第5話 放課後の図書室
週明けの月曜日。校舎の窓から差し込む午後の光は淡く、どこか眠気を誘う。授業が終わり、部活動に向かう生徒たちの喧騒が廊下に溢れていたが、俺は珍しく図書室に足を向けていた。
理由は一つ。東雲が放課後、よく図書室に通っていると聞いたからだ。
彼女は人前に出ることを苦手としている。それでも図書室だけは別らしい。静寂に包まれ、誰にも邪魔されないその空間が、彼女にとって唯一の居場所なのだろう。俺は少しだけ胸がざわつきながら、扉を押し開けた。
図書室の中は薄暗く、木の香りと紙の匂いが混じり合っていた。整然と並ぶ本棚。窓際の席には、数人の生徒が教科書を広げて勉強している。だが、俺が探している姿は奥の方にあった。
窓際の隅、外の夕焼けに背を向けて座る一人の少女。肩までの黒髪を揺らしながら、文庫本を静かに読み進めている。その姿は周囲の喧騒から切り離されたかのようで、まるで別の世界にいるように見えた。
「……東雲」
声をかける勇気は出なかった。ただ、俺は近くの席に腰を下ろした。机の表面は少し冷たく、緊張で汗ばむ手のひらを落ち着かせるにはちょうど良かった。
ページをめくる音が、静かに空間に溶けていく。俺は手に取った本を開いたが、文字が頭に入ってこない。意識はどうしても、斜め前に座る彼女に引き寄せられてしまう。
──不思議だ。たった数日前までは、ほとんど話したこともないクラスメイトだったのに。今はこうして、一挙一動に心が揺れる。
ふと、東雲が顔を上げた。前髪の隙間からこちらを見やる。俺は慌てて視線を本へ落としたが、心臓の鼓動は隠せない。耳の奥でドクンドクンと鳴り響き、全身に熱が広がっていく。
彼女はしばらく俺を見つめていたようだが、やがて小さく笑った。その微笑みは、教室では決して見せない種類のもので、まるで秘密を共有する仲間に向けられた合図のようだった。
「……来ると思ってた」
小さな声が聞こえた。俺は驚いて顔を上げる。
「え?」
東雲は本を閉じ、膝の上に置いた。頬にかかる髪を指で払う仕草が、いつもより自然に見える。
「……日記、見られちゃったから。もう、隠しても仕方ないでしょ?」
俺は言葉に詰まった。日記のことを持ち出されるとは思っていなかった。彼女の瞳は不安げに揺れていたが、それ以上に覚悟の光を宿している。
「……それで、来てくれたんでしょ?」
俺は正直に頷いた。「ああ。気になって……」
そこまで言って、声が小さくなる。図書室の静寂に吸い込まれるようで、自分の言葉が場違いに響いた気がした。だが東雲はふっと息を吐き、目を細めた。
「変なの。私、こんなに誰かと話したいって思ったの、初めてかも」
彼女の告白めいた一言に、胸が締め付けられる。今までどれほど一人で過ごしてきたのだろう。その孤独に寄り添えるなら、俺はどうすればいいのだろう。
「……俺でいいのか?」
気づけばそんな言葉が口からこぼれていた。自分でも驚くほど真剣な声だった。
東雲は少し目を丸くし、それから静かに笑った。
「うん。君だから、いいの」
その笑顔は、どんな小説よりも鮮やかで、俺の胸に刻み込まれた。
その後、俺たちは互いに持っている本を紹介し合った。彼女は古い児童文学を好み、俺は軽いミステリーが好きだった。ジャンルは違うけれど、不思議と会話は途切れなかった。本を介して繋がる時間が、こんなにも温かいなんて知らなかった。
図書室の窓の外、夕陽が沈み、校庭が闇に包まれていく。やがて閉館を知らせるチャイムが鳴り響いた。俺たちは慌てて本を片付け、立ち上がる。
出口までの短い道のり。肩が触れるほど近くを歩くのに、言葉はもういらなかった。沈黙が心地よく、互いの存在だけで十分だった。
図書室の扉を閉めるとき、東雲が小さく呟いた。
「また、一緒に来てくれる?」
その問いに、俺は迷わず答えた。
「ああ、もちろん」
その瞬間、彼女の瞳がほっと緩んだのを、俺は見逃さなかった。
図書室という静かな世界の中で始まった小さな約束は、やがて俺たちの未来を大きく変えていくことになるのだと──そのときの俺はまだ知らなかった。




