僕の人生は、衝撃的につまらない。
僕の人生は、衝撃的につまらない。
つまらなすぎて呆れている。呆れて開いた口が塞がらない、パッサパサに乾いている。この口を潤すときに僕が飲むのは、水出しの麦茶である。心底つまらない。とにかく「普通」すぎる人生を送ってきた。
好きだった給食はあげぱん、生涯黒髪短髪ノンパーマ、少年野球で初めて使ったグローブはミズノ製で、夏は人並みに汗をかく。ガリガリでもなく太ってもない。休みの日はYouTubeを見て雨が降ったりやんだりするのに気づかない時がある。”普通人間”としての徹底ぶりには我ながら目を見張るものがある。道徳の授業の”普通って何だろう”は間違いなく僕である。
家が特別裕福であったり貧しかったりする訳ではなく、悲劇的な出来事や大きな挫折と向き合った過去もさほどない、人から羨まれたり馬鹿にされることすらもあまりない人生。平穏といえばそうだが逆にそうでしかない時間を過ごしてきたわけである。おそらく一般的にこの状況は幸せであるといえるだろう。やりたいことをやろうと思えば、あらかじめ想定できる範疇で実行できる。しかしこれらが当たり前であることの幸せに気づきながらもどこか物足りなく、普通という平和からたまには抜け出してみたくもなるものだ。
そんな僕もたったの1度だけ、普通ではない体験をしたことがある。
普通ではないといっても、腹を抱えるほど面白い話とか泣ける話だとかそういうことではない。波の立たない水面にぽとりと小石を落としたような、時間がたてばなかったことになる、そんな程度のお話だ。でも僕にとってそれはどこか奇妙で、不思議な出来事だった。
大学1年の冬。机の横の窓をふと見ると細かい雨がサラサラと降っている。前夜読みながら寝てしまった小説の続きをぺらぺらめくりながら探し出す。レンジで温めた牛乳を片手に、トースターのパンの具合を気にしながら断片的な話の記憶をつなげていく。
「智樹、あんた今日雨降っているから家出るならちゃんとしていきなさいよ、夜には雪になるかもだって。」
仕事に向かう母親が傘を広げながら僕に言う。母親の”ちゃんとする”という言葉にはどこか恥ずかしさを覚える。思春期に人前でちゃんとしなさいと言われたあの記憶がよみがえっているのだろうか。本に目を向けたままなんとなしに返事をすると母親は家を出て行った。当然僕に予定など何もない。雪対策とは無縁である。次に寝るまでの十数時間はあまりに長く、終わらないように感じる。家には僕一人。静かで寒い部屋にお気持ち程度の電子ストーブがついている。指先をストーブで温めてページをめくって栞をさし、毛布を取ろうと立ち上がった時、突然強い目眩が僕を襲った。
机に手をつき体を支えるが視界は時計回りに回転する。景色は写真のように止まり、その写真が0時から8時の角度ぐらい回転すると、また0時に戻る。8時までグワーと倒れるように回転し、ギュンと素早く0時に戻って視界が歪み続ける。10回くらいそれを繰り返したあとDJがレコードディスクを操るようにどんどんキレを増し、最後に視界が0時から0時に一周して視界は真っ暗になった。
意識があると自覚したのはどれほど経ってからなのだろうか。僕は1人暗闇の世界に取り残された。目をこすりながら立ち上がると、暗闇に目が慣れ徐々に目の前が鮮明に見えるようになっていった。暗闇の世界にスウッと景色が浮かび上がってくる。見えたのは地元の街並み。僕が立っていたのは実家のベランダである。夜空の下でつい自分の体を見る。大丈夫、体には何の異常もない。漫画のような自分の行動に頬を赤らめる。
「智樹、あんた今日雨降っているから家出るならちゃんとしていきなさいよ」
傘を広げながら小綺麗な格好に着替え、「受付・伊藤恵美」と書かれた名札をバッグに入れて母が玄関から大きな声で言う。
「どこへ行くの?」
「仕事に決まっているじゃない、じゃあ行ってきます」
夜に仕事に出かける母。母も家の中も特段何も変わっていない。
ふとテレビを付ける。夜なのに朝放送されるはずの情報番組ばかりやっている。見ると天気予報のコーナーで、今の雨が朝には雪になっている可能性があるらしい。テレビ台の時計がさす時刻は19時13分。当たり前のように世間は動いているが、やっとここでズレた世界に来たことを自覚した。
不思議であるものの恐る恐る外に出てみた。外には通学途中の小学生が列を成し大きな傘を重たそうにもってふらふら歩いている。小走りのサラリーマンがごみを捨て、バス停で足を止める。僕はパジャマから着替えていないのを忘れ夢中で町の中心部まで自転車をとばしてみた。何らいつもと変わらない朝のあわただしい近所の光景が流れている、こんな夜に。弱かった雨がどんどん強くなり、雨宿りのため近くのハンバーガーチェーン店に入った。レジ上のビジョンには朝のメニューが並ぶ。あくびをしながらブラックコーヒー・マフィンセットを購入する大人たちを横目に、僕もマフィンを注文しにレジへ向かう。
「いらっしゃいませ、ご注文はいかがなさいますか?」
「ソーセージマフィンを1つ、単品で。お持ち帰りでお願いします。」
「かしこまりました」
マフィンを小脇に抱え、再び自転車に乗ろうとしたとき、大学の同期小谷から着信があった。
「もしもし、おい小谷、どうなってんだこれ。俺はまだなにがなんだか、、、」
「何言ってんだ伊藤、もう講義始まって出席取り始めてるぞ。お前あと一回休んだら落単って言ってなかったか?席は取ってやったから、急げよな。」
「悪い、ありがとう。すぐ向かう。」
数少ない友人の小谷は大学に入って配属された英語のクラスで隣になり、突然話しかけてきた。自分のやることにまっすぐ向かう自立した男で人に依存しない。他人に頼ってばかりの僕など、自立した彼にとってうっとうしいはずである。しかし僕のどこかを気に入って付き合ってくれている。気が置けない仲であると唯一自信を持って言える友人だ。僕は大学へ急ぎ、常日頃収集してある電車の遅延証明書を駆使して何とか出席扱いを受け昼休憩に入った。夜中の学食に向かって、小谷は味噌ラーメンを、僕は先ほど獲得していた冷えたマフィンをむさぼった。
「てかお前聞いたか?政府の対策本部、やっぱり機能していないらしいな。」小谷が眉間にしわを寄せて言う。
「何の話だ?」
「例の梟だよ、どんどん政府の人間とか頭のいい連中から連れられてるらしいぜ?やべえよな。俺らがこっち側になるなんて思ってもみなかったよ。」
「梟?小谷すまない、詳しく聞かせてくれ。俺もお前に話さないといけない状況にある。」
「あぁ?」
場所を大学の図書館裏のベンチに変える。ここなら雨も防げて人もあまり来ない。
「信じてもらえるかわからないんだが、朝家でのんびりしてたら突然この夜の世界に来たんだ。何がどうなってるかなんて俺にもわからない。夜の街になぜか人が活動していて大学に来たらお前がおかしなことを言い始めて、、いったいこれは何だ?何が起きてるんだ小谷。」
「んーー、お前の境遇はわかったようでわからない。とにかく突然この世界に来たってことだな?じゃあいま日本で起きてることも何も知らないわけだ。」
「さっき言ってた政府がどうのこうのって話か?」
「そうだ。いま日本では人間に代わって梟が世の中を動かしている。」
「はあ?」
何も知らない僕に戸惑いながらも真剣に伝えようと覚悟を決めた顔をして小谷は僕に説明し始める。
「3週間前、千葉の動物病院にペットの梟が調子を崩したって1人のおばあちゃんが連れてきたんだよ。獣医は当然梟の様子を観察して処置しようとしたらしい。そしたら目に異常が見つかったんだとさ。ほら、梟って夜行性で有名だろ?なのにその梟は日中活動して眩しい日の出た時間に目を凝らして突然大きく鳴くらしいんだ。日光にやられてか目に大きなダメージがあって、瞳孔が作用していなかった。それを獣医が目薬で治したら日中目が見えるようになったんだが、重要なのは活動時間が夜に戻らず、日の出ている時間そのままになったってところだ。自由に日中活動する梟は暴れまわって町のものを食い荒らし、各地で大惨事、悲惨なことになった。梟の体はどんどん肥大化して、今は東京タワーの上に留まってんだ。」
「なんだそれ。町もおかしくないし全然ぴんと来ない。それに夜人間が活動してることと何の関係があるんだ?」
「この町は比較的順調に復旧作業が進んだんだよ。それにこの辺はまだ被害少なかったから気づかなくとも不思議はない。そんで人間が夜活動してる理由はその梟の生態にある。あいつは進化した目のせいで日中活動するようになった。朝、太陽が出ると大きな鳴き声で日本中を包む。するとその鳴き声が聞こえた人に飼われるペットたちが日本各地で覚醒して肥大化、人間を襲うんだ。ペットたちは頭の良かったり容姿の良かったりする人間から襲って、集めてきた食べ物を与え育てる。ペットはすべて梟の鳴き声に操られていてすべての動物は奴の思うまま。首を回して日本中を見下ろす梟に目をつけられた人間は、奴のひと鳴きでほかのペットたちに連れていかせる。まるで小さな人間というペットを可愛がるようにな。」
「だから梟が活動しなくなった夜に人間は隠れて生きてるってのか?」
「そうだ、それに本来夜活動する梟がいつ本来の生態に戻るかわからない。だから国を挙げて梟対策本部を設立したんだが、そんな日本の緊急事態に立ち向かえるようなエリートたちは梟によって連れていかれているんだよ。」
「で、その連れていかれた人間はどこに?」
「飼われているよ、ペットたちに。梟の周りはペットたちの生活範囲として占領されていて、家族的な集団をそれぞれ形成している。そこで裸にされて檻に入れられ、1日2度のわずかな食事と散歩を楽しみに日々生きているらしい。餓死していく人間も多いとのことだ。」
僕はあまりに悲惨な状態に言葉を失った。捕らえられた人間は動物たちのペットとなり生活している。かつて普段の生活が苦しかった人間は、ペットに「お前は寝ているだけでいいなあ」と声をかけ、ストレスを緩和しようとしてきた。ペットから人間へ復讐が始まっているようにすら感じてしまった。
「小谷、これからどうするんだ?朝になったらどうやって過ごすっていうんだよ。」
「俺たちはもう世界を自由に動かせない。今まで愛でてきたつもりだった動物たちの立場に追いやられ、そのペットたちに強いてきた生活の水準に人間の愚行を思い知らされる。朝は家で静かに寝て過ごすしかないよ。」
空は真っ黒な雲で覆われ、雨が降っていたころよりも暗く感じる。それは単なる夜ではなく、絶望の暗闇、光に当たることのできない世界に僕は飛び込んでしまっていた。
コンビニで傘を買って、自転車は置いたまま今にも雨が降りそうな空の下を駆ける。家に帰りテレビをつけると夜の情報番組。梟から目のつけられない方法、可愛げのない人の特徴などが細く放送されていた。梟に攫われないメイク術などのコーナーもあり平和ボケした人間が現実を見るのには時間がかかりそうだ。時刻は朝5時35分。あと20分もすれば太陽が出てくるであろう。本来の人間の生活はつまらないものだったのだろうか。あのストレスフルな毎日は安心の担保された時間がもたらす贅沢な悩みだったのかもしれない。ふと気が付くとテレビが勝手に消え、家の電気も勝手に落ちた。次の瞬間、大きな音が家を揺らした。
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「これが梟の鳴き声か。」
あたりの鳴き声以外の音はすべて消え、人間はいないものとして世の時間は過ぎていく。
「バンバンバンバンバン、バンバンバンバンバンバン バンバン」
玄関が何かに叩かれる。動物が人間の匂いを察知して到達してきたのだろう。すると遠くから人間の叫び声が聞こえた。カーテンをほんの少しだけ開けてみると、恐怖でおかしくなって暴言を吐く若い男が肥大化した犬たちに連れられている。人間の力など到底及ばず、この世すべてを敵に回すかのように喚き、泣き叫んでいた。
思わずその光景に見入っていると、大きな鳴き声が再び街を襲った。カーテンを閉めようとしたその時、肥大化した蛇が窓を突破って入ってきた。
「まずい。」
抵抗虚しく、あっという間に首を絞められ意識を失った。
気づいた時にはもう僕はソコに居た。梟と目が合い、首を傾げられる。既に裸で首輪がされている。木で作られたその円形の部屋はまるで鳥の巣であった。そこに1人座らされ2匹の大きな蛇に横を立たれていた。大きな梟の下に陰ったこの街には飼われる人間が沢山いるだろう。僕もそうなると思うと屈辱的で、感じたことの無いほど大きな恐怖に苛まれていた。3つあったうちの右のドアが開き、そこへ歩かされる。ドアをくぐると、鏡で覆われた部屋に繋がっていた。ドアは閉まり、全方位が自分の体を映し出す。
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再び梟の鳴き声が聞こえる。あまりの音量に耳をふさぐ。脳髄を鷲掴みにされ揺らされているような、極限の不快感が全身を襲う。耳だけでなく体の閉じられるところすべて閉じた。目も鼻も口も足も。思わずうずくまり、その鳴き声を何とか躱す。鳴き声が止み、目を開けると鏡には犬になった私が映っていた。
四つ足でしか歩けなくなり、背は人間のひざよりも低い。柴犬のような風体で、毛並みは整っていない。ドアが3つすべて開き1つの街につながる。東京タワーの周辺に出た。巨大な梟の陰でまるで夜であるかのように暗い。自分が犬になったこと、連れ去られ梟たちの住処にいることなど受け入れられないことは山ほどあったが、そんなことはすべて忘れるほどの衝撃が走った。
町に人間は誰一人いなかった。犬、猫、蛇、トカゲ、カブトムシ、インコ、ハリネズミ、ウサギ、ハムスター、熱帯魚など大量の肥大化したペットたちが人間の家族のように集団を成して生活していた。
「なんなんだ、、、これ、、。人間なんてどこにもいないじゃねえか。。」
自販機ぐらいの大きさのウサギがゆっくりやってきて僕に言った。
「人間の生活はどうだった?楽しい時間だったかな?それとも平凡でつまらなかったかな?大丈夫、これからあなたはこの世界の犬として生きていくんだから。」
「ここはいったい何なんだ?デカウサギ。」
「後でゆっくり説明するわよ。ところで一つ聞きたいんだけど、伊藤智樹っていう若い男の子知らないかしら、人間界で元気にやってるか知りたくてね。」
ウサギの毛並みは目元が湿って揃っていなかった。
ここから僕がどうやってこの世界に戻ってきたかって?いやあ、まだわからないのかい?僕たちはまだ戻れていないんだよ、元の世界に。
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