第八話 大家さんと釣りに行く
今回は、釣りのお話です。
釣りをしたことがない人には、分からない単語が出てきますので。
作品中に出てくる用語について、簡単な説明をさせていただきます。
なお、釣りや魚に関する用語については専門誌に準じてカタカナで表記しています。
プラヅノ イカを釣るための疑似餌のひとつ、プラスチックでできていて細い棒状の先にカンナと呼ばれる返しのない針が付いている。
スッテ イカを釣るための疑似餌のひとつ、その形状はプラヅノに比べてふっくらとしていて布が巻かれている。
タックルボックス 小道具を持ち運ぶための箱。
仕掛け ターゲットを釣るための道具で、糸に針やオモリなどを付けてある。
マルイカ 小型のイカで、ヤリイカやスルメイカに比べて浅場でも釣れる。
シロギス 浅場で釣れる魚、パールピンクで海の女王とも呼ばれる。
オデコ まったく釣れないこと。
アンカー いかりのこと。
シャクリ さおを上下させて水中の仕掛けを動かし、ターゲットを誘うこと。
底ダチ(をとる) 仕掛けが底に着いたのを確認すること。
ケイムラ プラヅノの色のひとつで、蛍光紫の略。
乗る ターゲットが掛かること。
赤帽子 スッテの配色のひとつで、白地に上部が赤。
聞き上げ ターゲットが乗っているか、さお先を上げて確認すること。
アタリ ターゲットが針に触れている状態のことで、乗りの前ぶれ。
たな ターゲットがいる、つまり魚が釣れる位置。
リビングで、プラヅノやスッテの入ったタックルボックスを前にして。
どっかりと腰を据えた僕が、せっせと仕掛けを作っていると。
大家さんの部屋を後にして、寝室に向かおうとしている母さんが。
散らかり放題のリビングと、奮闘をしている僕を見て。
「まだやっているの、明日は早いんだからいい加減にして寝なさいよ」
「仕掛けを作り終えたらね、三十分もしたら終わるよ」
「ちゃんと片付けておくのよ」
やんわりとくぎを刺してきた、母さん。
「生きているエサは使わないんだから、母さんも一緒に来ればいいのに」
「海の真ん中じゃ遮るものがないでしょ、紫外線はお肌の大敵だからパスよ」
そうなんです。
明日、大家さんと僕は朝の三時に車で出発して葉山に行く予定。
葉山では、ボートに乗ってマルイカを釣るんだ。
ボートといっても手こぎじゃなくて、船外機付きのボートを借りて。
「大家さんが釣り好きだなんて、昔は聞いたことがなかったわよ」
「そうなの?」
「今だって、あれだけ仕事が忙しければ釣りに行く暇なんかないでしょうに」
大家さんに釣りに連れていってもらうのは、これが三回目。
最初は、引っ越したばかりのころに佐島でシロギスを釣りに。
次は、先月の末に葉山でマルイカを。
そして、明日はマルイカへのリベンジをしに行くんだ。
リベンジ?
僕らの釣りは、オデコこそないものの。
前回のマルイカの釣果は、大家さんが二杯で僕が一杯。
つまり、威張れるレベルじゃないからね。
「帰ったらイカ焼きパーティーをするから、釣果を期待して待っていてよね」
そう言ったら、母さんに鼻で笑われちゃった。
「それにしても、どうして大家さんは船の免許なんか持っているのかしら?」
「釣り好きなお父さんのため、だってさ」
「大家さんのお父さんの話って、初めて聞くわ」
「何年も前に亡くなったんだって」
「そうなんだ……」
「お父さんは釣りが好きなのに、船酔いがひどくて」
「釣りが好きなのに、船酔いねえ」
「だから、防波堤からかボートでの釣りが専門だったんだって」
「へえ」
「いつも手こぎじゃ大変だろうって、大家さんが免許を取ってあげたんだよ」
「ふうん、それで免許を」
せっかく取った免許だけれど、今は法律が変わったから。
小さい船外機付きボートは、浜の近くなら免許が不要なんだってさ。
「明日も、ボートで釣るんでしょ」
「うん」
「じゃあ、大家さんも船酔いするの?」
「大家さんは船酔いしないけれど、ボート釣りが好きなんだって」
「どうして?」
「乗り合い船だと、真面目に釣らなきゃいけないから」
「大家さんは真面目に釣らないの?」
「そうじゃなくて、ボートならマイペースで釣れるから」
「せわしないのが嫌いなのかしら?」
「釣りそのものよりも、景色を見てぼ~っとしているのが好きなんだってさ」
「日頃は忙しい人だものね、たまには何も考えずにいたいんでしょ」
母さんみたいにぼ~っとしてって言っていたのは、内緒にしておこう。
船宿に着き、ボートを借りてからトイレを済ませると。
早速、海へ。
岸から五分もせずに、大家さんお勧めのマルイカ釣りのポイントに着くと。
大家さんがエンジンを止めて、アンカーを打つと。
二人で、投入の準備をしながら。
「ねえ大家さん、人の縁って不思議だね」
「どうした、急に」
僕より先に仕掛けをセットし終わった大家さんは、オモリを投入。
少し遅れて、僕も投入しながら。
「合コンがドタキャンにならなければ、母さんとは再会していないんでしょ」
オモリが着底をして、リールを巻いてからシャクリを入れた大家さんは。
「たとえあの日に会えていなくても、いつか会っていたような気がするよ」
「出会う運命だった、ってこと?」
「そこまで大層なことじゃなくて、何となくだよ」
「オレンジがいいのか、群れが上ずっているのか……」
三投目で、一番上のプラヅノにイカが掛かっているのを見た大家さんが。
「近頃、くまさんがピリピリしているときがあるだろ」
「そうなんだよ、どうして母さんはピリピリしているのかな?」
再投入した大家さんは、底ダチを取りながら。
「実家を離れて二か月だろ、ちょっとしたパニックになりかけているんだよ」
「何、それ」
「毎日、緊張しているんだろうから」
「母さんが?」
「今までは両親に頼めていたことも、自分でやらなきゃいけないからな」
リールを巻き上げて、二杯目を取り込んだ大家さんは。
一番下のケイムラのプラヅノを赤帽子のスッテに変え、投入し直すと。
「俺がおまえの面倒を見ることが多いのは安心な反面、不安要素でもあるし」
確かに、母さんの帰りが遅い日でも大家さんがいれば困らないものね。
「気持ちがぶつかって、混乱しているんだろ」
「どんな気持ち?」
「おまえを一人で育てるって気持ちと、俺に頼り過ぎているって気持ちだよ」
一番下のプラヅノを、大家さんと同じスッテに変えた途端。
僕にも一杯目が乗ったんで、ほっとして取り込んでいると。
「言ってみれば、ちょっと変わった五月病だよ」
「五月病って普通は連休明けになるんでしょ、もう五月も終わりだよ」
「鈍感なくまさんらしくていいじゃないか、すぐに治まるから放っておけよ」
大家さんは、釣りのためだけに僕を連れ出したんじゃないのかな。
母さんが五月病になっているのを、それとなく話したかったのかもね。
「それでも、いつも一緒にいる僕としてはピリピリされるのは」
「じきに治まるさ、くまさんは怒りを持続させるタイプじゃないからな」
「確かにそうだね」
「さっさとストレスを発散させて、すっきりさせた方がいいんだよ」
「それって、僕が被害者になっていろってこと?」
「俺にだって被害はあるだろ、家庭訪問のときみたいに」
あのときのピリピリの原因は、別にあると思うけれど。
「やっぱりオレンジに乗るようだな、群れが上層にいるだけかもしれないが」
大家さんは、三杯目をクーラーに入れ。
カンナに付いたスミを歯ブラシで落としながら、そう言った。
「ねえ大家さん、母さんのどこが気に入って家を貸すことにしたの?」
僕にも二杯目、また一番下のスッテだ。
大家さんは上に掛かっているのに、僕はたながとれていないのかな。
「気に入るも何も、ちょうど条件付きで誰かに貸そうと思っていたから」
「でもさ、どこか気に入らなきゃ自宅を貸そうとしないでしょ」
「そうだな……、根拠のない自信に満ちあふれているところかな」
さお先を聞き上げてから、そう答えた大家さん。
「くまさんは何でも、えいやあって感じで考えずに行動するだろ」
「乱暴だよね、母さんは」
「それでも意外と失敗はしないし、結構な頻度で俺と同じ答えにたどり着く」
「へえ、そうなんだ」
たなをとり直すと僕にもイカが乗ったんで、リールを巻いていると。
「それがすごいと思ってな」
しばらく、アタリが遠のいていたけれど。
「あんまりシャクらずに、軽く聞き合わせる方がいいみたいだな」
そう言った大家さんが仕掛けを上げると、四杯目が。
「またオレンジだね、僕もそうしてみよう」
一番上をオレンジのプラヅノに替え、軽く聞き合わせていると三杯目が。
五杯目をカンナから外している大家さんは、時計を見ると。
「午後には三人娘が来るから、そろそろ終わりにするか」
「もう十一時か、釣れているとあっという間だね」
「そうだな、いつもは暇なのに」
しばらくして、僕に四杯目が釣れたんで終えることに。
「今日の釣果は、俺が五杯で良太が四杯か」
「これなら大漁ならぬ中漁だから、母さんや三人娘に笑われないですむね」
いつにない釣果に、ぼ~っと景色を見るどころじゃなかったものね。
一時前に家に着くと、材料の下準備を手伝っていた三人娘が玄関に。
「なんだ、良太君だけか」
「悪かったね、僕だけで」
「大家さんはどこにおるん?」
「スーパーマーケットに行ったよ」
「どうして、スーパーマーケットに行かれたんですの?」
「帰りにソーセージを買ってきてくれって、母さんからメールが」
「すぐそこに、コンビニエンスストアがあるのに」
「バーベキューだもの、太いソーセージがいいでしょ」
「メール一本でこきつこうて、人遣いが荒いにもほどっちゅうもんが」
「買っておいたソーセージを、鹿山さんたちが食べちゃったからだってさ」
「正確には猪口さんと鹿山さんが、ですわ」
慌てて、話題を変えようとする三人娘。
「あれ、たくさん釣れたじゃない」
「珍しく大漁やな、九杯もおるやんけ」
「焼きイカだけではなくお刺し身もできそうですわね、明日は大雨かしら」
「出迎えじゃなくて、クーラーのチェックをしに来たの?」
大家さんが呼んでおいた、隼人も到着して。
バーベキューの準備が終わるまで、一緒にテレビゲームをしていると。
スーパーマーケットの袋をぶら下げて、リビングに入ってきた大家さん。
なんと、河野先生を連れている。
「どうしたの、先生と一緒って」
「買い物をしていたら、ばったり先生に会ったから誘ったんだ」
「大丈夫かな、もめごとの種にならないといいけれど」
「九杯もあれば、もめることはないだろ」
あのねえ、僕が心配しているのはそんなことじゃないよ。
テレビゲームをしていても、今ひとつ集中できないな。
背中越しに、先生が大家さんに言っているのが聞こえてくるから。
「峯岸君を気にかけてくれて、ありがとうございます」
「良太とはうまが合うみたいだね、毎日のように遊んでいるって聞いたよ」
「明るい子なんですけれど、他のクラスメイトとはなじもうとしなくて」
「これをきっかけに、クラスメイトともなじむといいね」
「今日は楽しそうですね、良太君や大家さんのおかげかしら」
そう言いながら大家さんを見つめている、先生。
照れくさそうにちらちらと僕を見る、隼人。
そんな大家さんと先生に、素早く反応したのは三人娘。
「へえ、教え子の保護者と親密になってもいいんですか?」
「必要以上に親密なのは不適切ですが、大家さんは保護者ではありませんし」
「やったら、先生はなんでここにおんの?」
「大家さんに誘われましたから知人として、ですけれど」
「知人になったばかりで、バーベキューですの?」
「あなたたちだって、大家さんと知り合ったのは先月だそうじゃない」
大家さんと母さんへの三人娘のぐだぐだに、先生まで加わりそうな展開に。
いつもの騒動がパワーアップしそうで、この先が思いやられるなあ。
釣りたてのイカは五杯を焼きイカに、残りは大家さんがお刺し身に。
梅雨入り前、土曜日の昼下がりのバーベキューだもの。
大盛り上がり、間違いなし。
先生がいることに、驚いていた母さんだけれど。
つい先日、大家さんに謝ったばかりだから大騒ぎにはしたくないようで。
それ以上に、僕の心配は取り越し苦労だったみたい。
三人娘は、思っていた以上においしいイカに舌鼓を打つのに夢中。
先生は、隼人と話しているし。
そんな中、母さんと大家さんは煙の向こうで楽しそうに笑っている。
「ねえ、後で良太にネクタイの結び方を教えてあげて」
「五年生だよ、まだ早いんじゃないの」
「ここらの中学校じゃネクタイ着用だもの、早めに覚えておいて損はないわ」
「くまさんが教えてやればいいじゃないか」
「あたしはネクタイなんてしないし、誰かにしてあげたこともないもの」
「じゃあくまさんに教えてあげるよ、俺でよければ練習台になるから」
母さんも分かったのかな。
自分が一人でやらなきゃいけない、そんなことばかりじゃないんだって。
母さんにしかできないことがあるし。
大家さんにしてもらえることや、大家さんにしかできないこともある。
母さんと大家さんの二人でならできることだって、いっぱいあるんだから。
五月病なんかになっていないで、頼ってもいいと思うよ。
いつもそばにいて、僕や母さんに何かあると助けてくれる大家さんに。
大家さんは、僕と母さんの大家さんなんだから。
Copyright 2024 後落 超