第三話 要警戒、三人娘は接近中 前編
大家さんの家でのお泊まりから、早くも一週間。
春休みに入った初日に、母さんと僕は意気揚々と引っ越してきました。
ただ、引っ越しといっても荷物は。
引っ越し屋さんが用意してくれた、靴や食器などを運ぶ専用の箱を除けば。
衣服を中心とした身の回りのものを入れた、七つの段ボール箱だけ。
これには、引っ越し業者さんも苦笑いしていた。
家具や家電はそろっているんだから、必要なものだけ持っておいで。
確かに、大家さんからそう言われてはいたけれど。
真に受けちゃうんだもんな、母さんは。
「これだけなら、俺が車で運べば良かったな」
トラックから降ろされた荷物を前にして、大家さんも気が抜けたようで。
「積みきれないでしょ、大家さんの車じゃ」
「箱に入っていなければ、エンジン後ろのスペースと助手席で何とかなるよ」
引っ越しは、九時から始めたんだけれど。
九時半前には出発し、十一時に着いて荷物を降ろすとほぼ終わっちゃった。
「たったの二時間で終わっちゃうなんて、引っ越しをしたって実感がないわ」
偉そうに言っているけれど。
荷物の整理すら僕にやらせて、母さんは見ていただけだろ。
「男手が必要だろうから、手伝うつもりで休んだのに」
ほら、大家さんも言っているよ。
後から考えてみると、こんなことで大家さんが会社を休むのは珍しいのに。
「どうせ暇なんだし、引っ越しのお祝いをしましょ」
そう言って、財布を手にした母さん。
暇で当然だよね、何もしていなかったんだから。
「信号の手前に酒屋さんがあったでしょ、買ってきてよ」
「やめてよ、昼間っからお酒なんて」
「昼間でも、やるべきことは終えたんだし」
「そもそも僕は小学生だよ、お酒なんて買えないだろ」
「酒なら、俺の部屋の冷蔵庫にあるよ」
「大家さんの冷蔵庫にあるのは四本でしょ、今から飲むなら足りないわ」
どれだけ飲むつもりをしているのさっ!
「お祝いだったら酒屋の隣りの焼き肉屋はどうかな、昼から開いているから」
大家さんまで余計なことをっ!
焼き肉を食べながら、大家さんが切り出したのは。
「じゃあ、最初に決めておこうか」
「決めるって、何を?」
ビールのジョッキを片手に、無邪気に聞いた母さん。
「赤の他人の男女が、ひとつの家に暮らす上でのルールだよ」
「そんなの、いまさら」
「決めておかないと、くまさんのご両親だって安心できないだろ」
ちゃんとしている大家さん対ちゃんとしていない母さん、って図式か。
「自分の部屋以外で俺が使うのは、一階の洗面所とトイレかな」
「お風呂もでしょ」
「風呂は使わないよ、ちゃんこ屋の何軒か先にある銭湯に行くから」
「そんなの不便じゃない、雨が降った日はどうするのよ」
「目と鼻の先だし、時間に気にしなくて済むからその方が楽なんだ」
空になった母さんのジョッキを見て、お代わりを頼んだ大家さん。
「それと、俺は二階から上には行かないから」
「この前も言っていたわね、自分の家なのにどうして来ないの」
「二階より上は貸したんだから、これからはくまさんたちのスペースだろ」
「あたしは構わないのに」
「けじめだよ、けじめ」
「だったら、あたしからも」
「くまさんから、何を?」
「親族以外の異性を、家に入れないこと」
「何だよ、それ」
「大家さんが女の人を家に連れ込んだら、良太の教育上よくないでしょ」
母さんったら、大家さんに女の人を呼んでもらいたくないのかな?
しかも、連れ込むって。
「俺は家に呼ぶ女性なんかいないからいいけれど、くまさんは困らないの?」
「心配はご無用、あたしは奇麗さっぱりですから」
それって自慢することじゃないよ、母さん。
引っ越しにより激変したのが、僕の日常です。
まずは、家事の役割分担。
ゴミ出しをすることになったのを、始めとして。
洗濯物を取り込むのは僕だし、お風呂の掃除も僕がしています。
母さんから頼まれた日には、買い物にだって行くんだ。
次に、夕ご飯。
以前は、夕方に帰ってくるとばあちゃんが作ってくれたご飯があったのに。
今は、母さんが帰ってくるのを待っていなきゃいけない。
そうはいっても、大家さんが週に二日か三日は平日の夕方に家にいるんだ。
振替休日や、徹夜明けでの午前中に帰宅することや。
出張からの早帰りだって、多いからね。
そんなときは外食に連れていってくれるし、母さんも後で合流するんだ。
最後は、大家さんと過ごす時間。
今も言ったように、食事をする機会も多いし。
休みの日に遊んでもらったり、一緒に銭湯に行ったりすることも。
昨日は、釣りに連れていってもらう約束をしたから。
今度、僕の釣りざおやリールを買いに行くんだ。
そんな変化は僕だけではなくて、むしろ母さんに。
まずはお化粧、かな。
「くまさんって、昔とはメイクが違うよね」
「大家さんの会社にいたころは若かったもの、女性のメイクは変わるのよ」
「そうなんだ、ナチュラルなメイクってくまさんに似合っていたのにな」
「えっ、そうだった?」
なんて、大家さんとの会話がきっかけだったと思う。
これまでは、働く女性ですって感じのお化粧だったのに。
控えめというか大人しいというか、清らか系にイメージチェンジを。
それに、家の中での服装も。
部屋着や寝間着には、Tシャツやスウェットを着ていたのに。
会社から帰ると、ちゃんとした服に着替えるんだ。
休みの日だってそうだし、夜は夜でちゃんとパジャマを着ちゃって。
その理由として考えられるのは。
夕食後に、大家さんの部屋でお酒を飲むのが日課になっているからだよね。
大家さんが帰ってくる日は、お風呂の後にパジャマ姿で部屋に行くことも。
夜に男性の部屋に行くのに、パジャマ姿ってのはどうかと思うけれど。
それを問題とするなら、夜に男性の部屋に行くこと自体もか。
何といっても、特筆すべきは料理で。
実家でもたまにしていたけれど、今では自分が休みの日には料理を作るし。
それに、作る料理にも変化が。
フライとか唐揚げとか、僕が好きなものばかりだったのに。
男の人が好きそうな、肉じゃがやサバのみそ煮をやけに作るし。
しかも、大家さんに食べてもらうんだと部屋に運ぶんだ。
母さんのこんな変化は、僕にとっても歓迎すべきことだと思う。
いつの間にか、僕らは大家さんとの生活に慣れているってことだものね。
でも、これから僕が話すのはそんなほのぼのとしたことではなくて。
これから吹き荒れる嵐。
ちょっと強めの風じゃなくて、猛烈な台風みたいな嵐のこと。
それは、母さんの会社でされていたこんな会話から始まるんだ。
「そもそも、あなたたちがねえ」
「だから、あのときのことは謝っているじゃないですか」
「ひと月以上たっとるのに、いつまでも根に持つなんて先輩らしゅうない」
「そろそろ許していただけませんこと?」
前も言いましたっけ。
母さんは、人材派遣会社の社内教育課で係長をしているんです。
で、母さんに謝っているのは同僚の三人。
背が高くてロングヘアーなのが、猪口直美さん。
二十三才の大卒三年目で、細身で長身のごく普通のOL。
健康的な小麦色に日焼けしてショートカットなのが、鹿山夏樹さん。
同じく二十三才の大卒三年目で、関西出身のさばさばした性格。
ほわっとしていてやけに丁寧な口調なのが、蝶野桜子さん。
二十二才の大卒二年目で、超が付くお金持ちの家の一人娘。
いつも三人でいる彼女たちは、三人娘とか猪鹿蝶とか呼ばれている。
まずは、猪口さんと鹿山さんが入社して。
猪と鹿がいるなら、蝶が付く子がいれば猪鹿蝶だねって話題にしていたら。
翌年に蝶野さんが入社したんで、めでたく猪鹿蝶をコンプリート。
そして、三人娘が母さんに謝っているのはなぜかというと。
母さんが大家さんと再会した日に、合コンがドタキャンをされたでしょ。
そのドタキャンの張本人が、ほかならぬこの三人だったから。
「今回の引っ越しだって、あのドタキャンがきっかけだったんですよね」
「災いを転じて福となす、なんやし」
「そうですわ、めでたくお引っ越しされたのですから」
「ちょっと、自分たちのおかげみたいな言い方をしていない?」
「滅相もない、そんなことはこれっぽっちも」
「そうでっせ、すべて先輩の行いのたまものやん」
「日頃から功徳を積まれた結果、自ら手にされた幸運ですわ」
「おだてても何も出ないわよ、しかもうちに来たいなんて」
「引っ越しをしたばかりなら、人手が足りないのではと」
「都内の一戸建てやろ、いっぺん拝ましてもらいたい思て」
「せっかく、お引っ越しのお祝いも用意しているのですから」
そんなわけで、三人娘は今週の土曜日に遊びに来ることになったんです。
新生活を始めたばかりの、わが家にね。
多少なりとも、新居をお披露目したい気持ちがあったんだとは思うけれど。
母さんは、忘れているのでは?
わが家に住んでいるのは、僕たちだけじゃないってことを。
土曜日の昼下がり、うちの前に到着した三人娘ですが。
早くも、何やらもめております。
「先輩からのメモには、右側の二軒目だって書いてあるけれど」
「せやったらこの家やろ、けど表札が二枚も出とるわ」
「森野の表札は、先輩のでしょう」
「それは、ともかくとして」
「上の石田っちゅう表札は、何やろ?」
「わけが分かりませんわね」
けげんな顔をして、メモと表札を見比べながら。
「住所は、ここで間違いないみたいだけれど」
「おっ、玄関先に出てきたんは良太やんけ」
「やっぱり、ここで間違いないようですわね」
ゴミ出しに出て三人娘と鉢合わせした僕は、飛んで火に入る夏の虫の状態。
「久しぶりね良太君、大きくなったわね」
「どないした、そないに驚かんでもええやろ」
「少なくとも、わたくしたちのことは覚えているようですわ」
「去年の夏休みに、一緒に旅行したものね」
「海で遊んでやったやろ」
「花火もしましたし、おいしいバーベキューだって」
そんな例をあげなくても、心配はご無用です。
普通の人なら、あなたたちのことは一度会ったら決して忘れないと思うよ。
「ゴミ出しか、お手伝いをするなんて偉いわね」
「まさか先輩、まだ寝とるんとちゃうか」
「もう、お昼をとっくに過ぎていますのに?」
そんなことは、ともかくとして。
「まだ一時だよ、どうしてこんなに早く来たの?」
三人娘が来るのは二時だって、母さんは言っていたのに。
「いても立ってもいられなかったのよ」
「少しでも早よ、先輩の新しい家を見とうて」
「気がついたら、一時間も早く」
若い娘がそろいもそろって、休日に暇を持て余しているなんて。
「ねえ良太君、先輩は中にいるんでしょ?」
「おるんやったら、ウチらが来たと伝えてや」
「ちゃんと、お土産もお持ちしたと」
そりゃ、あなたたちが来たと伝えるには伝えるけれど。
タイミングとしては、今はちょっとまずいと思うんだ。
正直に言えば、かなりまずいかもしれない。
いっそのこと、母さんが寝ていてくれる方がどんなにましか……。
そんなことを考えている僕の気持ちも知らずに、三人娘は。
「家の中で待っていましょうよ」
「せやな、こないなとこで待っとるのも」
「そうですわね、お土産のアイスクリームが溶けてしまいますし」
「ちょっと待っていて、僕が呼んでくるから」
よほど慌てていたのか、僕はゴミを持ったまま家の中へ。
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