第三十一話 やっぱり、くまさんは春から 前編
母さんの結婚式を一週間後に控えた、土曜日の夜のことです。
仕事から帰ってきて、着替えを終えた大家さんに。
クリーニングに出すワイシャツを受け取りながら、母さんが。
「三人娘をここに住まわせることで、相談があるんだけれど」
「どうしたのさ、珍しく深刻な顔をしちゃって」
珍しくって……、確かに母さんが深刻な顔をしているのは珍しいけれど。
「親御さんに、ちゃんと話を通しておくべきじゃないかと思うのよ」
「へえ、くまさんにしてはまともなことを言うんだね」
茶化さないであげてよ、大家さん。
「両親が大阪にいる鹿山はともかく、せめて猪口と蝶野の親御さんには」
「電話で済ますわけにもいかないだろうし、直接会って話すべきだろうな」
「でも、こんなことで会社に呼ぶのもどうかしら」
「うちに来てもらうしかないね、生活環境を見ておけば安心もするだろうし」
そうかなあ、かえって不安になるんじゃないかな。
「結婚前なのに、面倒なことばかり増えるわね」
寝室でゴロゴロしている三人娘に、そんな話を伝えた母さんは。
「それと、結婚式の前後五日間ずつは泊まりに来ないようにね」
さらなる爆弾を投下したんです。
「え~っ、お式まで毎日ここに泊まるって決めたのに」
「毎日って、そんなことを断りもなしに勝手に決めているんじゃないわよ」
「ウチらにも、都合っちゅうもんがあんねん」
「どんな都合よ、家主の都合はこれっぽっちも気にしないくせに」
「こうやって泊まることで、ささやかなお祝いを毎日しようかと」
「お祝いなんていらないわよ、むしろあなたたちがいないことがお祝いだわ」
へえ、母さんにしては上手な返しだな。
「この間だって、旅行に無理やりついてきちゃうし」
「大家さんと話し合いの末、妥協点を見つけた結果ですよ」
「何が妥協点よ、とにかくあの人と静かに過ごしたいの」
「聞ぃたか、あの人やて」
「うるさいわねっ!」
「枯れ木も山のにぎわい、と昔から言いますわ」
「意味を分かって言っているの、それってあなたたちが枯れ木だってことよ」
母さんは、猪鹿蝶をにらみ付けてから。
「とにかく、十日間はお泊まり禁止だからねっ!」
お次は、ばあちゃんに電話をしている。
「だから、わざわざ前日から泊まりに来なくてもいいって言っているのよ」
「着付けやお化粧があるから、朝にこっちを出たんじゃ間に合わないでしょ」
「近くのホテルを予約してあげるわよ、そこに泊まって朝一番にうちに来て」
「結婚式の前夜を家族で過ごしたい、そんな親心が分からないの?」
「あたしは、一人で静かに過ごしたいって言っているの」
「本来ならこの家からお嫁に出すのよ、なのに同棲なんかしているからっ!」
「同棲じゃなくて家を借りているんでしょ、何度言えば分かるのよっ!」
とうとう怒鳴り合いになっちゃった。
「前回は一緒に過ごしたでしょ、だから今回は」
「やめなさい、縁起でもない」
「それに、お父さんが来たら大家さんと飲んじゃうでしょ」
「だから、何よ」
「二日酔いで、お式どころじゃなくなっちゃうもの」
激しい攻防の末に母さんは、前日はホテルに泊まることを同意させたんだ。
翌週の金曜日、昼前からどこかに行っていた母さんは。
夕方になると、両手にデパートの紙袋をいっぱいぶら下げて帰ってきた。
結婚式の前日は何かとバタバタするからって、休みを取ったはずなのにな。
「わざわざ休みを取ってまで、何を買ってきたのさ?」
「明日、使うものよ」
母さんから紙袋を受け取った僕は、びっくり。
びっくりといっても、僕が驚いたのは母さんにでも紙袋の中身にでもなく。
母さんの後ろに隠れるように立っている、あゆみに。
「そんなに驚くことはないでしょ、あゆみちゃんじゃない」
「あゆみが来るのは、明日の朝じゃないの?」
「どうせなんだもの、今日から来てもらったのよ」
ばあちゃんには、一人で静かに過ごしたいって言っていたくせに。
あゆみには来てほしいんだ。
「それに、春休み中はずっとうちに泊まってもらうことにしたから」
「あゆみちゃんを東京駅まで迎えに行ってから、デパートで買い物をしたの」
そう言いながらリビングに移動した、母さんとあゆみ。
片っ端から、紙袋の中身を取り出しているけれど。
どうやら全部が全部、あゆみに買ったワンピースに靴やら春コートみたい。
「明日、あゆみちゃんに着てもらおうと思ってね」
「こっちで着る服なら、出張に行ったときにたくさん買ったじゃない」
「あれは冬服だもの、明日のお式には春の服が必要でしょ」
ご機嫌だな。
「やっぱり女の子っていいわね、お買い物していても楽しいんだもの」
「悪うござんしたね、ちっとも楽しくない男の子で」
「いいから、あなたはあゆみちゃんの荷物を寝室に持っていきなさい」
「ちょっと待っていて」
寝室に入ろうとするあゆみに、僕が自分の部屋から取ってきて渡したのは。
このひと月の間に必死で探した、青いイルカのブローチ。
「遅くなってごめん」
「これ……、どうして」
「チョコレートのお返しだよ」
「うれしい……、ヘアピンとおそろいなのね」
うつむきながら小さな声でそう言うと、あゆみの頬がみるみる赤くなった。
「結婚式で会ったときに、直接渡そうと思っていたんだ」
夕ご飯は、いつもの焼き肉屋さんへ。
あゆみが、かいがいしく網の上で肉を焼いて。
それを食べ、ジョッキの中身をぐんぐんと減らしている母さんと大家さん。
結婚式は明日なのに、独身最後の食事って雰囲気が皆無だな。
大家さんはともかく、母さんでさえ緊張感のかけらもないなんて。
そんな二人を見ていると、我慢がならなくって聞いてみた。
「どうしてそんなに落ち着いていられるの、結婚式は明日だよ」
僕の質問に、それがどうしたって顔をしている二人。
「緊張感がまったく伝わってこないね、もしかして二人とも二度目だから?」
つまらないことを聞くんだな、なんて顔をした大家さんは。
「一年間も、毎日のように一緒にいるんだぞ」
「こんなことで緊張するなら、結婚しようなんて言っていないわよ」
「いつか結婚するときがくれば、おまえのも分かるさ」
涼しい顔でそう言いながら、楽しそうにしている母さんと大家さん。
あゆみは、肉を焼く手を止めて羨ましそうに見ている。
そんなに結婚をするのが羨ましいのかな、女の子って不思議だね。
焦げちゃうよ、網の上の肉が。
キッチンで一緒に朝ご飯の支度をしている、母さんとあゆみ。
「いいんでしょうか、わたしがお式に出席しても」
「もちろんよ、新婦のあたしが是非とも出てほしいって言っているんだから」
「わたしは、お身内ではないですし」
「大丈夫だってば」
「でも……」
「あゆみちゃんも十年もすれば結婚するでしょ、見ておけばためになるもの」
そうこうしていると、まだ七時なのにばあちゃんたちが来ちゃった。
「この子ったら、何をのんびりと朝ご飯だなんて」
「お式はお昼からよ、九時に出れば間に合うのにこんなに早く来なくても」
「少しでも早い方がいいでしょ、お化粧や着付けがあるんだから」
「それは式場に着いてからじゃない、年だから早く起きちゃっただけでしょ」
「親に向かって、年だからとは何よ」
「あの……、キッチンのお片付けや良太さんのお支度はわたしがしますから」
「悪いわねあゆみちゃん、お願いするわ」
リビングに移動してから、ばあちゃんは。
「ちょっと、今の娘さんは誰なのよ?」
そうか、ばあちゃんはあゆみに会うのは初めてだったね。
「あゆみちゃんよ、あたしの部下の妹」
「部下の妹がどうしてあなたの家にいるの、しかも結婚式の日に」
「結婚式に出席してもらうんで、大阪から東京に来てもらったのよ」
驚いてぽかんとしているばあちゃんに、涼しい顔をして母さんは。
「せっかくだから、春休みの間はうちに泊まってもらうの」
ひと駅だから電車で行くって、言ったのに。
大家さんが呼んでくれたタクシーに、ばあちゃんと乗り込んだ母さん。
僕が通う小学校の前にある、桜の橋を右折するときに。
車窓から見える川沿いの桜は、今が満開。
この桜が満開なのを初めて見たのは去年、大家さんと一緒にだっけ。
大家さんと暮らすようになってから一年か、いろんなことがあったよね。
「ここの桜、夜だけじゃなくて昼間も奇麗なのね」
「夜桜って、お母さんも見たことがあったっけ」
「引っ越したあなたを訪ねたときに、お父さんや良太と散歩をさせたでしょ」
「そんなことがあったかしら」
「あなたは焼き肉屋さんに行っていたからね、大家さんに会いに」
「ちゃんこ屋さんの後か、そうだったわね」
「二人で笑っていたわよ、楽しそうに」
ここで言葉を切ったばあちゃんは。
「良かったわね、大家さんにもらってもらえて」
ばあちゃんったらこんなときに、母さんがちょっと泣いているじゃない。
母さんの支度が終わった直後、新婦の控室に大家さんのお母さんが。
花嫁衣装のせいで、身動きがとれない母さん。
申し訳なさそうに、座ったままで会釈をすると。
「奇麗だねくまさん、強にはもったいないくらいだ」
「ありがとうございます、お義母さま」
大家さんのお母さんが、じいちゃんやばあちゃんと談笑していると。
「森野君、おめでとう」
声をかけられて振り向いた母さんの目には、大家さんの会社の社長さんが。
母さんにとっても、最初に結婚するまで勤めていた会社の社長だよね。
「あ、ありがとうございます」
びっくりしながらも、お礼を言った母さんだけれど。
親族だけの式にどうして社長がいるのって、ひきつった笑顔になっている。
きっと、母さんはパニックになりかけているんだろうな。
「それにしても、森野君と強が結婚するとはな」
社長さんが、ここでいるだけでも驚いているのに。
どうして大家さんのことを強って呼んでいるの、って顔に。
「びっくりした顔をしてどうした、強から聞いていないのかい?」
大家さんのお母さんからそう言われて、母さんは首を横に振りながら。
「あたしは、何も聞いておりません」
パニックが、急勾配の上り坂に差し掛かっている母さん。
「まったくあの子はしょうがないね、くまさんに何も話していないだなんて」
そう言いながら、大家さんのお母さんは社長さんを指差して。
「あたしの妹の旦那だよ」
じゃあ、社長さんが大家さんの叔父さんってこと?
「強にとっちゃ叔父だし、あたしには義弟だからここにいて当たり前なんだ」
大家さんたらだめじゃないか、そんな大切なことを話していないなんて。
心の中で同じように叫んでいるんだろうな、母さんも。
母さんの混乱が続いている中で始まったお式。
参加者は、ごく身内だけだから。
新郎側には、大家さんのお母さんと叔父さんと奥さんが。
そして、新婦側にはじいちゃんとばあちゃんと僕にあゆみ。
「奇麗だよ、くまさん」
みんなが着席して、お式が始まるってときに母さんにそう言った大家さん。
大家さんが、心からそう思ってくれているのは伝わるし。
普通なら一生記憶に残る、大切なひと言のはずだけれど。
パニックによるきつい上り坂にふらふらの母さんは、それどころじゃない。
「どうして話してくれなかったのよ」
「何を?」
「社長のことに決まっているでしょ、叔父さまだなんて聞いていないわよ」
「だって、聞いてこなかったから」
「大家さんが三十代半ばで課長なんて超スピード出世をしたのは、それでね」
「違うよ、会社じゃ俺と社長が親戚だなんて誰も知らないもの」
そんな母さんにお構いなく、式は始まって。
神前の式って、僕には少しだけ儀式的な感じがした。
これで夫婦になりましたなんて、実感がわかないかもね。
それでも母さんは、三三九度が終わるころには感極まっているみたい。
自分をもらってくれる人の横にいるんだ、そう思ったのかな。
悲しくてもつらくても、泣いたことなんかなかったし。
あれだけ、式でも泣かないって言っていたのに。
もう一度、大家さんから奇麗だよって言われて泣いちゃった。
本当に幸せなときって、涙しちゃうんだね。
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