第六話 親の心、子知らず 後編
大家さんと合流するんだと、お店を出ていった母さんですが。
その後ろ姿を見ていた、じいちゃんとばあちゃんは。
「ちょっとあなた、美波のあの様子を見ましたか」
「まるで、待ち合わせしている恋人のもとに向かうって感じだったな」
「大家さんって、独身なのかしら?」
「さあな」
「大家さんなら独身だよ、家族が交通事故で亡くなったって言っていたから」
思わず僕がそう言うと、身を乗り出してきたばあちゃんは。
「ねえ良太、大家さんにはお付き合いしている人はいるの?」
あのねえ、そんな人がいたら僕たちに家を貸さないと思うけれど。
「おい、良太に聞くようなことじゃないだろ」
「だって大切なことですよ、美波を同居させるんですもの」
それだけ聞くと、しごくもっともな発言だとは思いますが。
ばあちゃんにとっては、どっちがいいのかな。
大家さんに付き合っている人がいるのと、いないのと。
「そんな人、僕は見たことも聞いたこともないよ」
「だったら……」
「おまえ、さっきから何を考えているんだ」
「やっぱり、ここだったのね」
そう言いながら母さんが入っていったのは、山河から歩いて三十秒。
引っ越しをした日に三人で行った。
交差点を左に曲がってすぐの、大家さんが行きつけの焼き肉屋さん。
「顔を出すなり、いきなりそれ?」
「探す手間が省けて助かったからよ、一軒目にいてくれて」
そう言いながら、大家さんの向かいの席に座った母さんは。
半分ほど残っているビールの瓶を、横目で見ながら。
「まだビールよね」
「うん」
「すみません、ビールとグラスをひとつにタン塩とチョレギサラダを」
この店で大家さんが食べるのは、レバーとホルモンとキムチだけなんで。
自分が食べる分をオーダーして、乾杯のビールをひと口飲むと。
「ああおいしい、やっぱり親と一緒じゃね」
「こんなに早く出てきちゃって、良かったの?」
「最後まで付き合っていたら、おなかがいっぱいになっちゃうもの」
「だからって」
「食べ終わったら夜桜を見に行くように良太に言って、抜けてきちゃった」
「久しぶりの対面だってのに、親不孝者だな」
「だって、予定の前日に来た上に泊まっていくつもりってひどくない?」
「やっぱり心配なんだろ、大切な娘と孫なんだから」
「それでも、しつこくいろいろと聞くんだもの」
「新生活のこと?」
「あなたのことよ」
「俺のことを、どうして?」
「そりゃ、娘が男の人とひとつ屋根の下で寝起きしているんですもの」
「寝起きしているだけだろ」
「娘がこんな状況にいたら、普通の親なら心配するだけじゃ済まないわよ」
「ちゃんと説明したんだろ、分かってくれるよ」
「どうかしらねえ」
今この瞬間に、ばあちゃんが何を考えているかを知ったら。
そこまでのんきな会話をしていられないと思うな、二人とも。
母さんが、ビールもう一本とハラミを頼もうとすると。
「この前のボトルがあるだろ、焼酎にしない?」
ビールを手早く飲み干して、焼酎のウーロン茶割りを飲み出した二人。
「良太に聞いたけれど、竹馬に乗れるようになったんですって?」
「始めてすぐに乗れたよ、誰かさんと違って良太は運動神経がいいからね」
「それよりも、大家さんの教え方がうまいのよ」
大家さんは、網の上のお肉をひっくり返しながら。
「そういえば、良太の運動靴はちょっと小さくなっているみたいだったよ」
「嫌だ、一月に買ったばかりなのに」
「成長期なんだよ、誰かさんと違ってね」
「ひどいわ、あたしのどこが成長はいまひとつだっていうのよ?」
一方、山河では。
お勘定をしようと、レジに行っていたばあちゃんが席に戻ってくると。
支払いは、大家さんが済ませておいてくれたらしく。
お金を払うどころか、お釣りを渡されたって。
「いつの間に、支払いを済ませたのかしら」
「店を出ていくときには、払っていなかったようだが」
「夕方に予約をしに来たときに、多めに払っておいたんだと思うよ」
「わたしたちが払うものでしょ、家族で来ているんだから」
「でも、大家さんが払ってくれるのはいつものことだよ」
「いつものことって……」
じいちゃんとばあちゃんを連れて、学校前の桜の橋に向かう途中。
焼き肉屋さんの、開けっ放してある扉から見えたのは。
入り口横のテーブルで楽しそうにしている、母さんと大家さん。
それを見たじいちゃんとばあちゃんは、歩きながら。
「なあ、美波のあんなに明るい顔を見たのは何年ぶりだ?」
「さあ、でも本当に楽しそうに笑っていましたね」
「引っ越してから母さんはいつも笑顔だよ、特に大家さんと一緒にいると」
僕がそう答えると、じいちゃんとばあちゃんは複雑な顔をして。
「美波は今、幸せなのかもしれないな」
「そうね、わたしたちが余計な心配をしなくてもいいみたい」
少し前だったかな。
僕も似たようなことを思ったから、大家さんに聞いたことがあったっけ。
「大家さんと母さんって、会ったのは何年かぶりだって言っていたけれど」
「十年ぶりかな、それがどうした?」
「母さんとは、昔から仲が良かったの?」
「チームが別だったから、一緒に仕事をしたことはなかったけれど」
「そうなんだ」
「同僚としては、普通だったんじゃないかな」
僕が聞きたいのは、そんなことじゃなくて。
元カレだったのかも、ぐらいに仲が良く見えているから聞いてみたのに。
じいちゃんとばあちゃんには、寝室で寝てもらうことにしたんで。
僕の部屋で寝ている母さんに。
「ねえ、母さん」
「どうしたの」
「さっき山河で、ばあちゃんから大家さんは独身なのかって聞かれたんだ」
隣りの布団から、舌打ちが聞こえた。
「本当にしょうがないわね、お母さんったら」
「大家さんが独身だと、ばあちゃんが困ることでもあるの?」
さっきより大きな舌打ちが。
「困ることなんかないわよ、つまらないことを気にしないでもう寝なさい」
連発された舌打ちからすると、つまらないことではなさそうだけれど。
一方、寝室のじいちゃんとばあちゃんは。
「ねえあなた、大家さんですけれど」
「心配しなくても大丈夫だろ、しっかりしていて良さそうな人じゃないか」
「ちゃんとした人だってことくらい分かりますよ、そうじゃなくて」
「だったら何を」
「会社から帰ってきた美波ですよ、見ましたか?」
「美波がどうした」
「控えめだけれど、ちゃんとお化粧をしていましたよ」
「化粧ぐらいしているだろ、会社勤めなんだから」
「本当に鈍いわね、あの子が会社の帰りにお化粧をし直しているんですよ」
まるで、鬼の首でも取ったかのようなばあちゃん。
「それに、顔色だってとてもいいもの」
「うちで暮らしていたときより、通勤が楽になったって言っていただろ」
「家の中だって、ちゃんと奇麗にしているでしょ」
「掃除しているんだろ」
「以前は会社から帰ったら疲れていて、掃除なんてとても」
「良太も言っていただろ、掃除をするのがこの家を借りる条件だって」
「これだから男親って、大家さんがいるからですよ」
「大家さんがいるから、どうしたと?」
「あの子もまだ若いんですし、良太だって父親が恋しい年頃なんですから」
「美波と大家さんか、何もないって言っていただろ」
「あんなに仲がいいんだから、絶対に何かあると思ったんですけれど」
「だったら、何かあっても構わないだろ」
「そうですよね、二人とも大人で独身なんですから」
隣りの部屋で、そんなことを言われているとは露知らず。
いつもと変わらずに、幸せそうに寝ている母さんでした。
翌日、母さんは朝早くから大家さんの部屋に来ているんです。
と、いうのも。
「うちの親が一緒にお昼を食べようと言っているんだけれど、どう?」
「俺は構わないけれど、地下鉄で帰るんだろ」
「ええ」
「駅までの途中や駅の周りには、みんなで入れるような店はないけれど」
「帰りは私鉄でもいいわよ、山手線経由で日暮里から常磐線で帰れるもの」
「じゃあ、乗り換え駅まで見送るついでに面白い店に行こうか」
「面白いお店って?」
「行けば分かるよ」
そんなわけで、僕たちはじいちゃんとばあちゃんを見送りに行くことに。
大家さんが連れていってくれたのは。
山手線への乗り換え駅から歩いてすぐの、うなぎ屋さん。
まだお昼前なのに、お店の中に入るとたくさんの人がいて。
しかも、ほとんどの人がお酒を飲んでいる。
「あれって何なの?」
母さんがそう聞いたのは、無理もないんだ。
ほとんどの人が食べているのは、うな重やうな丼じゃないんだもの。
「うなぎのいろんな部位を串に刺して、蒸さずに焼いているんだよ」
「ふうん、うなぎの焼き鳥版なのね」
「それがこの店の名物なんだ」
「こんなお店をよく知っているわね、仕事の帰りに寄っているの?」
「以前はね、うなぎも串だと何本かずつ頼んでゆっくり飲めるから」
僕とじいちゃんとばあちゃんは、うな重を頼み。
大家さんと母さんが串を何種類か頼んでから、大人はビールで乾杯。
自分のうな重を食べ終わったので、退屈そうな顔をしている僕を見て。
大家さんは串焼きを二本、お皿に乗せて僕にくれた。
パリッとおいしかったのは、短尺っていう蒸していないうなぎの串焼き。
もう一本のキモ串ってのは、ただ苦いだけでひと口食べて母さんにパス。
「キモは、良太にはまだ早過ぎたわね」
「俺だって、キモがうまいと思ったのは二十才を過ぎてからだったよ」
「じゃあ、これはもっと無理ね」
そう言いながら、母さんはうなぎの頭を焼いた串を食べている。
「絶対に無理だろ、俺だってカブトは食わないもの」
「お母さんはどう、カルシウムを補えるから骨粗しょう症の予防に」
今度は、ばあちゃんに勧めているけれど。
カルシウムを補うのが目的なら、骨せんべいでいいんじゃないの?
そろそろ行こうかってころ。
母さんがトイレで席を立つと、ばあちゃんが大家さんに。
「美波と良太が楽しそうにしているのを見られて、安心しましたわ」
「わたしこそ、美波さんと良太君には感謝しています」
「感謝だなんて」
「誰かが待っている家に帰るのはいいものだと、実感していますから」
「何かと迷惑をかける二人ですが、これからもお願いしますね」
帰りの電車の中で、母さんと大家さんは。
「ご両親、安心したみたいで良かったね」
「お店を出る前に、何か言われていたみたいだったけれど」
「くまさんと良太をこれからもお願いします、そう言われたよ」
「大家さんのおかげよ、ありがとう」
「俺は何もしていないよ」
「最初はあたしと大家さんは同棲しているのか、なんて言っていたのにね」
「だから言っただろ、ちゃんと話せば分かってくれるって」
小学五年生の僕がこう言うのも、何だけれど。
これからもお願いしますと、ばあちゃんが言っていたのは。
ちょっと違う意味なのではないかと、思うんだけれど。
一方、じいちゃんとばあちゃんの電車の中では。
「良い方でしたねえ、大家さんって」
「二人とも、頼りにしているようだし」
「本当に、優しくてねえ」
「あの大家さんと一緒なら、わたしたちが心配することはないだろ」
「もう少し、きちんとお願いしておいた方が良かったかしら」
「そうだな、次に会ったときにはちゃんと」
「あんな人が、美波の再婚相手だったらいいんですけれど」
「美波はもちろん、良太も懐いているようだし」
親なんて、わが子がいくつになっても心配するものなんだね。
しかも、その内容ときたら。
子供だった僕でさえ、ばあちゃんが何を考えているのか分かったのに。
そんな当たり前のことが、母さんは分からなくて。
母さんが、じいちゃんとばあちゃんが何を期待していたかを知ったのは。
それからずっと、ず~っと後になってからのことだったんです。
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