第一章:墓守
徐々に太陽が昇り、辺りは明るくなる。
まだ夜も明けきらない早朝の山の中。その一箇所に、木が切られ石で舗装された、比較的開けた場所があった。
そこは"竜の墓"と呼ばれている遺跡で、二千年前に世界を支配した竜王・ヌバヌバが封印されている。
そしてその竜の墓に、こんな時間から一つの影があった。
「ふう、これで良しと」
そこにいたのは少年だった。その茶髪は寝起きというのも相俟って、普段よりも更にボサボサだった。
彼はたった今、清流から汲んできたバケツの水を半分程瓶に移すと、その瓶を祭壇に置く。そしてバケツの中の水を撒いて、辺りを清めた。
「よし、これで終わり。あ〜やっと帰れるぜ」
少年はそう言うと、欠伸をしながら大儀そうにバケツを仕舞う。そして腹減った〜、と呟きながら山道の長い階段を下って行った。
夜はすっかり明けていた。
彼はアレク・フレーシェという十七歳の少年で、竜の墓のある山の麓に住んでいる。
彼の先祖は、二千年前に竜王を倒した勇者・フレーシェその人である。彼の一族はここ東のフレーシェで、二千年もの間、竜王の胴体の骨が封印された竜の墓の墓守を務めてきた。
アレクも十五の時に、父から墓守を受け継いだ。それ以来毎朝、ああして祭壇を清めているのである。
尤も面倒臭がりのアレクとしては、墓守など重荷以外の何物でも無い。
「ただいま、親父。腹減ったよ。何か食い物ある?」
帰って来たアレクは手も洗わずに、テーブルにあったパンを口に放り込む。
「先に手を洗わんか。――墓に異常は無かったか?」
アレクの父が皿を洗いながら尋ねる。アレクは、今度は卵を放り込んだ。
「何も。いつも通りさ。異常なんてあるわけ無いぜ」
「アレク、甘いな。油断は禁物だ。今は戦争中で、いつ敵襲があるとも限らん。いいか、我ら墓守というのは……」
「はいはい、如何なる時も敏感に適切に、だろ。――馬鹿馬鹿しい。竜王が復活するわけないさ」
アレクは飲み終えた牛乳のコップをテーブルに置いた。
「どこへ行く」
朝食を終えて立ち去ろうとしたアレクに、彼の父は尋ねた。
「別にどこも。昨日は寝るのが遅かったから、もう一眠りして来る」
アレクはそう言うと、扉の向こうへと消えた。ここで初めて、アレクの父は微笑んだ。
「セオドアのヤツが帰って来るらしいぞ」
「何だって! セオドア?」
途端に足音を立てて現れるアレク。父の小さな呟きは、きちんと聞き取れたらしい。
「ああ、お前が帰って来る少し前に村から伝言があってな、昼までには帰って来るだと」
セオドア・フレーシェ。
彼はアレクより三歳年上で、兄貴分だった。昔は剣術の稽古と称して、よく一緒に遊んだ。今はこのカハラニア王国の国軍に所属している。
ちなみにアレクとセオドアは、名字は同じだが、血が繋がっているわけではない。東のフレーシェでは、皆の名字はフレーシェなのだ。これは、海の向こうにある西のフレーシェでも同じ事がいえる。
「分かった。じゃあ街にでも行ってみる。昼飯はいらねえ」
アレクはそう言うと、玄関へと向かった。
「あまり、遅くなるんじゃねえぞ」
「分かってるって」
アレクは家を出る前に、戸口に立て掛けてあった二振りの剣を掴み、腰に差す。護身の為というのもあるのだが、彼はセオドアに剣の上達振りを見てもらいたいのだ。
「じゃ、行って来る」
アレクは外に出て歩き出す。街へと向かうその足取りは軽かった。
「そろそろ帰って来る頃か?」
フレーシェの街の市場。年がら年中賑わっているこの市場に、アレクはいた。
「そうか。そういやセオドアが帰って来るんだってな。しかし軍属たあ、立派なもんだ。こっちに帰って来るのは何年振りだ?」
「二年振り」
恰幅の良い屋台のおじさんの問いに、アレクが答える。フレーシェは小さな街だ。街の人々も、セオドアの帰郷の事は知っているらしい。
アレクは、屋台で買ったサンドイッチにかぶりついた。
「おっさん、これウマいな。もう一つ買うわ」
「毎度あり」
アレクが二つ目のサンドイッチを食べ終わった時だった。
「よっ。チビ」
突如、背後から聞こえたその単語に素早く反応して、アレクが一瞬で振り返る。
「誰がチビだ!」
「……確かに、もうチビとは言えないな」
「当たり前だっ!」
そこには、二年振りに会うセオドアがいた。
二年という月日を経て、アレクの目の前にいるセオドアは、記憶の中のセオドアとは、やはり違っていた。その金髪はもっと長かったし、昔よりも逞しくなった印象を与える。
「何だ。二年も会わなかったからって、俺の顔を忘れたのか?」
しかし、その声や陽気な喋り方は、やはりセオドア自身だった。
「んなわけ無えだろ。それより、いつ帰って来たんだよ。セオドア」
アレクはサンドイッチの包み紙をグシャグシャに丸めて、ポケットに突っ込んだ。
「ん? たった今だ。お前の姿が見えたから、寄ってみたんだ」
そう言って、セオドアは笑った。
「なあ、前みたいに剣を見てくれよ。あれから俺、結構上達したんだぜ」
腰に差した双剣を見せながら、アレクが言う。
「いいけど、ちょっと待ってくれないか。寄りたい所があるんだ」
「寄りたい所?」
聞き返すアレクにセオドアは、ああと頷く。そして竜の墓のある山の方を見た。
「ちょっと墓参りにな」
「しかし懐かしいな。昔はよく登ったよな、俺とお前とジェニで」
山道の長い階段。周りには誰もいなかった。竜の墓付近の共同墓地へと、二人はひたすら登り続ける。
「俺なんか毎日登ってる」
不機嫌そうに言うアレクに、セオドアは納得した。
「そうか。今はアレクが墓守なんだな」
アレクは、フンっと鼻を鳴らした。
「あんなの面倒なだけだ。冬なんかマジで最悪だぞ。雪が降ったら、寒いのなんのって」
セオドアは、まあまあと言いながら笑った。
なだらかな傾斜を描く、少し広めの広場。小さな白い墓石が等間隔で並ぶフレーシェの共同墓地。
ここには、七年前の大洪水で亡くなったセオドアの両親やアレクの母親、生きていれば十六になるアレクの弟のジェニの墓がある。
土が剥き出しの地面には、落ち葉や雑草などは見当たらない。
「ここに来るのも二年振りか」
感慨深そうに目を細め、当たりを見回しながらセオドアが言う。
「言っとくけどな」
少し前を歩くセオドアの背中に向かって、自慢げにアレクが言った。
「俺なんか四日に一度はここに来るんだ。昨日も来て、ここら辺を掃除した。見ろよ、ゴミ一つ落ちてないぜ」
アレクは、共同墓地の墓守でもある。
「はいはい、えらいえらい」
セオドアは、苦笑しながら言った。
やがて、一つの墓の前へと辿り着く。花崗岩で出来たその墓石に彫ってあるのは、セオドアの両親の名前。
「俺も、母さん達の墓に行って来るわ」
少し居心地の悪くなったアレクはセオドアに告げると、逃げるように立ち去る。セオドアは横目でそれを見て、やがて墓に向き合った。
一方アレクは一直線に、母親と弟の墓へと行く。そして、どこからか取り出した花を置いた。
四日に一度は来るといっても、その都度墓を拝むわけでは無い。初期の頃はそれこそ毎回のように拝んでいたが、最近ではそれも稀になった。
この墓の下には何も埋まっていない。母親も弟も、死体が見つからなかったのだ。それも墓を拝まなくなった理由の一つである。
(母さん、ジェニ)
アレクはそれでも一応、形式上の墓へと話し掛ける。
(まあ、特に何も無いけどな。セオドアが帰って来たぜ。すぐにまた行くらしいけど)
墓を拝むのは久しぶりなのに、アレクは話す事が無かった。
(じゃあ、また来るわ)
馬鹿らしいとは思いつつも、別れを告げる。
見るとセオドアも終わったようなので、アレクはそちらへ歩き出した。
「ここは平和だよな」
セオドアが、そっと呟く。
「まあ、近辺で戦争は無いから」
「帰って来る時に、色々見た。南部は酷かったぞ。どこもかしこも焼け跡だ」
セオドアは、顔をしかめながら言う。
「やっぱり竜王派か?」
竜王派。それは二十年程前に、突如現れた勢力である。彼らは竜王ヌバヌバを神と崇め、カハラニア王国へと宣戦布告をしてきた。
「ああ。今カハラニアに敵は、奴らしかいない」
セオドアは、空の彼方を見上げながら言った。
「ふーん。――それよりさ、セオドアはもう初陣は済んだのか?」
突然アレクが興味深そうに尋ねる。
「まあな……と言いたい所だけど、実はまだなんだ。士官学校を卒業したばかり」
「士官学校? 将校にでもなるつもりかよ」
アレクは驚いて聞き返す。セオドアは、まあなと呟いた。
「せっかくフレーシェを出たんだ。今だって見習いだけど、小尉だしな。なるなら将軍にでもなってやる。そうしたらフレーシェも有名になるだろうな。大将軍セオドア様の故郷って」
熱弁するセオドアを珍しく思いながら、アレクは言った。
「フレーシェは今だって有名だろ? 竜の墓があるから」
夏の風が、二人の間を通り抜けていった。