第七話 僕は小学生、なのです
「どちらさま、ですか?」
連休中はずっと仕事で、ようやく今日からお休みの大家さん。
ひさしぶりに洗車をしようと外に出ると、ばったり鉢合わせしたのは。
インターホンを押そうとしている、見知らぬ女の人。
「森野君の担任の、河野と申します」
どうして、森野君の家から男の人が出てくるのかしら?
確か、家族はお母さんだけのはずなのに。
なんて顔をしているのは、僕の担任の河野由起子先生。
「家庭訪問の予定だと、保護者の方にはお知らせしてあるはずですが」
僕の小学校では、今どき珍しくフルスペックの家庭訪問があるんです。
校長先生の方針なんだって。
「良太の先生とは存じ上げずに申し訳ありません、わたしはこの家の大家で」
大家さんなの、それにしてもって顔の先生。
玄関を開けた大家さんは、二階にいる僕に。
「良太、先生が家庭訪問に見えたぞ」
「三十分もしたら着くって、さっき母さんから電話があったばかりなのに?」
「ひとつ前のお宅がお留守で、順番が変わってしまって」
僕が急いで一階に下りていくと、先生が大家さんに謝っているところ。
「お母さまが帰っておられないなら、次のお宅に寄ってから伺います」
そう言って、きびすを返した先生に。
「先生、そこには段差がっ!」
僕と大家さんが注意するのと同時に、玄関前の段差で見事に転んじゃった。
足首が変な向きに曲がっていたし、ストッキングは見事に破けている。
それでも、大事に至らずにすんだのは。
門扉に倒れ込む寸前で、大家さんが抱きとめたから。
「あの、離してください」
慌てて、大家さんの腕から離れようとした先生だけれど。
逆に、体を押し付けることになっちゃった。
「なっ、何をするんですか!」
先生の猛抗議も当然かな。
あっという間に先生を抱きかかえた大家さんが、家の中に入っていくし。
「何って、けがをしているだろうから手当てをするんですよ」
「そうじゃなくて、抱かれて運ばれるなんて」
「自分で歩けますか、歩けないだろうから抱いているんですよ」
そう言って先生をベッドに下ろした大家さんは、僕にお金を渡して。
「コンビニエンスストアに行って、ストッキングを買ってきてくれないか」
「ストッキングの種類なんて、僕じゃ分からないよ」
大家さんは、先生のストッキングを指差して。
「この色でサイズは……、Мだな」
僕がコンビニエンスストアで奮闘しているころ、大家さんは先生に。
「それじゃあ、ストッキングを脱いでください」
「見ず知らずの男性の部屋で、そんなものを脱げなんて言われても」
「足首をけがしたからでしょ、少しでも早く治療しないと癖になるから」
「で、でも」
「全部脱げとは言っていないでしょ、ストッキングだけですから」
「ス、ストッキングだけでもあなたの前では脱げませんっ!」
「後ろを向いているから見えませんよ、脱ぎ終わったら声をかけてください」
いつの間にか、先生の顔が上気している。
見知らぬ男性にお姫さま抱っこをされ、部屋に運ばれベッドに座らされて。
命令されるがままに、ストッキングを脱いでいるんだものね。
「あの、脱ぎ終わりましたけれど」
このタイミングで、ストッキングを買ってきた僕は大家さんの部屋に。
大家さんは、クローゼットから取り出した薬箱を開けると。
「早く足を出して、痛いかもしれないけれど触るよ」
「あっ、痛っ」
「大丈夫、これならくじいた程度で軽い捻挫だよ」
そう言うと、先生の手当てを始める大家さん。
「テーピングは終わったから、立ってみて」
立ち上がってみせた先生は。
「あれ、痛くないです」
「良かった、この後に訪問をする予定は何軒?」
「あと一軒です」
「次のお宅には車で送るから、その後で病院に行こうか」
「結構です、自分で歩けますから」
「だめだよ、テーピングで歩ける気になっているだけなんだから」
僕の気のせいかなあ。
大家さんを見つめる先生の表情が、さっきまでと違っていると思うのは。
手当てを終えストッキングを履いた先生を、二階に案内してから。
しばらくすると、ようやく母さんが帰ってきて。
何ごともなかったかのように、家庭訪問は終わったけれど。
先生を見送った母さんが見たのは、大家さんと一緒に車に乗り込むところ。
「どうして、大家さんが先生を車に?」
いぶかりながら、大家さんの部屋の掃除を始めた母さんが見つけたものは。
ゴミ箱に入っている、先生のストッキング。
「大家さんの部屋に、どうしてこんなものが?」
「それね、大家さんが先生を……」
まだ僕が詳細を話している途中から、血相を変え始めた母さん。
数時間して、大家さんが帰ってきたんで慌てて玄関に行くと。
「先生は次の家の家庭訪問を終えてから、病院に連れていったよ」
「大丈夫なの?」
「軽い捻挫だってさ、家まで送ったから今頃はゆっくりしているだろ」
「そっちじゃなくて、母さんがね」
僕の心配が的中し、バッドタイミングで二階から下りてきた母さん。
「遅かったじゃない」
「先生を送っていたからね」
「あたしに無断で女の人を部屋に連れ込むのって、何なの?」
だから言わんこっちゃない、やっぱり大丈夫じゃなかったでしょ。
先生は確か二十八才の独身、だったかな。
母さんは、本能的に敵対心を抱いているのかもしれないな。
自分より若くて、三人娘よりはお姉さん。
絶妙な女性が登場した上に、大家さんに急接近しているんだもの。
「大家さんは出社しちゃったみたいね、いつもなら声をかけてから行くのに」
「昨日、母さんが先生のことで責めたからじゃない」
「あたしが責めているように見えたの?」
よう、じゃなくて思いっ切り責めていたじゃないか。
「先生は、うちの玄関で転んでけがをしたんだよ」
「だったら、二階で手当てをすれば」
「大家さんは上に行けないから、自分の部屋で手当てしただけなのに」
「そんなこと、その場で言ってくれないと」
「僕は言ったよ、母さんが聞く耳を持たなかったんじゃないか」
「ねえ、どうしよう」
「子供じゃないんだから、大家さんが帰ってきたらちゃんと謝るんだね」
その夜、門扉の音がしたんで大急ぎで玄関に行った母さん。
靴を脱いでいる大家さんに。
「あたしが悪かったわ、ごめんなさい」
「ごめんなさいって、何が?」
「あたしが良太の先生のことで文句を言ったから、怒っているんでしょ」
「良太の先生、怒るって?」
「女の人を部屋に入れて、あたしと良太のだって言っていた助手席にも」
「また、わけが分からないことを言って」
「その上、ゴミ箱のストッキングを見てからは頭が真っ白になっちゃったの」
「何だよ、それ」
「とにかく、ごめんなさいっ!」
「ねえ、大家さん」
ノックもそこそこに、しかも返事を待たずに大家さんの部屋に入る母さん。
「日曜日に良太の運動会があるんだけれど、一緒に行ってくれない?」
「運動会に、俺が?」
「あたし一人じゃ、写真とビデオの両方は撮れないもの」
「良太はもう五年生だろ、無理して両方を撮らなくても」
「保護者参加の競技や場所取りもあるから、男手が欲しいのよ」
「ビデオや場所取りはともかく、他人が競技に参加するのはまずいだろ」
「でも、父親と出る方が有利でしょ」
「だから、俺は父親じゃないだろ」
「そんなに冷たい人だったの、大家さんって」
話の主点を無意識のうちにずらそうとする母さん、おそるべし。
「だから、そういう問題じゃなくてさ」
論点のずれを修正しようとする大家さんの気苦労も、推して知るべし。
「良太がかわいそうよ、父親と運動会に出してあげるのが夢だったのに」
案外しょうもないんだね、母さんの夢って。
結局は母さんに押し切られ、大家さんは運動会へ行くことになったのです。
運動会の当日、母さんが学校に着いたころには。
家族席の最前列にシートが敷かれ、ビデオは三脚にセットされて準備完了。
当然のごとくベストポジションを確保しちゃうなんて、さすが大家さん。
「手慣れたものね」
「保護者として参加したことはないから、運動会なんて自分のとき以来だよ」
「へえ」
「席の確保に親御さんたちが校門から猛ダッシュするんで、圧倒されたよ」
「それでも、ちゃんと最前列を確保しているのね」
「一番乗りをして、先頭に並んでいたからね」
僕らのために頑張ってくれたんだから、ちゃんとお礼を言わないと。
午前中の山場は、二百メートルを走る五年生の徒競走。
同じ組での強敵は、隼人だけ。
隼人とは、僕のクラスメイトで峯岸隼人。
体育が得意な僕は、驚いたんだ。
転校して初めて一緒に走ったときに、隼人が僕と同じぐらい速く走るから。
いい勝負になりそうだと、楽しみにしていたレースが始まると。
スタートは互角。
直線のスピードは隼人の方が速いようで、少しだけリードを許しちゃった。
それでも、コーナーは僕の方が速いからもう少しで抜けるはず。
って瞬間に、隼人の右足と僕の左足が交錯して。
バランスを崩した僕は、派手に転んじゃったから。
立ち上がったときには、隼人はゴール寸前。
救護所で手当てをしていると、大家さんが来てくれた。
「大丈夫か?」
「うん、ちょっと擦りむいただけ」
「あいつは、右足に比べて左足の蹴りが強いんだよ」
「後ろから見て気づいたのに、少しでもロスなく抜こうとした僕のミスだよ」
「コーナーで右足が流れただけで、足を引っ掛けたのはわざとじゃないさ」
「分かっているよ、一生懸命に走っているときのアクシデントだもの」
「そうだな、また来年も頑張ればいいさ」
「あの……、その子は?」
思わず、そう聞いてきた母さん。
トイレに行っていた大家さんが、隼人を連れて戻ってきたんだもの。
「席に残って、一人で弁当を食おうとしていたから誘ったんだ」
「ご家族は?」
「学校の行事には来ないんだって」
「さっきはごめんな、足を引っ掛けちゃって」
隣に座るなり、隼人はそう言って謝ってくれた。
「わざとじゃないんだろ、分かっているよ」。
そんな隼人を、いつの間にか遊びにきていた三人娘が質問攻めに。
「良太君の同級生ね、年の離れたお兄さんっていない?」
「背が高くてイケメンやったら、文句なしやな」
「独身の方に限りますけれど」
初対面の小学生に対しても、容赦のない三人娘。
それでも、隼人をわが家の環境になじませるにはちょうど良かったみたい。
午後になって、渋々ながらも大家さんが参加した保護者の競技も終わり。
残すのは、五年生と六年生によるクラス対抗のリレーだけ。
うちのクラスは、僕が四走で隼人がアンカー。
「二人とも良く頑張ったわね、ぶっちぎりの優勝だったじゃない」
母さんが言うとおり。
僕らのクラスは、六年生のふたクラスを抑えて優勝したんだ。
意外にも応援に熱が入っていたみたいで、まだ興奮気味な三人娘も。
「負けちゃうかもって思ったわ、良太君がバトンを受けたときは三位だもの」
「良太がトップに並んで、アンカーの隼人がぶち抜けたからな」
「どちらかお一人が走っても有利ですのに、お二人がご一緒なんですものね」
夜には、うちでいつものメンバーに隼人も加えてバーベキューを。
大家さんが隼人の家に行き、おじいさんとおばあさんに頼んでくれたんだ。
「おまえはいいな、あんな父さんがいて」
「あの人は父さんじゃないよ、一緒に住んでいる大家さんなんだ」
「そうか、でもお昼を一緒に食べようと誘ってくれたのはうれしかったな」
「大家さんって、そんな人だよ」
その後、隼人は自分のことを話してくれた。
数年前に、お母さんが亡くなったこと。
お父さんは、製菓メーカーに勤めていて。
今は、インドネシアの現地工場に単身赴任中で。
一年に一回ぐらいしか、日本に帰ってこないこと。
おじいさんやおばあさんと一緒に住んでいるけれど。
学校の行事には、なかなか参加してもらえないこと。
そんな隼人と僕は、この日から毎日のように一緒に遊ぶようになり。
中学校から大学まで、同じ学校に通い。
今でも、一番の親友なんだ。
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