第二話 森のくまさん 後編
問題の土曜日が、やってまいりました。
僕と母さんは、石田さんと待ち合わせをしている駅の北口にいるんですが。
「本当に、十一時に北口って言っていたの?」
僕らは十時五十分に着いたのに、石田さんがまだ来ていないんだもの。
「変ねえ、出張のときなんか三十分も前に新幹線のホームにいる人なのに」
「もう十一時を過ぎたよ、本当にいないの?」
「ねえ、母さん」
「何よ」
「ずっと僕らを見ているけれど、あの人が石田さんじゃないの?」
その人は細身で背が高くて、春物の革ジャンを着てジーンズにブーツ姿。
頭には青いバンダナを巻いていて、青いミラーのサングラスをしている。
「違うわよ」
母さんは即座に否定をしたけれど、その人はまっすぐこっちに来ると。
「どうして声をかけてこないのさ、ずっと正面にいるのに」
「そんな格好じゃ気づくのは無理よ、スーツ姿しか見たことがないんだもの」
あたしはちっとも悪くないでしょ、なんて顔をしている母さん。
「休日モードの姿なら、石田さんから声をかけてくれなきゃ」
「顔を見れば分かるだろ」
「分からないでしょ、バンダナにサングラスまでしていたんじゃ」
「この子がくまさんの息子か、名前は何ていうの?」
「森野良太です」
「良太君か、いくつ?」
「十才です」
「そうか、十才だと四月から何年生かな?」
「五年生です」
「よろしく、良太」
母さんをくまさんと呼ぶ石田さんは、僕のことを良太って呼ぶことに。
「あたしたちはあなたを何て呼べばいいかしら、石田さんって?」
「会社じゃないんだし、石田さんってのはちょっと」
「だったら、何て?」
「そうだな、大家さんでいいんじゃない」
「確かに、正真正銘の大家さんだものね」
そんなわけで、僕と母さんは石田さんのことを大家さんと呼ぶことに。
「それじゃあ行こうか」
お泊まりセットが入ったバッグを、さりげなく持ってくれた大家さん。
「いいわよ、重いから」
「女の人が重いものを持つのは、な」
最後の「な」は、僕に向けてだった。
これが、僕と大家さんの初対面。
僕の知っている大人とは違い、僕を大人と同じように扱ってくれて。
それに、笑ったときの顔が子供みたいで。
この人は好きだなって思ったのが第一印象だったのは、今でも覚えている。
大家さんは、駅からの道を案内しながら家に行こうとしているみたい。
一本入った通りで、スーパーマーケットやお店を案内してくれた。
商店街を抜けると、駅前からの通りに戻り。
「突き当たりに見えるのが小学校だよ、良太もあそこに通うことになるかな」
小学校の前にある橋の上で、両岸の木を指差した大家さん。
「この川沿いは、桜の名所でね」
両岸に張り出している桜の枝は、ずっと向こうまで続いている。
「満開になると大勢の人が来るし、屋台も出るんだ」
「少し歩けばお花見が楽しめるんだ、満開になったら奇麗でしょうね」
確かに桜が満開になってみると、大家さんが言ったとおりだった。
この町に何本もある橋の中でも、この橋から見る桜が一番奇麗で。
僕と母さんはこの橋を、桜の橋って呼ぶようになったんだ。
「次の信号を右に曲がったら、すぐだから」
何棟かがまとまって建っている中で、右側の二軒目が大家さんの家だった。
「立派なおうちねえ、新築みたい」
「建ってからまともに人が住んでいないからね、さあ入って」
まず案内された三階には、ふた部屋。
「こっちが良太の部屋だろうな」
最初に見せてくれたのは、ベッドがポツンと置いてある部屋。
「五年生ならすぐ大きくなるだろうけれど、八畳の部屋なら大丈夫だろ」
大丈夫どころか。
こんなに広い部屋を僕が独り占めできるなんて、ご機嫌だな。
「日当りがいいわね」
「全室が南向きだからね」
「ドアのほかにも、扉が二つあるけれど」
「こっちがひと間の押入れで、窓際は半間のクローゼットだよ」
「子供部屋に収納が二つか、たんすを置かないからお部屋を広く使えるわね」
「くまさんの部屋はこっちだよ」
そう案内されたのは、もっと広い部屋。
「この部屋ならベランダに出て洗濯物が干せるし、ドレッサーもあるからね」
「ひと部屋ひと部屋が広いのね」
「最初の設計に手を入れて、部屋を広くしたり収納を増やしたりしたんだ」
「大きいベッドね」
「セミダブルを二つ合わせてあるんだ、くまさんが一人で寝るには大きいか」
この部屋にも扉が二つ。
大家さんか大きい方の扉を開けると、中には立派なたんすが置いてあった。
「たんすは空だから、くまさんが自由に使っていいよ」
向こうの扉を開けると、半分はクローゼットでもう半分は押入れ。
「コートやワンピースが、そのまま掛けられるのね」
部屋を出るときに、母さんがふと漏らした。
「奇麗だけれど、生活感のない家ねえ」
「仕方ないよ、家族はこの家に入居する前に逝っちゃったからね」
「逝ったって、奥さんとは離婚したんじゃ?」
「いや、交通事故で子供を連れて逝っちゃったんだ」
「お気の毒に……」
そう言う母さんに、大家さんは明るく笑ってみせて。
「もう何年も前の話だよ、それより下を見にいこうか」
二階に下りると、まずはダイニングキッチンに。
「ここにもベランダがあるから、洗濯物が干せるよ」
手前がダイニングで、四人掛けのテーブルの向こうには広いキッチン。
母さんはすっかり夢中で。
「すてきなキッチンねえ、冷蔵庫もレンジも新品みたい」
「買ってから、ほとんど使っていないからね」
ダイニングキッチンを出て、階段を挟んで向かいのドアを開けると。
「さっき三階に行くときに通ったよね、ここがリビング」
壁一面のサイドボードには、大きいテレビ。
ローテーブルを挟んで、反対の壁際にはソファーが。
「広いわねえ」
「寝室と同じ大きさだけれど、ベッドがないから広く見えるんだよ」
一階に下りると案内してくれたのは、僕の部屋とは造りが同じような部屋。
「ここが俺の部屋で、こっちが風呂」
廊下の向かいのドアを開けると。
脱衣場と洗濯機置き場を兼ねている洗面所で、奥にはお風呂場が。
「大きな洗面台ね、朝のシャンプーや赤ちゃんのお風呂にだって使えそう」
「お風呂も広いよ、母さん」
リビングに戻ると、総括を。
「これで案内は終わったけれど、どう」
「立派過ぎて圧倒されちゃった、これで四万円なんて悪いみたい」
「どうせ使っていないんだから、遠慮しなくていいよ」
「じゃあ、決めちゃおうかな」
「決めるって、チェックも済んでいないのに?」
「もう昼のチェックは済ませたし、夜と朝のチェックはお泊まりをするし」
「じゃあ、合意したってことでいいんだね」
「よろしくお願いしま~す、大家さん」
「ここに住むのは決定なの、母さん」
「そうよ、今日からここがあたしたちのおうち」
「家の電話はくまさんが使っていいよ、俺への連絡は携帯電話にさせるから」
そう言った大家さんは、僕の肩をポンとたたいて。
「これから新しい生活の始まりだな、思い切り楽しむんだぞ」
母さんと同年代の男の人に、そんな風に接したことは初めてだったから。
ちょっと戸惑ったけれど、そうされるのは嫌じゃなかったな。
「良太の学校もきりがいいし、来週末に引っ越してくるわ」
「住むと決まったなら必要なものを買いに行こうか、何が必要かな?」
「家電や家具はそろっているし、良太の机ぐらいかしら」
「車で少し行けば、大きな家具屋があるよ」
「じゃあ支度をしなさい、良太」
「俺の車は二人乗りなんだ、良太は留守番だな」
「え~っ、僕の机を買うのに当人が留守番だなんて」
「しょうがないでしょ、二人乗りなんだから」
「タクシーで行けばいいじゃない」
「家具屋の前は、タクシーが流すような道じゃないんだ」
「帰りのタクシーが拾えないんじゃね、すぐに帰ってくるから我慢しなさい」
母さんは、駐車場で大家さんの車を見るなり。
「車高がすごく低いし黄色なんて、信号待ちで恥ずかしくない?」
「恥ずかしいより、いろいろと不便でね」
「不便?」
「乗れば分かるさ、さあどうぞ」
「助手席に乗ったら、彼女に怒られちゃうわね」
「彼女なんていないよ」
「だったら、これからはあたしと良太の専用シートね」
「どうぞ、ご自由に」
大家さんはそう言うと、車をスタートさせた。
母さんと大家さんは、一時間半ほどで帰ってきたけれど。
さっきより、ずっと仲が良さそう。
「どうだったの?」
「転勤や入学シーズンだからかしら、結構な人出だったわ」
「そうじゃなくて、机のことを聞いているんだよ」
「品ぞろえが多くて良かったわ、どうせなら長く使えそうな机にしたから」
母さんは断ったのに、大家さんが引っ越し祝いに机を買ってくれたみたい。
「大丈夫なの、大家さん」
「いい机だったよ、大学生になっても使えそうな」
大家さんがそう言うなら、大丈夫か。
「そういや、くまさんはずっとニコニコしていたね」
「だって、男の人とお買い物をするなんて何年かぶりなんだもの」
「じゃあ、夕飯を食べに行こうか」
大家さんが連れていってくれたのは、ちゃんこ鍋のお店。
何棟かがまとまって建っている敷地から、道路を挟んで向かいにあるんだ。
ちゃんこ鍋なんて初めてだけれど、おいしかったな。
店を出て家に帰るとき、母さんが大家さんにのんきに言い放ったのは。
「何だか、これから同棲をするカップルみたいねえ」
「ねえ、大家さんの部屋に行ってみる?」
「一応は独身の男女なんだし、こんな時間にパジャマ姿で部屋を訪ねるのは」
「何をませたことを言っているのよ」
「常識的なこと、だろ」
「大家さんといえば家族も同然なんだから、構わないでしょ」
部屋に行くと、大家さんはお酒を飲んでいて。
これ幸いとばかりに、僕というおまけ付きで一緒に飲み始めた母さん。
大家さんは僕に、冷蔵庫から出したジュースをくれた。
「へえ、お部屋に冷蔵庫や電子レンジまであるのね」
「何日か前に買ったんだよ、くまさんたちが来たら俺は上には行かないから」
母さんと大家さんは、積もる話に花を咲かせている。
久しぶりに見たな、こんなに楽しそうに笑っている母さんって。
途中で眠くなった僕が、自分の部屋に戻ってベッドでうとうとしていると。
階段を上る足音がするんで、ドアの外をのぞいたら。
大家さんにおんぶされた、眠りこけている母さんが。
「何だ、まだ寝ていなかったのか」
「広い部屋に僕だけだと、何だか寝付けなくって」
「環境が変わって眠れないんだろ、くまさんとはえらい違いだな」
「ごめんなさい、こんなに酔っ払っちゃって」
「新しい家が決まったから、安心したんだろ」
大家さんは、母さんをベッドに下ろすと。
「パジャマに着替えてから俺の部屋に来たのは、正解だったな」
そう言って笑うと、母さんに布団を掛けてくれながら。
「俺や良太じゃ、着替えさせられないからな」
こんな醜態を見たのに、あきれられていないのは良かった。
大家さんなら、母さんとうまくやってくれるよね。
「おはよう、あ~頭が痛い」
「何時だと思っているのさ、おはようじゃないだろ」
「いつの間にか寝室のベッドに寝ているんだもの、びっくりしちゃった」
人の気苦労も知らないで。
「広いベッドで、ばっちり熟睡できたわ」
お酒のせいで爆睡していたくせに、何がばっちりだよ。
「大家さんの部屋で飲んでいたのに、どうやって寝室に?」
「どうやって、じゃないよ」
「誰かに背負われていた気は、するのよね……」
「母さんが途中で寝ちゃったから、大家さんがおぶってくれたんだよ」
「あの暖かかい背中って、大家さんのだったんだ」
「寝ている母さんを運ぶのは大変だったんだから、ちゃんとお礼を言ってね」
「そんなことをさせておいて、お礼も言っていないの?」
「子供じゃあるまいし、その場でちゃんと言ってあるよ」
そんなわけで、この家に住むことになった僕と母さんですが。
このときの母さんは、ことの重大性にまったく気づいていなかったんです。
良い意味でも悪い意味でも、母さんにとっては人生の一大事だったのにね。
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