は
「土下座しろ!!」
怖くなる。
「っ・・・申し訳ございま」
「早く土下座しろっつってんだよ!!」
怒鳴り声が店内に響き渡る。そんな中、私の頭の中は文字列で埋まっていた。
<クレームの対処方法>
そう書かれたボタンを人差し指で押せば、どっと表示される様々な項目。その中には、対応の仕方がなってないと責められた対処法なども乗っている。
私が前世で作り上げた項目などである。
だが今欲しいのは、この状況を打破する対処法。
そう、今欲しいのは。
<土下座を強要された時の対処法>
これを私のやり方で、使ってやる。
「お客様」
「!宮本さん・・・」
「あぁ?なんだ姉ちゃん」
先手必勝。
どんな場面でもこれは譲れない。
「大変申し訳ございませんでした」
「あー、姉ちゃんでもいいや、土下座しろ!!」
そしたら許してやる。
下品な笑い方をする客だなと心の中で嘲笑いながらも、次の言葉を引っ張り出してきた。
下げた頭を上げながらにこりと微笑む。
「お客様は、私に土下座を強要なさるのでしょうか」
「そうだ!!早くやれって言ってるだろ!!」
「そうですか、ならば通報させて頂きます」
「・・・は?」
刑法223条、土下座を強要する行為、または謝罪文を書かされれば強要罪の成立である。
3年以下の懲役は未遂でも適用される。
刑法234条、店内で、店員の制止に従わず、大声を出し続けると、威力業務妨害の成立である。
3年以下の懲役または50万円以下の罰金。
「強要罪、威力業務妨害。お金で解決してやると仰られるならば、恐喝罪も加わりますが」
「ーッ畜生!!」
地団駄しながら店を去っていく客。
前世で法律に詳しい先輩から教わった対処法だ、今回はそれに命を救われたな・・・。ありがとう、もみあげ先輩。
一つ、わざとらしい溜息を吐いて後ろに振り向く。
伊藤さんの隣で鼻水を垂らしているのは倉橋ちゃん。メイクなんて言う化けの皮はとっくに落ちていて、見るに堪えない顔が姿を現していた。
「倉橋ちゃん、その顔は接客業的にまずいよ」
「うぇぇ・・・ッ!ごめんね宮本ざ、ごめ、怖がっだよねぇぇぇええ」
がっしりとしがみついてくる倉橋ちゃんの顔は、私のスーツに押しつけられていた。
ちょ、まって、クリーニングに出さなくてはいけなくなるんですけれど。クリーニング代高いんだって。
とりあえず、こんな状態の倉橋ちゃんを客に見せるわけにもいかない。
なので、非常階段へと伊藤さんを連れて戻っていった。もう1人いた同期の女性は接客で残って貰っている。ありがたや。
「私、私ねッ・・・!新人だからって馬鹿にされて・・・!」
「うん」
「ついカッとなっちゃってッ・・・!それで!!」
「うん、うん」
「ごべんなざいいいいい!!!」
ごめんなさい、そう言いたかったのだろうけれど、鼻水のせいで上手く言えていない。
私の着ているスーツはもはや、ぞうきんのように汚れていた。
これではもう表に出られないだろう。ごめんね伊藤さん、接客頑張って。
いつまでも泣きやまない倉橋ちゃん。仕方ない・・・。
「倉橋ちゃん、さっきのクレームなんて」
「・・・?」
「毎月残業130時間オーバーを4ヶ月やるよりかは、楽だから」
「ひゃくさんじゅ・・・ッ!!??」
伊藤さんが、驚いたように声を上げる。ははは、凄かろう凄かろう。
ちなみに残業130時間オーバーを4ヶ月働いた後、一日休日が入って、その後またエンドレス残業イアーッ、フゥッ!!ですよ。
あれ、いまいち分からないような顔をしているな?倉橋ちゃんよ。
では簡単に説明しよう。
8時から18時までの9時間が通常の勤務時間だとします。24-9。
15ですね。
その残った15時間を残業するということになりますと。130時間到達するためには・・・。
約、9日間徹夜するということになりますね!はい!
おや、倉橋ちゃん物凄い顔をしております、意味が分かったようですね。
嬉しいです。
「宮本ちゃん・・・化け物・・・?」
「かもしれない」
だから気にしないでと頭を撫でると、小さく彼女は頷いた。
そして伊藤さんが一言。
「・・・宮本さん、お話があります」
「アッハイ」
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帰りたい、帰れない、さよなら、カントリーロード。
今絶賛お説教タイムでございます。
仕事は休憩中のため大丈夫なのですが・・・。
伊藤さんの説教は姑より長いと実感しましたよ、えぇ。姑の説教なんか聞いたことないけど。
内容は昔社畜だったのであれば先に言ってください云々だ。
「ですが宮本さん、大学からここへ就職されたのでは?」
「あーそれは気にしないでください、はい」
「・・・気にするなと言われたら、余計気になってしまいます」
ぷくっと頬を膨らます伊藤さん、女子か。
「宮本さんは、なんでも出来すぎる」
「出来ることに越したことは無いと思われますが」
「そうですけれど・・・俺の立場がないじゃないですか・・・」
急にしょんぼりと肩を落とす伊藤さん。小動物のようだ。
伊藤さんに社内の休憩所にベンチがあったはずなので、そこで休もうと提案する。長いお説教で足が痺れてきた。
深い溜息を吐きながらも、自動販売機で缶コーヒーを買っただろう伊藤さんには、未だに哀愁が漂っている。
「宮本さん、珈琲は大丈夫ですか?」
「いえ、お気遣いなく」
「今日頑張ってくれたご褒美ですから」
ね?と子供をあやすように笑いかけてくる伊藤さん。
「・・・すみません。珈琲は苦手です」
「っ!ふふ、そうですか。ではココアは?」
「大丈夫です。・・・伊藤さん、なぜそんなに嬉しそうなんですか」
さっきの落ち込みはどこへやら、その顔には花が咲いたような笑みが浮かんでいた。
「宮本さんにも、苦手なものがあるのですね」
「まぁ、完璧って訳ではありませんので」
「ふふっ、ちょっと・・・優越感」
悪戯が成功した子供のように、無邪気な笑顔を見せる上司。
この人も随分、喜怒哀楽が激しい人だなと思う。笑ったり、落ち込んだりして、その後いきなり、嬉しそうに笑ったり。
よく分からない人だ。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます。頂きます」
手に渡ったココアは温かい。まだ肌寒いこの季節には極楽だ。
伊藤さんは缶の珈琲を手に持って、私の隣に座る。
「少し、独り言させて頂いても?」
独り言。
彼はそう言ったので、私は返事をしない。その事を安心したかように、伊藤さんは口を開いた。
「俺、実は父親がいないんです。母親もすぐに倒れてしまって、今は寝込んだきり。今家に居るのは弟妹だけなんです。一番下の子はまだ小学3年生」
かりかりと、缶を開けようとする音が休憩所に響く。
「不安で仕方がありませんでした。俺があの子達を育てて行くんだと努力していたらいつの間にかっ・・・甘えることが許されなくなって。1人で悩んで傷ついて。本当は周りがいうような、格好の良い上司なんかじゃなくて」
缶を開けようとしても開けられない伊藤さんに見かねて、伊藤さんが持っている珈琲の缶に手を伸ばす。
しかし、その手は取られてしまった。
「宮本さんは優しいですね、こうして、俺が困っていたりすると無言で助けてくれる」
「・・・ご迷惑でしたか?」
「まったく。むしろ、貴女と付き合っている男性が羨ましいと思います」
・・・ん?
付き合っている男性って、なんだ。
彼氏ということか?
伊藤さんが手を放してくれたので、彼が持っている缶の蓋を開けてから考え直す。
なにか伊藤さんは勘違いしているような気がする。
「・・・ふぅ、すみません、折角の休憩時間をとってしまい」
「いえ・・・」
「こんな俺ですが、頼りない俺ですが、ついてきてくださいますか・・・?」
その眼は不安を帯びているようだった。
夕日のような、綺麗な瞳は今にもこぼれ落ちてしまいそうで・・・。
「伊藤さん以外に、誰についていけばいいのですか」
不甲斐なくても、頼りなくても。
私の、宮本灯子の上司は、伊藤さんだ。
「・・・ありがとう、ございます」
安心したように笑ってから、残っていたのだろう半分の珈琲を一気に飲み干す伊藤さん。
そして空になった缶を握りつぶして、今度は自信ありげに、笑った。
「さて、仕事に戻りますよ。宮本さん」
「・・・お手柔らかに、お願いします」
「死ぬ気でいきましょう!」
「死抜きでお願いします!」