字聖
皆さんのまわりにも、異様に字の上手い人、いませんか?
私は兼ねてから、学校で教わる勉学というものは、所詮は才無き者のためにあるのであって、生まれもって一芸に秀でた人物には、ほとんど無用の類だと信じている。慣性の法則を知らずとも歌は歌える。算盤ができずとも早く泳げる。そしてまた、源氏物語の情緒を解さずとも、美しい文字が書けるのである。
ところで文字と言えば、元来私は自分の筆跡にまるで自信を持っていない。点を打てば醜く潰れ、縦に筆を引けば途中で折れて左へ流れ、漢字の「一」すらくねくねとのたうつ有り様で、到底人に披露できる代物でない。病院の問診や、ちょっとした仕事の折り、あるいは役所の受付でも、この字を今から人に見せるのだと思うと妙に緊迫した気分になって、元々悪い字が一層乱れるのも常のことだ。
土台、手先の繊細か不器用かということは各人の鍛練の他、生を受けたその遺伝子によるところが大きいのであり、この身を巡る血脈の命運が、筆の良し悪しを決定することに相違無い。問題は、私の家では書家の出るほど筆の長けた血と、「さ」と「ち」を鏡文字に混同するほど文盲気味な血とが、私の祖父母の代に交じりあってしまったことである。私の母は有名な達筆である。妹は癖字だが下手でない。私はいけない。どうしてもあらぬ方角へ線が曲がっていってしまう。私はどうにもいけない。八つから習字の師範に習いに行ったが、余計酷い字になるばかりで一向甲斐が無かった。
ところで私は、自分の悪筆を思うと同時に、私の脳裏には一人の古人が沸々と出現するのだということを告白せずして、これ以上文字の話を続けるわけにはいかない。古人とは、首藤洋平という男のことで、小中学の九年間を同窓として共に過ごした人物である。と言って、特段親しかった間柄ではない。首藤は落ち着きの無い粗野な男で、学校にこれといった友人は一人も居らなかったようにさえ思う。血の気の多い割に倶楽部に入るでもなく、無論勉強は至って不得手で、彼が学校へ来ても暇をもて余していることは幼心の私にも何となしに伝わった。はじめのうち、首藤は近所の悪童と野山を巡り、小刀を取り出しては生木を削って弓矢だの撒き菱だのを作るような物騒な遊びをしていたはずだ。カナヘビを取っては箱に飼っていたこともある。それがいつの頃からか柔道を習い始めて、恒久化した日常の鬱憤を格闘にぶつけるようになった。首藤が心底真面目に武道の道へ浸る前、まだ習って間もない頃には、廊下で目についたひ弱そうな男児を組伏せては、体落としをかけたり、大外刈りで倒したり、挙げ句絞め技まで持ち出して、先生が血相を変えて叱っていた光景が今も鮮烈に思い浮かぶ。時にはガキ大将と鉢合わせて取っ組み合い、互いに譲らぬ気迫たるや、なかなかのものがあった。私も何度か喰らったのだったが、意外に体幹が強いのか倒されず、首藤の方が、おっ、と驚くことがしばしばあった。おかげで私は、自分は存外強いのだと気分を良くして思春期を過ごした。
そんな札付きの首藤が字だけは上手いのだから世の中はわからないのだ。
首藤の達筆をどうして知ったのだったか、私には覚えが無い。私が隣街の公会堂で書を習っていた先生は河村志仙という名だった。朱書きした手本を生徒に配って、その上へもう一枚半紙を敷くと下の朱文字が透けて見える。それをそっくりなぞって写せば、いずれ筆跡も会得するというのが河村先生の考えだった。およそのんびりしたやり口で、私はいたく気に入って入門したのだ。それが何年かして、先生は急に死んでしまった。知らずいつものように教室へ行ってみると、先生が別人になっていたので驚いた。河村勝ですと名乗る。どうやら故師範の弟らしかった。
新しい先生は茶色のグラスをかけた不良爺で、ひたすらに柔和だった志仙氏と違って舌鋒鋭いきらいがあった。初めは嫌な気がしたが、熱心に教えてくれるので程無く慣れた。そして私はむしろこっちの先生をより好くまでになった。
その代替わりに伴って、私たち生徒の所属する会派もまた変わった。今度の所属は玄遊会といって、何でも東北に本拠を置いて日本中に門徒を囲った大所帯らしかった。毎月会誌を発行して、生徒の昇段やら特別賞やらを発表している。この会誌を見るのが私には楽しみで、毎月配布される日には、帰りに貰うのが待ち遠しくて仕方がなかった。もし昇級していれば、名前の上に丸が付けられている。まだ段位が低かった私は、相変わらず師範の手本を写すのもあって、一等で昇級することも珍しくなかった。確か一等だと書の写真も載るのだったと思う。また元来読み物を好んだ私は、ただ自分の昇級の有無を見つけるだけに飽かず、誰が何段にいるか、知った名前は無いか、上手い書があるかと隈無く眺めた。もし私が首藤の書を発見したのだとしたら、やはりこの雑誌だったのだろうと思うのだ。
そうだ、確かにあの会誌だった。子供らしい大ぶりな字の連なる中に、一点、燦然と目を引く美書があった。輝くと言うのを通り越して、異様な気配すら漂っていたかもしれない。その半紙に添えられた首藤洋平の名を見て、私は愕然と衝撃を受けたのだった。大人たちの中へ混ぜても、やはり首藤がなお一番の能筆でないかと、私は本心からそう思った。私は飛んで帰ってすぐ母に見せた。母もまた圧倒され、すぐには言葉も見つからないらしかった。この首藤洋平とは、あの同窓の首藤だろうかと言って二人で顔を見合わせた。確か次の日学校へ行き、普段口もきかない首藤を捕まえて、お前は玄游会かと問い詰めたのだ。首藤はそうだと答えた。教室へは兄ちゃんについていくのだとも言ったように思う。その表情には何の気も無かった。
実を言うと、この頃の私は自分を偉大な書家だと考えていた。二人の河村先生が二人とも私を手放しに褒めたものだから、この学年に私を脅かす麗筆の使い手はまさか居るまいと高を括っていたのだった。自分は字が得意なのだと言って、俄か習いの硬筆まで持ち出して、大げさに装飾した字を書いては野別に自慢して回った。今から思えば、あの妙な飾り文字の癖が抜けなくなって、その後十余年に渡って余計私を悪筆たらしめたに違いない。当時の私は学校に知れた秀才だった。勉学に秀でると言うことが、それすなわち全ての道において優れることの証だと私は捉えていた。級友の中に少々こいつも上手いかなという字を見たところで、私の自信は揺るがなかった。実際には向こうの方が上達していても、俺の方が上手いと言って憚らなかった。変な顔をされても気にも留めなかった。そのようにして凝固した私の独善を、首藤の書は一夜にして破壊したのだった。
首藤は雲上にいた。私の習字がハモニカならば、首藤の書は教会のパイプオルガンだった。ぶきっちょの日曜大工と、千年続くお宮大工ほどに差があった。それほどどうにもならない力量の違いがあることが、十歳そこそこの私にさえ瞬時に悟られた。首藤には勝てないと心底理解した。その日から私は、いずれ首藤のような書が書けないかと、およそ私らしくない向上心のようなものさえ発揮し出した。しかしそれよりよほど大きな気持ちで、勉強や音楽や、その他ほとんど全ての点において私が歯牙にもかけなかった首藤が、初めて私を明確に脅かし、そしてあっさりと打ち倒したことに何か消化できぬ思いを抱えた。だから柔道の投げ技を堪えたという蛇足の一つでも施さねば、私は首藤に対して自尊心を保てない。
思い出してみれば、そういえば首藤洋平と私の間にはそもそも古い因果があるのだ。私の文字の原点には首藤が関わっていることに、つい今しがた思い至った。
入学したての一年生は、我々の学校では席順に二人、机を横並びに組にして座るので、自然その相方と最初に親交する命運を敷かれる。私にとってその隣人こそ首藤洋平であり、然るに初めの勉強、つまり平仮名のいろはの練習を、私は首藤と組になって行ったのである。
先生は首藤を褒め、私を貶し、また首藤を褒めた。それまでの生育において、ただ万事讃えられ、可愛がられてきた私にとって、自分が下手で他の子が上手いなどと比べられることは、ひとえにおぞましい事態であった。今考えてみれば、首藤はすでに家で文字を習い、或いはすでに書家の門戸を叩いて、その日が文字を書く初めての試みであったはずはない。そして私はその日というその日まで、鉛筆すらついぞ握ったことは無かったのだ。首藤の隣では誰もが首藤より悪筆であったはずで、また私の隣では家の者から先取った入れ知恵をされた誰もが私より能筆であったはずである。それを知らなかった私は傷つき、鉛筆を持つ手は震え、四つに仕切られたます目のうち、「い」の文字の最初の点は一体どこから書き始めればよいのだろうかと途方に暮れた。しかし子供の記憶は長く持たない。数ヶ月もすると私はもうひらがな訓練を首藤と共に受け、そして首藤に敗北したことなど忘れていた。
そして数年が経ち、例の玄游会の雑誌で首藤の名を見出だして、私は首藤の能筆をついに認知したのだった。しかしそれ以来、何年も私は首藤と同じ組にならなかった。私は勉強と倶楽部の傍ら惰性の習字に通い、首藤は首藤で柔道家を志して道場に通った。そして私たちがもう一度同じ組になったのは、中学も最後の年であった。
十五の私は、もはや様々なことに於いて敗北を知っていた。仮に首藤がこの世に存在せずとも、私はすでに、己に文字の才の備わらないことを認めていただろう。小学校で他を突き放した勉学もいつの間にか数名に遅れを取った。運動も決して人より得意でなかった。顔も崩れた。喉仏が張り出して少年の美声も失った。そして初めての恋にも敗れた。何を取っても、学級に私より上を行く者が現れた。だからその日の国語の時間が習字だと知っても、もはや私は大して張り切ることもしなかった。学級で最も下等に分類される私の男友達の中に限れば、筆を持てば上手い方というのが、その時までに形成された私の文字への自他の評価だった。私は既に、自分の書の出来不出来を憂え恥じることも無くなっていた。
私は自分の書をなまじ丁寧に点画しながら、ぼんやりと周囲の状況を見回した。隣では大川と言う食いしん坊が墨の異様にべったりした下手な字を書いている。反対の本間の字が太すぎて潰れるのは、誤って筆を下まで下ろしてしまったからだ。斜め前の女は確か習字をやっていて、割に上手いのだが線が細すぎて私は好かない。そのもう一つ横の席が首藤だ。他の座学の時と同じように、相変わらずそわそわして、墨汁を水桶に垂らしてはかき混ぜ、半紙をちぎっては浸して、手悪さばかりしている。おかげで腕までが黒く染まり、捲った白いシャツの袖にも鼠色の斑点が広がっている。
私はその時、はたと気がついた。確かに私は、首藤が書をしたためた後の半紙の写真なら、玄游会の雑誌で常々見てきた。見るたびに、やはり首藤は達人だと感心した。しかし私は、実際に首藤が筆を持ち、紙に向かって座るのを見たことが無かったのだ。一時も大人しく座っていることのできない普段の首藤からは、精神を統一して一心に運筆する彼の姿などおよそ想像できなかった。初めて首藤の書を玄游会誌に発見した驚きは、実はその字の美しさに加えて、動の首藤と、静の書道との取り合わせに、遥かなる断絶を感じ取ったからに他ならない。初めて首藤の書を嗜むを知った頃、せいぜい十の童心の私は、きっと首藤は書にだけは誠実本気なのであり、どこかの教室で教わる時だけは、あの不真面目な首藤も背筋伸びたる不動の正座で書をしたためるのだと信じた。しかし私ももう十五にもなれば、首藤が生来のごそつき屋であって、たとえ鉛の型に嵌められてもやはり体を動かすはずだということを確信をもって見抜いていた。
私は心の右半分では書家の端くれという我が身分を久方振りに思い出して首藤の筆の運びを盗みたいと渇望し、また左半分では首藤が集中して書に取り組むその稀少な姿そのものに感心を寄せた。いずれにせよ、私は何としても首藤の書道をこの目で直に観察したい欲求に駆られたのだ。私は自分の櫃の中からなるべく出来の良さそうな作品を見繕うと、小筆を出して急いで名前を書き入れ、教卓の先生に渡すと、後はもうさっさと片付けてしまった。私の机からは、首藤の手元までを覗き見るのに一切不都合が無かった。
先生があと五分だと厳かに告げた。その宣告が、未だ一枚も書くことなく遊んでいた首藤その人に向けられたものであることは私にも看破できた。
首藤も遂に観念したらしかった。私は首藤の手が不意に筆を掴み上げ、乱暴に穂先を硯にぬすくりつけるのを見た。無造作に敷いた半紙の裏表も気にかけず、文旦も碌々置かず、面倒臭そうに唸って顔をしかめるのを見た。これ見よがしに舌打ちし、隣の席へ脇目すらしながら、至極適当に一画目を打ち込むのを見た。
そして私は見たのだ。世にも稀なる無欠の筆を。滅法書き殴る腕の下から現れた、絶対の調和を保つ墨痕を、私は見たのだ。私の全身は、ただ一分の羨望と、そして九割九分までの興奮とに襲われた。わっと産毛がよだち、すーっと冷たい血が巡り、そして耳までが紅くのぼせ上がった。きっと私の瞳は濡れて、爛々と光っていたことだろう。
首藤の筆は、凡人をして真似のできるような、そんな易しい程度でなかった。その字勢には、細心の注意も、緻密な計算も、熟練の技までもが一切無かった。首藤はただ、苛立ちに任せて腕を動かしたに過ぎなかった。それにもかかわらず、首藤が思いのままに振るうその身勝手な毛筆の先で、書は自ずと成った。ただ一刻も早く書き終わろうとする速筆の下に、弥勒のように目を釘付けにして放さない凄絶な美書が生まれ出た。
私はその日、文字の聖を見たのだ。
私は近頃、学資の足しにしようと百貨店の五階で物産展の売り子をやった。私が行かされたのはお好み焼きの屋台だったが、その真向かいに小倉の焼きうどん屋が店を出していて、その鉄板でひたすらうどんを焼き付けては売っていたあの短髪の青年が、遠目にはどうにも首藤に見えて仕方がなかった。
結局のところ、あれが首藤だったかはついぞ知れない。何だか違ったような気もするのだ。私はただ、首藤ならああいう仕事をしていても何ら不思議はないように思う。むしろ、よく似合っていて好ましいとすら思うのだ。
ただ私が思うことは、もし首藤がどれだけ堕落した生活に身をやつし、或いはその粗暴さを益々募らせて荒んでいたとしても、結局は一度筆を握りさえすれば、彼はどうとでも生きていけるのだということなのだ。それがたとえ屋台の脂ぎった卓の上でも、工事現場の足場の上でも、もしくは柔道の畳の上であったとしても、首藤洋平はやはり比類無き書家であることに何ら変わりはない。
あの習字の授業の日、首藤がいかにもつまらなそうに、しかし僅かに得意げな顔を覗かせて、名前までをさらりと書き入れるには、二分とかからなかったろうと思う。丁寧に書きましょうなぞという常識的な注意は、本物の書家にとってまるで的を射ていない非礼なのだと私は知った。道具は安物で、筆までもがまるで手入れしていない乱れ毛の粗悪品だった。首藤の腕は端から、模範の字そのものを書くように設計されているのだ。私は自分が、あのような人物の前では無力であると思う。そして本当なら、世間のうち九厘までが、生来の力量の差に畏怖して自ら引き下がるべき、首藤とはそういう相手であろうと私は思う。
そういえば中学の同窓会用のLINEグループに「首藤洋平」と「首藤洋平(本物)」と「首藤洋平(偽物)」がいます。…どれが本物のなのか。どれも本物でないのか。