サジタリウス未来商会と「記録する影」
西村剛という男がいた。
40代半ば、地元の不動産会社で管理職を務めるサラリーマンだ。
安定した収入に家族もおり、表面上は順風満帆な人生を送っているように見えた。
だが、剛の心にはいつもある恐れが渦巻いていた。
「このまま自分の人生が、誰にも記憶されないまま終わってしまうんじゃないか……」
同僚や家族に囲まれた日々は平穏そのものだが、そこに自分の存在価値を感じることができなかった。
学生時代は将来を期待される成績優秀な青年だった剛は、自分が「凡庸な大人」になった現実に納得できていなかったのだ。
「せめて、自分が生きた証くらいは残したい……」
そんなことを考えながら帰宅していたある夜、剛は奇妙な屋台を見つけた。
それは、夜の薄暗い路地裏にぽつんと佇む屋台だった。
古びた木製の看板には、手書きでこう書かれている。
「サジタリウス未来商会」
「未来商会……?」
興味を引かれた剛は、その屋台に足を向けた。
屋台の奥には、白髪交じりの髪と長い顎ひげを持つ初老の男が座っていた。
その男は、剛を見ると微笑みを浮かべながら声をかけた。
「いらっしゃいませ、西村剛さん。今日はどんな未来をお求めですか?」
「俺の名前を知っているのか?」
「もちろんです。そして、あなたが求めているものも分かっていますよ」
男――ドクトル・サジタリウスは懐から奇妙な装置を取り出した。
それは薄い板状の機械で、表面には複雑な模様が刻まれていた。
「これは『記録する影』です」
「記録する影?」
「ええ。この装置を使えば、あなたの行動や言葉、人生そのものを影として記録することができます。この影はあなたの周囲で静かに記録を続け、最終的には、あなたの生きた証として残ります」
剛は目を見開いた。
「そんなものが本当に……?」
「もちろん。あなたが何をしたのか、何を考えたのか、すべてが記録される。誰かに忘れられることもなく、確かな形で存在を証明できます」
剛は考え込んだ。
「それなら、俺の人生にも意味があるのかもしれない……」
剛は装置を購入し、家に持ち帰るとすぐに使い始めた。
スイッチを入れると、剛の足元に薄暗い影が現れた。
その影は彼と同じ形をしているが、どこか不思議な存在感があり、動きも微妙に遅れている。
「これが俺の影……記録をしているのか?」
影は無言だが、彼が動くたび、言葉を発するたびに、静かにそれを模倣しているようだった。
翌日から、剛は影とともに日常を過ごすようになった。
会社での会議、家族との食事、趣味の読書――影は剛のすべての行動を黙々と記録し続けた。
最初のうちは不思議な感覚だったが、次第に剛は影の存在に安心感を覚えるようになった。
「これで俺が生きた証は消えない……」
だが、ある日、奇妙なことが起き始めた。
影が剛の動きを記録するだけでなく、時折独自の動きをするようになったのだ。
たとえば、剛が家族と話している時、影が彼の声と異なる言葉を口パクでつぶやく。
また、会社での同僚との会話中、影が彼の立ち位置をわずかにずらし、異なる表情を浮かべているように見える。
「これ……本当に記録しているだけなのか?」
剛は徐々に影の動きに違和感を覚え始めた。
数日後、剛は影が記録した内容を装置で再生してみることにした。
スクリーンに映し出されたのは、剛の日常の記録だった。
だが、その映像には、剛が気づいていなかった自分自身の姿が映っていた。
たとえば、家族と会話をする際の無表情な態度や、部下に指示を出すときの冷たい言葉遣い――剛が気づかぬうちに周囲を傷つけている場面が次々と現れたのだ。
「これが……俺の記録?」
剛は再びサジタリウスの屋台を訪れた。
「ドクトル・サジタリウス、この装置は確かに記録してくれるが、俺の知らない自分まで見せられるなんて思っていなかった!」
サジタリウスは静かに答えた。
「記録する影は、あなたのすべてを記録します。あなたが見せたくない部分や、気づいていない部分も含めて。それこそが本当のあなたです」
「でも、俺はこんな自分を見たくなかった……」
「それなら、記録を続けるのをやめますか?」
剛は考え込んだ。
だが、ふと家族や同僚の姿を思い出した。
「いや……続けるよ。影に記録されている俺が本当の姿なら、それを少しでもいいものに変えたい」
サジタリウスは満足そうに微笑んだ。
「それが本当の記録の使い方かもしれませんね」
その日以来、剛は影の記録を見直しながら、自分の言動を少しずつ改善するようになった。
家族にはもっと優しい言葉をかけ、部下には冷静な指示を心がけた。
記録された影を通じて、剛は自分自身と向き合い、周囲との関係を見直していった。
ある日、剛はふと影を見つめながら小さく呟いた。
「記録されるだけじゃダメだ。未来を良くするために、記録と向き合わなきゃな」
サジタリウスは遠く別の路地で新たな客を迎える準備をしながら、どこか満足げに微笑んでいた。
【完】