怪物の安息
私が覚えているは、全てがゆっくりと動くスローモーションの世界。
私の初恋であり婚約者の彼は、私ではなく別の少女の腕を掴み少女を救った。
彼は少女を抱きしめ、落ちてゆく私と目があう。
そこには絶望に染まった顔をした私が彼の瞳に映っていて、私を見ている彼は。
…嗤った。
落ちてゆく。
貴方を好きだったのに。
落ちてゆく。
嫌だ。
なんで?
私が何をしたっていうの。
このまま死ぬの?
怖い怖い怖い怖い怖い。
あの人に見捨てられた。
彼女が大切なんだ。
怖いよ、誰か。
もうすぐぶつかる。
嫌、このままなんて嫌だ。
だって哀しい。哀しい、哀しい、哀しい、悔しい、嫌い、大嫌い。
アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア。
心がどろりとした絶望に溶けて、私は奈落へ落ちてゆく。
そのまま彼との距離が離れて。
ドンッッッッ!
「痛っ…」
またこれか。
私はベッドから落ちる。だから絨毯はベッドの周りだけニ重にしてふかふか。怪我はしないけど目覚めの気分は最悪。
あの落ちる映像を見た日はツイてないから嫌なのだ。
それと、私は十八歳で死んでいる。
と、思う。
あんなに現実味があったのに日が経つにつれて曖昧になる。最近はただの夢だったのかと思うくらい死の衝撃は薄れてきた。
でも体は覚えている、トラウマになった高所の恐怖は消えない。
十八歳のあの日、高所から落ちて死んだ筈なのに、気がつけば十三歳の私で絶叫したのは三日前の話。
一日、二日と時間が経つと記憶も感情も段々と曖昧になって怖くなった。
このまま忘れて死ぬのは嫌だ。
また見捨てられ落ちて死ぬ人生なんて嫌。
気がつけば必死に記憶を紙に書き殴り徹夜で書きあげた紙の束を見つめる。
朝の陽の光に照らされ、私が思い出せるありったけを書いた記憶を眺めた。
絶対に死ぬもんか。
◆◆◆◆
ある日、突然ナーシャの態度が変わった。
僕に対して馴れ馴れしくて鬱陶しい執着が無くなり、別人かと思うくらいの変貌を遂げた。
「変わったね」
「そうですか?そう見えるなら自覚しただけです」
「自覚?なんの?」
ナーシャは僕を見つめて。
「ふふっ。淑女らしさを自覚したんですよ」
冷たい笑顔でそう言った。
その冷たい笑顔に衝撃を受け動揺する。
「そ、そうか…」
「丁度お時間なので帰ります。それでは、また来月にお会い致しましょう。失礼します」
お互い十歳で婚約者となった。それから三年が経つ。婚約者の義務として月に一度の顔合わせ。席に着き会話も少なく静かに紅茶を飲むとナーシャはさっさと帰ってしまった。そのルールを決めたのは他でもない僕。
『月に一度の顔合わせで色々と話したい事もあると思うけど、僕は少しでも勉強したいんだ。ナーシャも未来の夫が賢い方が良いと思わない?
結婚したら時間は沢山あるんだし、だからこれからは、この紅茶を飲み終わったら顔合わせ終了でいいよね』
婚約して二回目の顔合わせの時に、ナーシャに告げたセリフだ。顔を赤くして要領も得ずグダグタと同じ話を繰り返していたナーシャに優しく告げるとナーシャは静かに頷いた。
馬鹿な奴。
優秀な腹違いの弟に追い抜かれないよう勉強したかった僕は無駄な時間は少なければ少ない程いい。
それでも今迄のナーシャであれば、出された紅茶をちまちまと飲みすすめ無駄に時間を長引かせ僕はその度に怒りでどうにかなりそうだった。
お前のせいで僕の時間が減ってゆく。
僕の話を理解すらしていない、この馬鹿に。
今迄のナーシャとまるで違う事に、ザワザワと腹の底が落ち着かない。なにか見落としている?ナーシャが変わったと普通に喜んでいいのか?あのナーシャが変わるのか?
もしかして、変わった自分をみせて僕の気を引こうとしているのだろうか?これが今迄のナーシャを考えると一番ありそうな事だ。
なあんだ。騙されるところだった。
混乱しかけた思考は納まりがついてもうナーシャへの興味は無くなった。
◆◆◆◆
婚約者が決まったと父に言われ、彼と初めて顔合わせをした十歳の日、私は恋に落ちた、初恋だった。
ふわふわと幸せだったのは次の顔合わせの前日まで。
二度目のお茶会は私だけがずっと話し掛けていた、話が途切れたその時。
『月に一度の顔合わせで色々と話したい事もあると思うけど、僕は少しでも勉強したいんだ。ナーシャも未来の夫が賢い方が良いと思わない?
結婚したら時間は沢山あるんだし、だからこれからは、この紅茶を飲み終わったら顔合わせ終了でいいよね』
心がしんっと静まった。
彼から拒絶されたのは分かったから、心が痛くなった。
お父さまとお母さまは楽しそうに毎日お話をしていた。だからそうしたかったのに。何か間違ったみたいでドキドキと嫌な動機がして、焦れば焦るほど何も言葉は浮かんでこなかった。
だから黙って頷いた。
それからの彼は。
エスコートもしない。
笑顔も見せない。
話掛けても嫌そうにして話を続ける気も無い。
季節の儀礼とされる挨拶の手紙も無い。
誕生日にはプレゼントも贈られた事もない。
彼との間には何もない。
顔合わせは私一人ではない、見兼ねた侍女から侍従へ話は伝わり、侍従は執事へ、執事は父の耳に入れた。
季節の儀礼、誕生日、父も母も顔を曇らせてゆく、最初はそれとなく年追うごとに彼と婚約を見直してはどうかと言われ始めた。
そう、両親も屋敷の皆も心配して心を痛めてくれていたのだ。
それなのに自分さえ耐えれば努力すればと、馬鹿で独りよがりで悲劇のヒロインぶって辛いのに気持ち良くなって恥ずかしい。
これからは周りをよくみて世界を広げてみよう。 そうだ学園に入る前には婚約を白紙にしてもらわなければ。だって彼の最愛の人は学園で出会うのだもの。
また同じ目に遭うのは真っ平御免だ。
『体調が悪いので欠席致します』
美しい文字で書かれたカードが届けられた。そこには謝罪も名前も愛の言葉も何ひとつ添えられていなかった。
嘘だろう?
あのナーシャが体調不良?
婚約者となって、この三年間。風邪をひいても熱が上がっても、ひと目だけも会いたいと来ていたナーシャが。
そんな馬鹿な。
何かがおかしい、何が?と考えても思いつかない。パサリとカードが手から滑り落ちた。
「体調は大丈夫なの?」
「はい、お陰様で。体調管理も出来ず申し訳ございません」
「いや、そんな事は言ってないよ。体調が戻ってなによりだね」
「ありがとうございます」
「……」
「……」
一ヶ月ぶりに会ったナーシャは、とても健康そうに見えた。そしてナーシャから何も言い出さない。煩いくらいお喋りだったのに。
そっと様子を伺うと、ナーシャは庭の花を眺めている。
少し吊り目だがとても美しいアクアマリンの瞳に薔薇色の頬、緩いウェーブの金の髪。ビスクドールの様に美しく整っている。
音もなくソーサーに飲み干したカップを置くとナーシャは立ち上がった。
「丁度お時間なので帰ります。それでは失礼します」
「待ってくれ」
ナーシャはその美しい顔をコテンと横にした。
「ええと、なにか?」
「聞きたい事がある、座ってくれないか」
「…畏まりました」
初めて二杯目の紅茶が出された。
「その…自覚したと言っていたよね。ナーシャは変わったけれど、何かあったの?」
痛いくらいの静けさが支配する。
少しの間があってナーシャは答えた。
「何も。ただ」
「ただ?」
「好かれていないのを自覚しただけです。それだけです」
「え、いや、それは、いつもナーシャが」
「わたくしが悪いと。そうですか」
「いや、悪いというか」
「どうされたのですか?いつもの様に遠慮なく仰ってよろしいのに。気にしませんから」
「え?」
「え?」
今更何を言ってるんだとナーシャが僕を見てきた。確かにナーシャには遠慮せず言ってきた。もう気にしない?どうゆうことだ。
また二人の間を沈黙が支配する。
「わたくしの時間も有限でございますから、今日はこの辺で帰らせて頂きます。それでは失礼します」
気がつけばお互いに紅茶を飲み干していた。僕は呆然として立ち去るナーシャの後ろ姿を見送った。
「え? 父上、今なんと仰ったのですか?」
「ナーシャ嬢との婚約を白紙にした。お前は今の話を聞いてなかったのか?」
「聞いていました!でも婚約の白紙…そんなまさか!」
「ミハエル。何故そんなに取り乱している?
ラインハルト侯爵家とも話し合った事だ。そもそもお前はナーシャ嬢を嫌っていたではないか」
父が呆れ顔をして僕を見た。
「え…だって父上。この婚約はナーシャがどうしてもと我儘を言ったからでしょう?」
「誰がそんな事を言ったが知らんが、この婚約は我が家からお願いしたものだったのだぞ?
それをお前はブチ壊しておいて。なにがナーシャ嬢が願っただと?寝言は寝て言え!」
父上は顔を真っ赤にして僕に怒鳴り散らす。
は?我が家からお願いした?そんなの聞いてない。
「お前の態度でお怒りのラインハルト侯爵に頭を下げ猶予を頂いていたのに。
ナーシャ嬢はな、最初の頃は冷たい夫婦関係では長い人生勿体ない、だからお前と関係改善をしたいからもう少し様子を見て欲しいと言ったそうだよ。あちらのラインハルト侯爵夫妻は仲睦まじいからな。
彼女の両親を見て育っただろう、お前とも心を通わせようと頑張ってくれていたのに。
それをお前は…お前は!!
いくら言ってもナーシャ嬢を蔑ろにしおって!!
最後は大嫌いと言っていたそうだ。お前の育て方を間違ったわ。跡継ぎは異母弟のヨルンにする、わかったならもう部屋に下がれ」
え?
ナーシャが僕の事を大嫌い?
そんな馬鹿な。
僕は部屋にどうやって戻ったのか覚えていない。
◆◆◆◆
あの婚約白紙の日から三年経ち、学園に入学した。
僕は三年ぶりにナーシャを見ている。僕の婚約者だった頃よりもさらに美しくなっていて、彼女は新入生代表で入学式の挨拶をしている。それは入学テストが首席だという証だ。
あんなに馬鹿にしていた彼女は、馬鹿でもなんでもない。僕よりも余程優秀だった。
父から後継者を異母弟にされた僕は勉強する気力すらなくただ惰性で学園に入学した。
「なぁ、挨拶している子物凄く綺麗だな」
「あぁ、美人だよな」
ナーシャを称える声が小波のように広がるのを僕は歪な優越感で聞いていた。
お前達が絶賛しているナーシャは僕の婚約者だったんだ。お前達が知らない子供の頃のナーシャを知ってるんだ。
ドロドロとした感情が胸に広がってゆく。
皆が羨望する『あれ』は、僕のものだったんだ。
顔を真っ赤にして僕を見ていたんだ。
「ナーシャ!」
廊下を歩くナーシャに態と大きな声で話し掛けた。これで無視も出来ないだろう。
ゆっくりと振り返るナーシャは酷く迷惑そうな表情をしていて、僕は一瞬で頭に血が上る。
「これはグレイド侯爵子息様。大きな声でどうかなさいまして?
それと何故、許しもなく私の名を呼ぶのですか?」
ザワザワと人の声。
合間から、なんだアイツとか、なにあれなんて聞こえてくる。
「お、幼馴染みを名前で呼んで悪いのか?」
「はあ?幼馴染み?変な夢でもみてらっしゃるのですか?グレイド侯爵子息の貴方と幼馴染みだった事は御座いませんが」
ナーシャはそっと近づき僕にだけ聞こえる小声で囁いた。
「貴方様とは政略の元婚約者同士。幼馴染みなんてそんな情を通わせ合った仲では御座いませんでしょう?
わたくしと顔を合わせるのも嫌がっていた元婚約者様。今更なんの御用かしら?
貴方様とは、もうなんのご縁も御座いません。もう話し掛けないでくださいませ」
ナーシャは僕を残して去っていった。
一度も振り返らず。後に残された僕はただの笑い者。
俯く僕の目は暗く濁る。
許せない。
許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない。
この僕を袖にしたのも。人が大勢いる前で虚仮にした事も。なによりもナーシャの癖に僕を見ないなんで絶対に許せない。
身の程をわからせないと。
どうやって?
勉強で?
財力で?
力ずくで?
やってやる。見返してやる。私が悪かったと言わせてやる。
そうだ命が掛かった選択を与えてやればどうだろう。
助かりたいなら、這いつくばって命乞いするはずだ。
助けて下さい、私が悪かったです、と言うナーシャを想像するだけでゾクゾクする。
毒がいい? それとも剣で脅す? 紐で身動き取れない様にする?
そうだ、高い場所から落としてやるのはどうだ。落ちるのを必死に堪えて、体を支える指を一本一本剥がしてやれば。泣き喚いてナーシャも反省するだろう。
目の前が急に明るくなった。
ナーシャを従わせるのが僕の使命なんだ、あのナーシャが僕に許しを乞うたと父上に伝えたらきっと僕を見直してくれて僕を後継者に戻す筈だ。
あはっ!こんな簡単な事になんで気が付かなかったんだろう。
それからはナーシャを見ていた。学園で朝から授業が終わって下校するまで。
最初はこっそりとナーシャを見ていた、誰にでも淑女の微笑みを向け、態とすれ違う様にナーシャの横を通り過ぎる時、僕にだけ無表情なナーシャに苛立つ。
「僕にだけ無表情なんて良くないよね」
あれはほんの偶然、いつも隠れてじっとりと見つめていた、隠れていた机にぶつかり音を立ててしまった時のナーシャの怯えた顔。
ナーシャは気がついていたんだ。素知らぬ顔をしてずっとずっと我慢していたんだ、昔みたいに我慢していたんだ。ゾクゾクとした興奮が背筋を這い上がる。
それからは少しずつ僕の存在を分からせるために、僕でナーシャの世界をじわじわと侵食させてやった。
朝早くきてナーシャの机に泥をぶち撒けてやった。
ナーシャの身の覚えのない噂を流してみた、男にだらしない阿婆擦れ、もう純潔ではない、金使いが荒い、使用人を甚振る悪女なんだと。
こっそりとナーシャのハンカチを盗み僕はハンカチの香りを吸う。
あぁ、ナーシャナーシャナーシャナーシャナーシャナーシャナーシャナーシャナーシャナーシャナーシャナーシャナーシャナーシャ。僕の中心は熱をもつ。
そんな日々を送っていたら、気がつくとあの入学式の挨拶した日から半年経っていた。ナーシャばかり考えていたら元々惰性だった勉強は殆ど疎かになり、学力テストの成績も底辺だった。
そんなものナーシャを取り戻せばどうとでもなるさ。
そんな時、父に呼び出された。
「呼び出された理由が分かるか?」
「……成績の事でしょうか」
「成績か、まあそれもあるが」
父は氷の様に冷たい目を僕に向けていた。
「お前はグレイド侯爵家を潰すつもりなのか?」
「は?え?潰す?何を言ってるんです?父上」
対面した机の上に分厚い書類が置かれた。
「これはお前のここ三ヶ月の報告書だ」
「え…?報告書?」
「ここまで言ってもまだ分からないか、ならば今読め」
震える指で報告書のページをめくる。
それはここ三ヶ月の僕の行い全てが記録されていた。僕は保身に走る。
「ち、父上違います!これは嘘です出鱈目です」
「黙れ」
「父上信じて!」
「黙れ!!!」
思い切り殴られた。
「ラインハルト侯爵の調査と学園の魔導具による映像、ラインハルト侯爵より強い抗議があり何かの間違いではないかと我がグレイド家からも影をつけた、その結果がこの報告書だ。わかるか?」
ナーシャが親になにか言ったのか?あの糞女。僕が何を思っているか分かった父は冷たい目をして言った。
「ナーシャ嬢は何も言っていない。
怯える娘の様子に異変を感じた侯爵が調査を始めたのだ、お前の悪趣味なナーシャ嬢の噂も直ぐに潰して対応した。
ラインハルト侯爵家より三ヶ月の期間を設けられた、期間中にお前の嫌がらせ行為をやめたらお前の謝罪と慰謝料と迷惑料を支払う事にしてもらったのだがな。
お前はどんどんエスカレートするばかり。ミハエルお前は一体何なのだ?」
殴られた痛みと全て知られ見られていた羞恥、報告書の他人の目を通した僕の悍ましさ。
「しかもよりによってナーシャ嬢を害する計画すらたておって…まさか我が子がこんな事を企てる外道だとは、よってお前はもう我が家の家名を名乗ることは許さない。お前が、今回しでかした事の後始末は、十六年間お前の父として最後に尻拭いしてやる。
だがな、今後もう親でも子でもない、分かったか」
頭が真っ白になった。
「どうしたんですかぁ?大丈夫ですぅ?」
背後から甘ったるい声を掛けられる。
振り向けば、ふわふわのピンクゴールドの髪に金の瞳の愛らしい少女が立っていた。
父から貴族抹消の手続きをされ、使用人に予め纏められた僕の荷物をもったまま腫れた顔でふらふらと学園にきていた。
「え…誰?」
「何かぁ元気がなかったみたぃなんでぇ〜声かけちゃった!」
「へぇ……そうなんだ、ありがとう。ねぇ君の名前は?」
「えっとぉ… 私はお前の死神かな?」
死神?何を言ってるのか理解出来なくて、にっこり嗤う少女を見つめていたら背後から羽交い締めにされ何かを嗅がされて………僕の意識はそこで途切れた。
□□□□□
「た、助けてくれ!何でもする!お願いだ!」
「ですって、どうします?お嬢様」
「ミハエルの計画では私の指を一本一本剥がしてだったかしら?」
「はい、その様です」
「ならそうして?」
「お前たち指を剥がして」
「はっ!」
屈強な護衛達が崖にしがみついているミハエルの指を剥がしにかかった。
「嫌だ!!何でもする何でもするもう嫌がらせもやめる!助けて!助けてくれ!
僕が悪かった!!ナーシャ僕が悪かった許してくれ」
崖の安全な場所でナーシャは簡易の椅子に座りミハエルの泣き喚く姿を見ていた。
昨日はこの計画前夜という事もあり少し夜更かししたせいで眠い、扇で隠してふぁと欠伸をする。
「お嬢様、眠いのですか?」
「少しね」
「お前達早く剥がしておしまい」
「はっ!」
「ぎゃああああああ!やめろぉ嫌だ死にたくない!」
そろそろかと立ち上がり、侍女のアディに支えられ震えながら崖上に立つ。
崖にぶら下がったミハエルの両手の指を護衛達が剥がす。
最後の指が崖から離れてミハエルが崖下へと落ちてゆく。
しっかりとミハエルと目を合わせて。
嗤ってあげた。
□□□□□
十三歳のあの現実味のある死の記憶を書き出した時、ミハエルの側に居た少女の名前も思いだした。
彼女はアデリーナ・ミュ男爵令嬢、あの時ミハエルと一緒に居たって事はこれから関わってくるのかもしれない。
何もしなければ問題は無い、でももし関わってきたら?
少し気になってミュ男爵とアデリーナを両親に聞いてみたら、両親は何を思ったのかアデリーナを侯爵家に招待した。
ガリガリに痩せた女の子がいた。
「初めましてナーシャ・ラインハルトです」
「ア、アデリーナ・ミュです」
「どうぞ座って」
「え、でも、あの、私汚れてるから汚しちゃう…」
「大丈夫よ」
ミュ男爵がメイドに産ませた子、男爵家で虐げられて生きてきたと身の上話をしてくた。
「ねぇアデリーナもし男爵家に帰らなくてもいいなら嬉しい?」
「え?」
私の言葉を聞いて顔を上げたアデリーナの目には少しの希望と混乱と警戒が滲んでいた。
「私の侍女にならない?」
「え、でも…私なんかが侍女に」
「駄目かな?」
「駄目じゃないです!本当にいいんですか?」
「勿論よ、お父様もそう思ってアデリーナと会わせてくれたと思うから」
目をまん丸にしたアデリーナが私の言葉をよく噛み締めると潤んだ瞳で私を見た。
「侍女になりたいです!あの家には戻りたくありません!」
「今日から宜しくねアディ」
「はい、ナーシャお嬢様」
それからアディは私の侍女としてずっと側にいる。
だからミハエルを落とす時、アディに側にいて貰ったのだってミハエルに落とされた時ミハエルの横にアディが居たじゃない?
ならミハエルを落とす時には絶対アディが横に居ないとね、同じ様にミハエルにしてやらないと気がすまないもの。
□□□□□
本当はね、ミハエルがふらふらと学園に現れず、私の知らない場所へ行けばそれでもう良いかなって思っていたの。
でも学園に来たでしょう?。
もううんざりしてたの。
入学してから直ぐに絡まれて、遠くから監視されて、ずっと付きまとわれて、変な噂を流されて。嫌がらせをされて。
もう嫌で嫌で堪らなかったの。
ミハエルのじっとりとした視線を感じる度に鳥肌が立つの。
特にこの三ヶ月は殺されるのかと思う程嫌がらせも付きまといもエスカレートしててね。
だからミハエルが家を追い出されて何処に行くか見張ってたの。
学園でミハエルを見かけた瞬間に私を殺しにきたと思ったわ。だって彼にはもう何も無いじゃない?。
侯爵令息だったステイタスも親のお金で生きてきた庇護も全部無くなったら、あの報告書の事をするだけじゃない?。
そうね、もうミハエルは何も出来ないと思うわ。
やっと私、安息を得られましたのよ。
罪悪感?なにそれ、あの報告書を読むといいわ、彼が実行しようとしてた何十もの恐ろしい案。それを見てから言って欲しいものだわ。
それを私がやったという証拠はあって?
ふふふ、ヨルン様、グレイド家はこれからは貴方の異母兄がいないからきっと評判も持ち直すと思いますわ。
え?ヨルン様の婚約者?
お断りしますわ、
もう、二度とお会いする事は無いと思いますわ。
ええ、さようなら御機嫌よう。
お元気で。