第二十一話 良太だって出張、しちゃうんです 前編
十一月に入り、肌寒い日が増えたなと思っていた夜。
お風呂を出て二階に行こうとすると、大家さんの部屋から聞こえたのは。
「だって、大家さんだってお仕事があるでしょ」
「金曜日は振替休日にすればいいし、週末は仕事が入っていないから」
母さんと大家さんが、何の話をしているかというと。
社員の研修や教育を受け持つ母さんの部署では、月に一度。
東西の担当者が集まり、来年の新人研修の予定や内容を決める会議があり。
そして、その会議の責任者は母さんなんです。
いつもは大阪の担当者が東京に来るのに、今月に限って大阪で行うことに。
つまり、母さんは金曜日の朝から大阪へ出張をするんだけれど。
ここで、問題がひとつ。
先週の学芸会の振り替えで、僕は金曜日が休みだってこと。
「良太は俺が見ているから、心配しないでいっておいで」
「助かったわ、お母さんに来てもらおうか迷っていたのよ」
やっぱり、困ったときは遠くの親より近くの大家さんだよね。
「会議は、金曜日いっぱいで終わるんだよね」
「ええ、土曜日は帰ってくるだけ」
「鹿山も行くなら気分転換に大阪を案内してもらえば、帰りは日曜日にして」
「どうして、あたしが気分転換を?」
「くまさんって、このごろ元気がないみたいだから」
母さんの元気がないように見えるなら、原因は大家さんにあるんじゃない?
お見合いをしなかったのに、何のアクションも起こしてくれないんだもの。
根本的な原因である、大家さんから気分転換をしろって言われても。
「じゃあ、そうしちゃおうかな」
あれ、母さんったら気分転換をしたかったの?
金曜日の朝。
家を出る母さんを見送ってから、大家さんに。
「母さんったら随分と張り切っていたけれど、出張ってそんなに楽しいの?」
「月に三回も四回も出張をする俺は、新幹線を見るのもへきえきしているよ」
げんなりした顔をして、そう言った大家さん。
「くまさんみたいに、年に一回か二回なら違うんじゃないかな」
「違うって、どう違うの?」
「ほんの少しは、旅行をするような気分になっているかも」
「そうなんだ、母さんだけ旅行気分だなんて悔しいな」
「おいおい、かもって言っただけだぞ」
さっきの顔を見る限り、間違いなく旅行気分だったよ。
「明日やあさっては観光をするって言っていたし、絶対に旅行気分だったよ」
「あのなあ、自分の母親を何だと思っているんだ」
「母さんを熟知しているからこそ、僕は言っているんだよ」
「三連休なんだからどこかに連れていってよ、大家さんも休みなんでしょ」
「どこかって?」
「僕だって母さんみたいに旅行をしたいな、どこでもいいから」
「旅行って、くまさんは仕事に行っているんだぞ」
「あれは立派な旅行だよ、だから僕も連れていってよ」
「しょうがないな、だったらおまえも行ってみるか」
「行くって、どこに?」
「大阪に出張するんだよ、日曜日まで大阪ってのはどうだ」
「僕が、出張に?」
「ホテルも聞いてあることだし、くまさんの仕事が終わったら合流して」
そんな、大家さんの提案により。
三十分もせずに支度を終えた僕は、初めての出張に出発したのでした。
東京駅に着き、新幹線のホームに上がった僕と大家さんは。
発車前に売店で買い物をしてから、座席に。
僕はサンドイッチとジュースで、大家さんは鶏の唐揚げと枝豆にビールを。
荷物を置いてから、携帯電話を取り出した大家さんは。
母さんと同じホテルの予約をしに、もう一度ホームへ。
改めて、車内を見回してみると。
平日の午前中だからか、乗客の大半がスーツ姿の会社員だな。
そうこうしているうちに、予約が終わったみたいで戻ってきた大家さん。
「明日から週末なのに、部屋は取れたの?」
「ああ、駅近くのホテルでも金曜日からの二泊の上に」
「他にも、何かあるの?」
「うちの会社が提携している定宿だから、ある程度の融通が利くんだ」
母さんが泊まるホテルの下は、オフィスになっていて。
そこに、母さんの会社の支社が入っているんだけれど。
偶然にも、大家さんの会社が定宿にしているホテルもそこなんだって。
「大阪に着いたら、何をするの?」
「二時半じゃくまさんは仕事中だから、本格的な観光は明日からするとして」
「どうするの?」
「二人でうまいものを食べてから、釣り具屋に行こうか」
「わざわざ大阪で釣り具屋さんへ?」
「関東と関西は釣り方が違うから、東京じゃ売っていない釣り具があるんだ」
「ふうん」
十二時過ぎに新大阪駅に着くと、タクシーで新世界ってところへ。
通天閣を見物してから、近くの串揚げ屋さんでお昼ご飯を。
「どうして串揚げなの、名物だから?」
「ああ、それにたこ焼きやお好み焼きは明日以降に食べられるけれど」
「そうか、揚げ物は母さんと一緒じゃ連れていってもらえないものね」
「せっかくの大阪名物だから、一度は食べさせておきたいからな」
大家さんが頼んだ串の中から、エビの串を手に取りながら聞いてみた。
「母さんにはどうやって合うの?」
「ホテルで飯を食った後に、電話をするつもりだよ」
「じゃあ、夕食は一緒に食べないの?」
「くまさんは仕事で来ているんだから、食事は会社の人とするだろ」
ふうん、そんなものなんだ。
「俺やおまえが大阪に来ているって知ったら、会いに来ようとするだろうし」
「僕はともかく、大家さんには確実に会いに来ちゃうね」
おなかも膨れたんで、少し歩いて釣り具屋さんに。
まずは二人で、自分が気に入りそうなマルイカのスッテを物色して。
「本当だ、色も形も東京じゃ見たことがないものがたくさんあるね」
「だろ」
東京にはないスッテを、ひと通り選び終わると。
「そういえば、おまえの偏光グラスを買おうと思っていたんだ」
「ちょうど欲しかったんだ、裸眼だと水面がキラキラして見えにくいからね」
「入り口近くにコーナーがあったから、選んでこいよ」
「うん」
「俺は、アオリイカ用の餌木を見ているから」
ホテルに着いて、早めのチェックインをした後は。
夕方まで部屋でのんびりしてから、最上階のレストランへ。
エレベーターを降りると、左が中華料理のお店で右には日本料理のお店が。
どっちに行くのか見ていると、右のお店に入っていく大家さん。
「すき焼きを予約している、石田です」
「いつもごひいきにしていただきまして、ありがとうございます」
そう言う店員さんに、夜景が見える窓際の席に案内されてから。
テーブルに置かれたメニューを見た僕は。
「すき焼きって、このメニューにはしゃぶしゃぶしかないよ」
「この店は、予約をしておけばすき焼きを出してくれるんだよ」
「詳しいんだね、大家さん」
「大阪に出張するときは、三回に一回はこの店に来るからな」
そのとき、テーブルに置いてある大家さんの携帯電話が鳴った。
「くまさんから電話だぞ、おまえに代われってさ」
大家さんは人差し指を口に当てて、内緒にしろってポーズをしている。
僕が母さんと電話している間に、注文を済ませた大家さんは。
ビールを飲みながら、電話が終わるのを待っている。
「家に電話をしても僕が出ないから、大家さんの携帯電話にかけたんだって」
「何か聞かれたか?」
「食事のことを、大家さんとすき焼きのお店にいるって言っておいたけれど」
「そうか、くまさんはどんな様子だった?」
「にぎやかだったから、みんなとご飯を食べているみたい」
「すき焼きがくる前に、トイレに行っておきたいんだけれど」
「トイレだったら店の中じゃなくて、店を出て右側にあるよ」
確かに、大家さんが言ったとおり。
トイレは両方のお店の間、エレベーターの前にあったんだけれど。
「良太やないか、こんなところにおるなんてどないしたん」
トイレを出た僕が鉢合わせしたのは、女性用トイレから出てきた鹿山さん。
ああ、こんなことって!
「大家さん!」
いきなり鹿山さんから声をかけられた、大家さんの顔は見ものだった。
「どっ、どうしておまえが?」
「ウチの実家が大阪やからやろ、課長からのご指名で会議に出席しとんねん」
それは知っているよ、母さんから聞いていたもの。
「聞いているのは、そんなことをじゃなくて」
「やったら、何」
「どうしておまえがこの店にいるのかって、聞いているんだろ」
いつの間にか大家さんの隣に座り、ビールまで注文している鹿山さん。
「そら、メシを食うとるからに決まっとるやろ」
「おまえとくまさんは、隣のチャイニーズレストランにいるのか?」
「そうや、六時過ぎに始まったからぼちぼちしまいやけど」
「せっかくの出張なんだぞ、普通は街に繰り出すものだろ」
「ほんま、そうやね」
「自分の会社が入っているビルのレストランで、食事をさせるなんて」
「そないなこと、ウチに言われても」
「センスのかけらもないな」
「夜景が見えるからてここにしたんは、大阪のやつらやし」
「隣のチャイニーズレストランからじゃ、たいした夜景は見えないだろ」
「せやけどあの店でメシを食うたんは、ウチにとっては大ラッキーや」
「どこがラッキーなんだよ」
「トイレで良太と鉢合わせしたさかい、大家さんに会えたんとちゃう」
僕にとっては悪夢の遭遇、だったよ。
「これがラッキーやのうて、何がラッキーや」
そう言いながら、二杯目のビールを頼もうとする鹿山さんに。
「おまえが来てから、もう二十分もたつぞ」
「それがどないしたん?」
「もう戻らないとまずいんじゃないか、騒ぎになってくまさんが……」
大家さんがそう言ったときには、もう遅かったみたい。
血相を変えお店に入ってきた母さんが、このテーブルに向かってくるもの。
トイレに行ったまま、鹿山さんがかれこれ二十分も帰ってこないし。
携帯電話はテーブルに置いたままなので。
少し前から、みんなで探していたらしく。
一直線に、僕らのテーブルに突進してきた母さんは。
「みんなが心配して探しているのに、こんなところで何をやっているのっ!」
そう言うと僕と大家さんをにらんで、鹿山さんを連れて出ていっちゃった。
「はあ~」
これは、言ったとおりだろって大家さんのため息。
「ふう~」
そしてこれは、ややこしいことになりそうだなって僕のため息。
いつの間にか、大家さんが部屋番号をメールしておいたみたいで。
鹿山さんを始めとした会社の人と別れてから、僕らの部屋に来た母さん。
意外にも母さんは、さっきのけんまくはどこへやら。
大家さんと並んでベッドに腰掛けて、笑顔でビールを飲んでいる。
ことの次第を聞き終わると。
「あたしがいないのに良太が寂しがっていなかったなんて、ショックだわ」
「残念でした、僕なら寂しがるどころか思いっきり楽しんでいたよ」
「ふんだ、親と離れるのは初めてだから心配していたのに」
「そんな経験だったら、夏休みのキャンプでしているもん」
「小五なら親離れが始まるころだろ、修学旅行だってそのためなんだろうし」
「それもそうね、一緒にいるのが大家さんなら安心して楽しめるもの」
「予行演習にはなっただろ、良太にもくまさんにも」
「だからって、大阪にいるのに電話のひとつもくれないなんて」
「もういいじゃない、それより明日はくまさんの仕事の予定は?」
「会議のまとめが残っているくらい、十一時前には終わると思うわ」
「じゃあ週末は一緒に過ごせるね、昼過ぎから大阪観光をしようか」
大家さんにそう言われて、あからさまにうれしそうな母さん。
そんな顔をするだろうから、大家さんは来ていることを言わなかったんだ。
二本目の缶ビールを飲み終わった母さん。
さっきから、大家さんをちらちらと見ているけれど。
「明日は朝から仕事だろ、今夜はもう自分の部屋に戻って休むんだね」
「ねえ大家さん、あたしもこの部屋で寝ちゃだめ?」
「だめだよ、ベッドはふたつだから」
「母さんと一緒のベッドで寝るなんて、僕は嫌だからね」
「だったら、良太をあたしの部屋で寝させれば問題はないでしょ」
「今から移るのなんて嫌だよ、早く自分の部屋に行って寝てよ」
「ちょっと言ってみただけなのに、本気にしちゃって」
そう言って、部屋を出ていこうとする母さんは。
「帰りたくないって、こんなときに言うためのせりふなのね」
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