第1話 放課後の告白
六月の終わり、湿った風が校舎の周りをうねるように流れて、放課後の教室はどこか重たく沈んでいた。窓の外には鉛色の雲が垂れ込み、グラウンドには雨の残りの水たまりが点々と光る。浅見悠斗は教科書を鞄に押し込み、いつものように何気ない仕草で帰り支度をしていた。
「……あの、ちょっといいですか」
背後の声に振り返ると、白石紗良が立っていた。長い前髪が目を隠し、鞄をぎゅっと抱える彼女は、普段通り静かに、しかしどこか決意めいた空気をまとっている。クラスではあまり目立たない存在だが、その日彼女が発した言葉は確かな震えを伴っていた。
「わ、私……好きです! つ、付き合ってください!」
教室の空気が一瞬で止まるような感覚があった。誰かが笑いをこらえる音、椅子がきしむ音がかすかに響き、数人の視線が一斉に俺へ向く。冗談だろうと笑いたかったが、白石の瞳は真剣そのもので、頬は真っ赤だ。ここまで本気を感じたのは初めてだった。
「…………は?」
素直な驚きの言葉が出る。白石は一呼吸おき、それから俯いてからゆっくりと話し始めた。
「それは、あとで話します。放課後、校舎裏に来てください」
彼女はそのまま教室を出ていった。残された俺と友人たちは、からかい半分の会話を交わすが、どこか本気味に聞こえる彼女の声が頭に残った。
放課後の校舎裏は、夕陽に薄く縁取られていた。フェンスにもたれた白石は小さく震えている。遠くで自転車の音がし、蝉の声が弱々しく響く。彼女は鞄の紐を握りしめ、俺に向かってゆっくりと告げた。
「去年の冬、助けてもらったんです。駅前の裏道で知らない人に声をかけられて、怖くてどうしていいか分からなかった。あなたが『一緒に帰ろう』って言ってくれて、すごく安心したんです」
その夜のことは断片的に思い出される。冷たい風が頬を刺した夜、街灯の下で震えている少女の背中。俺は大したことをしたわけではない。ただ、自然と彼女の隣に立ち、「一緒に帰ろう」と言っただけだった。だが、白石にとってその一言が運命のように重要だったと知り、胸の中に複雑な感情が湧いた。
「ありがとう」と「好き」という二つの言葉を同時に告げられ、俺は戸惑いながらもその重さに押されるようにして言葉を探した。白石の瞳には涙が滲んでいて、震える声に覚悟が宿っていた。それが真実なら、俺はその気持ちを尊重したいと思った。
その夜、家での食事は妙に味気なく感じられた。母親が「最近どうした?」と聞いてきても、うまく説明できない。布団の中で反芻するのは、白石の真剣な顔とあの冬の夜の少しの温度だけだった。人に向けたささいな行動が、誰かの命綱になることがある。そんな単純な事実が、静かに心に刺さる。
翌日、教室では既に噂が広がっていた。昼休みの購買には「白石が告白したらしい」という話が行き交う。だが白石自身は変わらず静かにノートを開いている。頬が赤いその姿に、俺は守るような気持ちを抱いた。
昼に机の上にそっと置かれていたのは、白い紙片。整った字で「放課後、少し話せますか」とだけ書かれている。差出人は言うまでもなかった。俺はそれを握りしめ、放課後の時間を待ち遠しく感じながら授業を受けた。
再び校舎裏で、白石は小さな水色のノートを差し出した。表紙には小さなシールが貼られ、角は少し擦り切れている。ページをめくると、日付ごとに細かい字でメモが連なっていた。
「2/03 今日、○○先輩が階段で待っていてくれた。嬉しかった」
「3/11 図書室で本を手渡してくれた人がいて、助かった」
「4/28 朝、後ろから『気をつけて』って声をかけてくれた。心が温かくなった」
「5/20 教室の戸を押さえてくれた人がいた。ありがとうございます」
それは日常に散らばった小さな優しさを拾い集めるメモだった。白石はそれを「忘れないため」に書き留めており、小さな文字と丸印が、どれだけ丁寧に日々を記録しているかを物語っていた。俺がした「一緒に帰る」というささやかな行為も、そのノートの中にしっかりと残っていた。
「こうして書いておくと、つらい日でも少しだけ頑張れるんです」と白石は言った。まるでそれが彼女の心の支えであり、世界をつなぐ糸なのだと示すような言い方だった。俺は自分のしたことが誰かの生きる力になったことを受け入れ、同時にもっと誰かの些細な変化に気づける自分でありたいと思い始めていた。
数日が過ぎ、二人の関係は少しずつ変わっていく。放課後に一緒に図書室で勉強をしたり、購買でパンを半分こしたり、傘を忘れた俺に折りたたみを差し出してくれたり。白石の笑顔は少しずつ増えていき、何気ない会話の中で彼女の世界がゆっくりと開いていくのが分かった。
ある雨の日には、傘を忘れてずぶ濡れになりかけた俺に、白石はためらいなく自分の折りたたみ傘を差し出してくれた。二人で小さく肩を寄せ合いながら歩く帰り道、雨音がリズムを刻む。彼女は照れくさそうに目を伏せ、でもいつもよりはっきりと笑った。
「風邪ひいたら困りますから」
その一言の無邪気さに、俺は心を奪われた。帰り道の匂い、雨で濡れた髪の束、ささやかな会話の断片が、全て宝石のように感じられた。些細な出来事が、いつの間にか特別な記憶に変わっていく。
でも、すべてが順風満帆というわけではない。白石の存在はクラス内で好奇の目にさらされ、無邪気な興味本位の質問や冷やかしが彼女を傷つけることがあった。ある日、机の上に置かれたノートを見て笑う者がいて、彼女は一瞬顔を引きつらせた。俺はすぐに間に入り、静かにその場を制した。言葉は少なかったが、行動は確かに彼女を守った。
ノートの中には、こんな小さな記録もあった。
「6/12 廊下で後輩が本を拾ってくれた。恥ずかしかったけど嬉しかった」
「6/18 カフェで隣の人が席を譲ってくれた。世界は優しいかもしれない」
「6/26 浅見さんが教えてくれた『一緒に帰ろう』が、今でも胸を温める」
その三行を見たとき、言葉にならない感情が胸を締め付けた。俺は自分の行為が彼女の生活に刻まれていることを改めて受け止めた。人の記憶に残る行為は、必ずしも大きなものではない。時には短い言葉や、ささやかな気遣いが、人を支える柱になるのだ。
日が経つにつれて、白石と過ごす放課後は増えていった。一緒に図書室で参考書を広げ、難しい問題を一緒に解く時間。購買で買ったパンを分け合う時間。教室の帰り道、偶然見つけた小さな公園での短い会話。些細な瞬間が積み重なり、二人の距離は自然と縮んでいった。
だが、どこかで常に「転校」という影がちらついている。彼女はある日、声を震わせて本当のことを打ち明けた。
「実は、来月、引っ越すことになりました。親の都合で。だから、私、このままずっとここにいるわけじゃないんです」
その言葉を聞いたとき、胸が締め付けられるのを感じた。せっかく築いた関係が、本当にあっさりと終わってしまうのかもしれない。白石は戸惑いと後悔を混ぜたような表情で小さく笑い、でもその笑顔にはどこか諦めにも似たものがあった。
「最後まで友達でいてくれますか?」と彼女が聞いた。俺は迷わず首を振った。
「友達で、じゃダメだろ」
その言葉に、白石は目を潤ませ、そして静かに頷いた。二人の間に言葉にならない約束が生まれる。残された時間をどれだけ濃くできるか、俺は自分に問いかけた。
そして転校の日、教室はいつもより静かで、どこか温度が違った。クラスメイトが小さな花束を渡し、白石は手紙を俺に差し出した。几帳面な字で綴られたその中には、ありがとうとこれからの希望が詰まっていた。
『あの日の「一緒に帰ろう」が、私の世界を変えてくれました。いつかまた会えたら、そのときはちゃんと言います。あなたが好きです、と。』
手紙を読み終えたとき、俺は自然と涙がこぼれそうになった。自分の何気ない一言が、人の未来に優しい光を差し込んでいたのだと知ったからだ。白石の笑顔はしっかりと胸に刻まれ、彼女の存在はこれからの自分の行動の基準になった。
その後、俺は白石の手紙を枕元のランプの光で何度も読み返した。手紙には彼女の震えと希望が滲んでいて、行間をたどるたびに胸が温かくなる。日常の些細な優しさが、誰かの世界をどれほど変えるのか、俺は深く実感した。翌朝、窓際の席に座りながら、俺は小さく決めた。これからはもっと目を向けよう、と。
そして、白石がくれた日々の記録は、これからの俺の判断基準になった。言葉にしなくても誰かの小さな支えになれる人間でありたいと、俺は思った。廊下の冷たい空気の中で、静かに未来を考える。
小さな優しさが巡れば、いつか世界全体が少しずつ優しくなると、俺は信じたい。だから、今日も誰かに手を差し伸べよう。