第五話 親の心、子知らず 前編
僕を育てるために、母さんはいろいろと頑張ってくれていると思います。
多少の問題点こそあれ、ですが。
仕事だって。
働いているのが、じいちゃんが役員をしている会社だといっても。
そんなコネがプラスに働くのは、入社するまでの話で。
入社してからは、コネなんて通用するはずもなく。
人より、ずっと頑張っていたみたい。
そんな母さんが、この家に引っ越しするって言い出したとき。
僕は、じいちゃんとばあちゃんが反対するんじゃないかと思ったんだ。
二人だけで新しい暮らしを始めるんだもの、心配をするのも当然だよね。
いくつになっても、じいちゃんとばあちゃんにとって母さんは娘なんだし。
そんな心配はどこ吹く風、とばかりに。
引っ越してから半月、僕と母さんは新しい生活を満喫しています。
母さんと二人の生活には不安があったけれど、大家さんがいるから。
二人っきりじゃなくて安心だし、何より毎日が楽しいからね。
今では、ずっと前から一緒にここに住んでいたように思えるもの。
家の中や僕と母さんの生活も落ち着いてきた、そんな金曜日の午後。
今日は、大家さんが振替休日で家にいるんだ。
学校から帰ったら、竹馬を教えてもらう約束をしていたから。
ランドセルを置く間もなく、大家さんと一緒に玄関を出ると。
「良太……」
「じいちゃんとばあちゃん!」
引っ越し祝いを兼ねて様子を見にくるって、母さんから聞いていたけれど。
「来るのって、明日じゃなかったの?」
「どうせなら、一泊していこうと思ってね」
「来るのが今日でしかも泊まっていくって、母さんは知っているの?」
まあ、知っていれば僕に言うよね。
「そりゃ、美波には内緒よ」
えっ、「そりゃ」の使い方が間違っているんじゃないかって?
泊まるなんて母さんに言えば。即座に断られるのは確実ですから。
断られないためには、ばあちゃんたちは内緒で来るしかない。
だから、この場合での「そりゃ」の使い方としては正しいんだ。
そんなやりとりを見ていた大家さんが。
「森野さんのご両親ですね」
「あなたは?」
「ごあいさつが送れまして、大家の石田です」
大家さんを、不審者であるかのようにじろじろと眺めているばあちゃん。
「あなたが大家さん、随分とお若いのねえ」
「とりあえずお上がりください、良太はお二人を二階にご案内して」
「うん」
「くまさんには、俺から連絡を入れておくから」
じいちゃんとばあちゃんを、リビングで待たせておいて。
大家さんの部屋に行くと、母さんに電話をしている。
僕にも聞こえるように、スピーカーモードにしてくれた大家さん。
「本当に迷惑な話よね、あたしが仕事でいないのを知っているくせに」
「見ておきたかったんだよ、くまさんがいないときに良太がどうしているか」
「で、今は?」
「とりあえず二階にお通ししたから、夕飯は俺が山河に連れていくよ」
山河とは、もうおなじみのちゃんこ屋さんです。
「本当にごめんなさい、せっかくのお休みなのに」
「俺は構わないよ、くまさんは何時に家に着く?」
「定時には出るから、家に着くのは六時ちょっと前かな」
「だったら直接お店においで、それまでは俺が相手をしているから」
電話を切った大家さんは。
「聞いただろ、くまさんは六時前に帰ってくるってさ」
「ふうん」
「俺たちは先に山河に行くから、五時半に玄関に集合だな」
「どこに行っていたのよ、良太」
「大家さんの部屋だよ」
「部屋って、大家さんもこの家に住んでいるの?」
じいちゃんと顔を見合わせる、ばあちゃん。
「それがどうかしたの?」
「どうかしたのって、美波ったら実家を出たのは同棲するためだったのね」
そういえば三人娘もさんざん言っていたな、同棲って。
「同棲じゃないって言っていたよ、母さんは」
「どこが違うのよ、現にこうやって大家さんと一緒に住んでいるじゃないの」
「あのね、大家さんは一階の自分の部屋だけで生活をしているんだよ」
「自分の部屋、だけで?」
「二階と三階には上がってこないし、お風呂も使わない約束なの」
「使わないって、お風呂に入らないの?」
「すぐそにある銭湯に行くんだ、僕も連れていってもらうことがあるよ」
「銭湯って、毎日銭湯に?」
「出張が多いし、会社で徹夜する日もあるから銭湯でいいんだって」
「それじゃ、お食事は?」
「ほとんど外食だよ、週に二回か三回は僕らと一緒に行くんだ」
「何だかとんでもない生活しているみたいねえ、大家さんて」
「ちゃんとした人だよ、その約束だって大家さんが言い出したんだもの」
「そうねえ、そんなちゃんとした約束をあの美波が言い出すとは思えないし」
ばあちゃん、母さんのイメージって……。
「もう行ってもいいかな、大家さんに竹馬を教わる約束しているんだ」
僕が飛び出していった後、なにげなく窓から下を眺めていたばあちゃんが。
「あなた、ちょっと見てくださいな」
「どうした」
「良太ったら、あんなにふらふらしていますけれど大丈夫かしら」
「大丈夫だろ、大家さんが見てくれているんだから」
「あなたったら見もしないで、ああ危ないっ!」
それでも三十分もするころには。
「あなた、竹馬の踏み板があんなに高い位置に」
ばあちゃんに促されて、やっと外を見たじいちゃん。
「どこがふらふらしているだ、あんなに動けているじゃないか」
「だって、さっきは乗るのがやっとだったんですよ」
「良太は運動神経が抜群だからな、それに大家さんの教え方がいいんだろ」
「あんなに楽しそうな良太、久しぶりじゃない」
「父親といる気分なんじゃないか、一緒に遊んだ記憶はないだろうから」
「大家さんといると父親といる気分、ですか?」
竹馬を終えて、二階に上がると。
ばあちゃんが、お土産のカステラを出してくれた。
「そんなに慌てて食べなくても、誰もとらないわよ」
「いいじゃないか、あれだけ動いたんだから腹が減ったんだろ」
「お夕飯はどうするつもりかしら、美波はいつもなら何時に帰ってくるの?」
「そうだった、母さんは六時に帰ってくるって」
「じゃあ、六時になったら……」
「五時半になったら、僕らは大家さんと一緒にご飯を食べに行くんだよ」
「大家さんとご飯にねえ、美波は?」
「後で合流するって」
「で、どこに行くの?」
「山河、向かいのちゃんこ鍋のお店だよ」
「リビングやキッチンだけじゃなく、三階の部屋も見たけれど」
早くも敵情視察を終えた、ってことですか。
「美波にしちゃ、奇麗にしているじゃない」
僕は、二つ目のカステラに手を伸ばしながら。
「そりゃ、借りているスペースの掃除をするのがこの家を借りる条件だもの」
「うちにいたときは、掃除なんか満足にしたことがなかったのにねえ」
「大家さんがチェックをしに来るから、じゃないのか?」
「チェックはしないよ、大家さんは二階より上には来ないって言ったでしょ」
五時半になると一階に下り、玄関で待っていた大家さんと四人で山河へ。
予約しておいてくれたお座敷に座ろうとする僕に、大家さんは。
「まずは、目上の人を案内するんだって言っただろ」
「だって、いつもは」
「いつもは俺とくまさんだろ、今日は二人ともお客さまなんだぞ」
「そうか、じいちゃんとばあちゃん奥にどうぞ」
このやり取りに、目を丸くしているじいちゃんとばあちゃん。
「今から注文をしておけば、鍋ができ上がるころには森野さんも来ますから」
そう言った大家さんから、飲み物は何にするか聞かれたじいちゃん。
「じゃあ、わたしたちはビールを」
大家さんは飲み物とちゃんこをオーダーすると、メニューを僕に渡して。
「自分が勧めたいものを三品、二人前ずつ頼んでみな」
「三品か、僕が好きなものでいいんだよね」
少し考えてから、僕が頼んだのは。
アスパラガスの肉巻きと銀ダラの西京焼きに、マグロのお刺し身。
「ちょっと良太、アスパラガスなんて食べないでしょ」
「大家さんからおいしいから食べてみろって言われて、今じゃ大好物だよ」
「まあ……」
「大家さんはね、三十才までアスパラガスを食べられなかったんだ」
ぽかんとしているばあちゃんに、僕はちょっと自慢げに。
「僕はまだ十才だから、優秀なんだって」
いつもは二人前用なのに、今日は四人前用の大きなちゃんこ鍋。
店員さんが具材を入れている間に、頼んだ料理もテーブルに並んで。
ぱくぱく。
ばあちゃんは、西京焼きに手を伸ばした僕に。
「魚の骨を取ってあげるから、よこしなさい」
「自分でできるからいいよ」
「おまえが、自分で?」
「今のうちから奇麗に食べられるようにしろって、大家さんに言われたんだ」
「大家さんが?」
「会社の人や、結婚相手の家族の前で恥ずかしい思いをするからって」
ぱくぱく。
「おまえ、いつからわさびを使うようになったの?」
「わさびなら、特訓をしたんだよ」
「特訓?」
「僕の年ならわさび抜きでと言うのは、そろそろ恥ずかしい年なんだって」
ぱくぱく。
ばあちゃんは、箸を持ったまま。
何か言いたそうを通り越して、びっくりした顔をしている。
そうこうしているうちに、母さんが到着。
「大家さん、ごめんね」
「鍋もちょうどでき上がったし、ぴったりのタイミングだよ」
「良かった、間に合って」
「じゃあ、俺はこれで」
そう言って立ち上がると、大家さんは。
「わたしはこれで失礼しますので、ごゆっくりお過ごしください」
じいちゃんとばあちゃんにそう言うと、お店を出ていった。
「なんだ美波、大家さんは一緒に食事をしないのか」
「気を使ってくれたのよ、久しぶりの家族のだんらんだろうからって」
「そういえば、お酒以外は何にも手を付けていないのね」
「あたしが帰るまでの、黒子のつもりだから食べなかったんでしょ」
「申し訳なかったわね」
「大家さんって、そういう人なのよ」
「どうして急に来たのよ、大家さんに迷惑じゃない」
「そんなことより、先に言うことがあるでしょ」
「先に言うことって、何よ?」
「決まっているでしょ、大家さんとはどんな関係なのかってことよ」
「どんな関係って、結婚するまでいた会社の先輩と後輩だって話したでしょ」
「そんなことを聞いているんじゃないでしょっ!」
「じゃあ、どんなことを聞きたいのよ」
「大家さんとの、本当の関係に決まっているでしょ」
「本当の関係?」
「親に内緒で、同棲までしているじゃないの」
「何を言っているの、ただの下宿人と大家よ」
「お付き合いしているんじゃないの?」
「そんなんじゃないってば」
これまでのやり取りを、黙って聞いていたじいちゃんが。
「それにしても、良太は大家さんって人とやけに親密だな」
「大家さんは平日が休みのことも多いから、良太の面倒を見てくれているの」
「しつけや食べ物の好みまで、すごい影響力じゃないか」
「そうねえ、遊びや勉強もあたしとより大家さんと一緒にすることが多いし」
「昼間も良太に竹馬を教え……」
竹馬と聞いたとたんに、母さんは。
「そうだ竹馬、もう乗れるようになったの?」
「最初はうまく乗れなかったけれど、すぐに乗れるようになったよ」
「良太が竹馬に乗るのは、今日が初めてだったのかい?」
「うん、大家さんがスパルタ教育で教えてくれたんだ」
「よっぽど教え方が上手なのね、あの大家さんって人は」
「そのぶくぶくはあくじゃないから、そのままでいいんだって大家さんが」
「へえ、そうかい」
「このちゃんこ鍋はね、イワシのつみれがおいしいんだよ」
「ほう」
「最後におじやを食べるから、おなかをいっぱいにしないで」
「ちょっと良太、自分ばかり食べていないで」
「母さんたちが食べないからだよ、取り分けてあげたのに話し込んじゃって」
ここで、荷物を手に立ち上がった母さんは僕に。
「食べ終わったら、おじいちゃんとおばあちゃんに夜桜を見せてあげて」
「夜桜って、これから?」
「桜の橋を通って、スーパーマーケットのあたりまで行けばいいから」
「僕が一人で、母さんは行かないの?」
「あたしは、大家さんにお礼がてら一杯付き合ってくるから」
それを聞いたばあちゃんは。
「ちょっと、親を残して」
「その親がかけた、迷惑のおわびをしに行くんでしょ」
「大家さんがどこにいるか分かっているの、母さん」
母さんは僕の質問には答えずに、笑って手を振りながらお店を出ていった。
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