第九話:事件
千紗都の家に人が居ない可能性に気付いたのは、母親の静止も聞かずに家を出てすぐのことだった。かといって千紗都がどの病院に運ばれたのかも分からない。財布と自転車だけで出てきたはいいが、気持ちだけが焦り、三宅の思考を乱していた。
街灯に照らされた夜の住宅街で、三宅の目の前を、家路につくサラリーマンや学生らが通り過ぎてゆく。胸の奥に渦巻いた焦燥感は、安穏とした彼らへの苛立ちに変わりつつあった。
冷たい風が吹き、火照った頬を凪いだ。僅かに冷静さを取り戻した頭で、千紗都が運ばれた病院を麻美に尋ねようと、慌てて携帯電話を取り出した。
携帯電話には着信が来ていた。数分前に麻美から。そして、美亜子からの着信もあった。
麻美の言葉を思い出し、はっとする。千紗都の母親には学校から連絡が来たらしい。ということは、千紗都が倒れたのは学校に違いない。
寒さでかじかむ指で、すぐさま美亜子に電話を掛ける。美亜子が何らかの事情を知っているという確信があった。
呼び出し音が鳴る。だが、一向に彼女は電話に出ない。
呼び出し音が十回を超えて、居てもたってもいられず電話を切ろうとした時、ようやく電話が繋がった。
「もしもし、三宅か」
「先輩! 千紗都が病院に運ばれたって、どういうことですか⁉」
三宅は言下に問い質した。
しばしの間、返事は返って来なかった。逸る気持ちを抑えながら、一言も聞き逃すまいと耳を澄ませる。沈黙はとてつもなく長い時間に感じられた。そのあまりに長い無音に、もしや美亜子も千紗都と共に何かに巻き込まれたのではと、絶望が胸を塞ぐ。
「あの……美亜子先輩?」
恐る恐る、問いかける。自らの脈動が、煩いほどに聞こえてくる。
「……少しは落ち着いたか?」
電話口の声は、聞いたことの無いほど冷たく感じられた。三宅は思わず息を呑んだ。
「これから言う病院に来い。君も、無関係ではいられないだろうからな」
それは学校から少しばかり距離のある大学病院だった。それだけを伝えると電話は切れてしまった。
三宅は呆然として、電話が切れてからも立ちすくんでいた。
寒いはずの外気の中、携帯電話を持つ掌が仄かに汗ばんでいる。正体不明の不安は輪郭を確固たるものにしつつあった。
病院は、学校の近くにもある。それらの中には総合病院もあり、軽度の容態であれば、学校近くの病院に運ばれない理由はない。大学病院に運ばれたのは、それほどの治療が必要だからだろう。
手に持った携帯電話が突然震えた。驚いて身体を浮かし、電話に出る。麻美からの着信だった。
気の抜けた様に電話に応答する。三宅の無事を心配する電話だった。千紗都の入院している病院に行ってくることと、自分の心配は要らないことを伝えて電話を切った。
自転車を飛ばして大学病院に着くと、すでに正面入口の自動ドアは閉鎖されていた。外来患者用の診察時間は過ぎているらしい。
三宅は付近の案内看板を頼りに、夜間入口へと向かう。夜間入口の守衛には、運ばれた御舟千紗都の身内だと言って院内に入れてもらった。適当を言ってから、身元の確認をされたらどうするか懸念が過ぎったが、特に何も聞かれることなく入ることができた。
通路は静かだった。白を基調とした内観で、リノリウムの床が照明を鈍く反射している。
入口を進んですぐのところに、見慣れた人影があった。黒いクッションのロングシートに腰かけていたのは千紗都の両親だった。その傍らに、ダークブラウンのコートを腕に抱えた美亜子が立っていた。神妙な面持ちで俯いている。
三宅が近づくと、三人はほぼ同時に顔を上げた。
「三宅さんの……雄ちゃん?」
声を発したのは、千紗都の母、御舟優香だった。空手をやっていた頃から家族単位の親交があり、最近は疎遠だったが覚えてくれていたらしかった。優香の面影は以前と変わりない。千紗都にそっくりなぱっちりとした目の周囲を、今は赤く腫らしていた。目じりには涙の跡が見える。
「あの、千紗都ちゃんは……?」
「今、集中治療室で……」
優香は消え入るような声で言った。彼女の目線が、丁字に分岐した廊下の先へと向かう。そちらが集中治療室なのだろう。
口を開こうとして、三宅は躊躇した。いったい千紗都の身に何が起こったのか。彼女の容態は。次々と疑問が降って湧くが、傷心している優香にずけずけと質問をするのは無神経に思えた。
美亜子を見ると、彼女は三宅の思いをくみ取ったようで、目で合図を寄越して集中治療室の方とは別の通路へ歩き出した。三宅は慌てて後を追った。
美亜子が向かった先は開放感のある空間になっていた。天井が高く、二階まで吹き抜けになっている。普段は外来患者や見舞客用の待合スペースなのだろう、丸テーブルと四脚程度の椅子がセットになり何組も置かれている。脇には、三人は並んで掛けられるソファや、一人掛けの腰かけ椅子もあった。夜間のせいか人の気配はなく、照明も足元の案内灯が点灯しているばかりで薄暗い。
美亜子は近くのソファに腰を下ろした。
「まあ、君も座れ」
「いえ。僕は……」
座るような気分ではなかった。千紗都の状況を聞くまでは、落ち着いてなどいられない。
「君を見上げて話すのが疲れるんだ。座ってくれ」
美亜子の表情が僅かに和らいだ。乏しい照明のせいか、彼女の顔色は普段にも増して青白く見えた。電話口でもそうだったが、美亜子はこちらを落ち着かせようとしているのだと思い、三宅は大人しく美亜子の隣に座った。
ソファに座ると、遠くに元来た通路が見えた。千紗都の両親が、祈るように手を組んで座っている。二人の姿が痛ましく思えて、三宅は視線を落とした。
「……結論から言おう。おそらくだが、千紗都の命については、無事だ」
美亜子は呟いた。
三宅の頭は混乱した。随分と回りくどい言い方だと思う。推定と限定が入り混じっている。
「あの、先輩。僕を安心させるためなら、遠慮しないでください。はっきり言ってくれた方が、ありがたいです」
三宅が言うと、困ったような顔で美亜子が見つめる。
「参ったな。的確な要約をしたつもりだったんだが……。では、客観的事実を述べることにするよ。今のところ、千紗都のバイタル——心拍、血圧、呼吸、体温には何ら問題はない。ただ、なぜか意識だけが戻らない。原因不明だ」
三宅は絶句した。
部室で最後に見た千紗都の姿を思い出す。部室に残ってほしいと願う彼女の言葉を拒絶した時、彼女の顔はどこか寂しそうに見えた。
千紗都は不安だったのではないか。自分が見た夢のことを誰かに聞いてほしかったのではないか。自分が話を聞いたところで、千紗都を救えたかどうかは分からない。それでも、何か彼女の助けになることはできたはずだ。
「勝手に一人で背負うんじゃない」
美亜子の言葉に、三宅ははっと思考から覚める。自分でも気づかぬうちに、唇を痛いくらいにかみしめていた。
「私にも責任はある。……千紗都はな、私の目の前で倒れたんだ」
美亜子は眼鏡を外して膝の上に置くと、ソファに深くもたれ込んだ。ソファが僅かに沈み込む。背もたれに頭を載せて、彼女は天を仰いだ。
「突然だった。何の前触れもなかった。私には倒れた彼女を抱き上げて、助けを呼ぶことしかできなかったよ」
右腕を持ち上げ、美亜子は腕で目元を覆い隠した。いつも気丈な美亜子の声は震えていた。
なんと言えばいいかわからず、三宅は一瞬、黙ってしまった。もちろん、ことの責任が美亜子にあるとは思わない。だが、そんな言葉は、今の彼女に何の気休めにもならないだろう。
彼女もまた、何も言わなかった。
いつになく弱気な美亜子の姿を見ていると、ふつふつと熱いものが込み上げてくる。三宅の頭はむしろ、明瞭に澄んでいった。まったく事態の飲み込めなかった先ほどと比べ、事態が把握できたからだ。原因不明の千紗都の容態、その根本にある原因は、はっきりしているではないか。
「……先輩。僕は、千紗都を助けたい」
「……私もだ」
「なら僕らは、進むべきじゃありませんか? その先が科学なのか、オカルトなのか、それとも神の領分なのかは分からないけれど……。そいつの首根っこを捕まえて引っ張り出して、千紗都の前で謝らせるまで……僕らは進むべきだ」
言葉にしていくうちに、三宅は身体が熱を帯びていくのが分かった。今日、感情を千々に乱したはずの黒い女への恐怖は消えていた。三宅の心に芽生えたのは、憎悪の炎だった。
美亜子は、制服の袖で目元を拭ってから、上半身を起こした。丸縁の無骨な眼鏡をかけなおした美亜子は、普段の彼女に戻っていた。
「君なら……そう言ってくれると思ってたよ。私が君を呼んだ理由、わかるか?」
「え?」
「私はな、今回の一件、もともと関心が無かったんだ。部室で言ったように、夢にもはやオカルトの領分はないと思ったからな。それに、君の見た夢の話を聞いて、君は無関係だろうとも考えていたし。だが、そうも言っていられなくなった」
三宅は頷く。相談を持ち掛けた時に美亜子がそれほど心動かされたように見えなかった理由は、そうだったのだ。
「これが科学にせよ呪術にせよ、この手の事象が同様の結果を生み出すからには、定式化されたプロセスを踏んで厳密に行われなければならない。明確な型があるはずなんだ。型を逸脱すれば、術は制御を失い、失敗する。だから、君の心配はしていなかった。だがね、君の見た夢を型とは全く違うものと断じるつもりはないんだ。おそらく君の夢は、今回のことに何らかの関係がある」
美亜子の目が、三宅をまっすぐ見据える。
「僕は……僕らは、どうしたらいいでしょうか」
「シェアリングモードを使おう。君の夢を私にも共有するんだ」
FREAMには、通常の個人向けに夢を見るモードの他に、ネットワークを介して他人と夢を共有するシェアリングモードが存在する。ホストの夢にクライアントが参加し、同一の夢を見るものだ。三宅は、誰かとシェアリングモードを使用したことは一度もなかった。
細く息を吐く。三宅には、美亜子の狙いに察しがついた。
「……つまり、僕はもう一度、あの女の夢を見る必要があるわけですね」
「そういうことだ。もちろん、君を一人にしないために、私も一緒なんだ」
三宅は口の中に溜まった唾液を飲み込んだ。
美亜子の提案は、手がかりのない今、有力な方法に思える。自分が今、無事であるという現況を鑑みて、その方法がおおむね安全であることも分かる。
しかし、暗闇で少女が俯いている夢は、繰り返し見たいようなものではない。さしずめ、普段使っている携帯電話の壁紙が、知らぬ前に正体不明の女の写真になっていた驚愕に似ている。FREAMにセットされた夢以外の夢を、それもおどろおどろしい夢を見たことは、目覚めてすぐこそ夢特有の奇妙な感覚に包まれたものだが、振り返ってみると恐ろしいものに感じられた。たとえそれが、黒い女の霊ではないとしてもだ。
目線を正面の廊下に向けた。そこには、先ほどと変わらぬ様子で、娘が入っていった集中治療室の方を一心に見つめる千紗都の両親の姿があった。
誰かが悲しんで、誰かが笑っているのは正義ではない——かつての、千紗都が語った言葉を思い出す。
いったい誰が、何のために事件を起こしているのか。
そいつは今頃、笑っているのだろうか。
三宅は、美亜子の方を見た。
「……やりましょう。千紗都を助けるために」
胸の中で、彼は言葉を続けた。
千紗都を助けて……。
そして、事件を引き起こしている存在に、平手打ちを食らわせるために。