第一話 森のくまさん 前編
夜になるとまだ少し寒い、三月になったばかりの金曜日。
もうすぐ七時とはいえ、まだ明るいから。
ビルの壁面に付いているお店の看板のネオンも、どこか遠慮がちに見える。
出勤をする、お姉さんの姿も少なくて。
歩いているのは、お目当てのお店に向かっている勤め帰りの人たちばかり。
そんな銀座の裏通りで。
「中止なら中止だって、もっと早く連絡しなさいよねっ!」
耳から外す、というよりはむしりとったイヤリングをバッグに放り込むと。
「おまけに、みんなでとっとと別の飲み会に行っちゃうなんて」
歩いてきた通りを引き返すことにしたようで。
「そろいもそろって、三人ともどうかしているんじゃない?」
初めまして。
僕は良太、森野良太です。
そして、ぶりぶりと怒りながら歩いている女の人が僕の母さん。
森野美波です。
三十五才になりたてで、いわゆるアラフォーの予備軍になったばかり。
十才の僕を育てている、バツイチのシングルマザー。
どうして母さんが、ぶりぶりと怒りながらこんなところを歩いているのか。
今夜は、楽しみにしていた久しぶりの合コンだったのに。
お店に入る直前に、キャンセルの連絡があったからなんです。
しかも、講習会に出席していた母さん以外には中止が伝わっていたから。
母さんは、こんなところをたった一人で歩くはめに。
その怒りっぷりはといえば。
目を三角にしてとか髪の毛を逆立ててとか、なんて表現がぴったり。
かろうじて前を向いてはいますが、頭の角度は下向き四十五度。
つまり、前はほとんど見えていない状態なんです。
ほら、言わんこっちゃない。
裏通りの真ん中で、男の人に正面からぶつかっちゃった。
「痛いわね、どこを見て歩いているんですかっ!」
この状況で、いきなり文句を言うって。
真っすぐ正面衝突したのは、全面的に母さんに非があると思うんだけれど。
「すみません、でもぶつぶつ言いながら下を向いて歩いていたら」
「悪いのはあたしだって言うんですかっ!」
普通の人ならそう思うよ、だから早く謝らないと。
「そうは言わないけれど、こっちはずっと声をかけていたのに」
「声をかけていたって、ナンパのつもりですかっ!」
「くまさんをナンパなんかしませんよ、くまさんでしょ?」
「あたしをくまさんって呼ぶなんて、あなたは誰よ?」
ナンパされたかどうかではなくて、問題はそこ?
「嫌だなあ、石田ですよ」
「石田……、石田ってあの石田さん?」
そうなんです、この人が石田強さん。
母さんが結婚するまで勤めていた会社で、同じ課にいた一年後輩。
でも、大学生のときにボランティアで二年間も海外に行っていたから。
母さんよりひとつ年上の、三十六才なんです。
こんな場所でぶつかったのが知り合いだったら、驚くのも分かるけれど。
まずは謝ろうよ、母さん。
「久しぶりねえ、何年ぶりかしら?」
謝るどころか、どうやら母さんはぶつかったことすら忘れているみたい。
「くまさんが結婚するんで会社を辞めてからだから……、十年ぶりかな」
「すっかり立派になっちゃって、言われるまで分からなかったわ」
分からなかったって。
母さんが、下を向いて文句を言いながら歩いていたからでしょ。
石田さんは声をかけてくれていたのに、ぶつかったんだから。
「元気にしていた?」
「おかげさまで」
「で、石田さんはどうしてこんなところに?」
「毎晩ここらで独り飯でね、どこも飽きていて今日はどこにしようか思案中」
「豪勢ねえ、毎晩こんなところで外食なんて」
「会社から近いし帰り道だからね、くまさんこそどうして?」
「合コンがドタキャンをされるわ誰も来ないわで、途方に暮れていたのよ」
災難だねって顔をした石田さんから、意外な言葉が。
「じゃあ俺とご飯をするってのはどう、おごっちゃうから」
「本当にごちそうしてくれるの、ラッキー!」
即答しちゃった母さんだけれど、簡単についていっても大丈夫なのかなあ。
石田さんの案内で、近くのステーキハウスへ行くことに。
フロントでコートを預けた後に、パウダールームに直行した母さん。
石田さんが待っている席に着いたときには、ちゃっかりメイクをし直して。
イヤリングも再装着している。
「立派なお店ねえ、よく来るの?」
「特別なとき、たまにね」
「じゃあ、あたしとは特別ってこと?」
「ってことになるね、久々に会った先輩だし」
そう言いながら、二人で笑っている。
会話も弾んでいるようで、とりあえずビールで乾杯。
目の前の鉄板で焼いてもらえる、エビやホタテにステーキはおいしくて。
さっきまでの怒り顔はどこ吹く風で、すっかりご機嫌な母さん。
恥ずかしながら、母さんは控えめに言っても随分と飲める方なんです。
石田さんも、あっという間にビールを飲み干すとお代わりをして。
ワインのボトルも頼んだのを見ると、お酒が強いみたい。
「どうして外でご飯を食べているの、おうちで作ってもらえばいいのに」
「作ってもらうって?」
「あたしが退社してから一年ぐらいで結婚して、子供もいるって聞いたわよ」
「聞いていないの、今は独り身だよ」
「へえ、あなたも……」
あなたもバツイチなの、って言おうとした母さんに。
「じゃあ、くまさんも?」
「あたしは、十才の息子を育てているバツイチのシングルマザーよ」
「へえ」
「そうじゃなかったら、合コンなんて参加しないでしょ」
「まあ、それもそうだね」
久しぶりに会った石田さんと、お互いの近況を話している母さん。
「へえ、その若さで課長だなんてすごいじゃない」
「仕事の機微が重なったんだ、出張も多いし家に帰って寝るだけの毎日だよ」
「何だか大変そうね、体は大丈夫なの?」
「まあね、そういうくまさんはどうなの」
「あたしはシングルに戻ってから再就職したのよ、今は社内研修課の係長で」
「中途採用なのに、係長なんてすごいじゃない」
「父が役員をしている会社に、潜り込んだだけよ」
「それでも」
「昇進だって、男女雇用機会均等法のおかげだし」
「社員の研修か、うちの会社にいたころのくまさんからは考えられないな」
「どうして?」
「だって、研修を受けさせられる側ならともかく」
「失礼ねえ」
そう言いながらも、母さんは楽しそう。
お酒も進み、二本目のワインをオーダーしている。
そのうちに、話題は石田さんの家のことに。
「男の独り暮らしなんて、ひと部屋あれば十分なんだね」
「へえ、そうなの?」
「実際に、二階から上はほとんど行かなくなっているし」
「二階から上って、一戸建てで独り暮らしをしているの?」
「うん、三階建てなんだ」
「独り身で三階建てねえ、羨ましい」
「大変なんだよ、家って人が住まないと荒れるって聞くけれど本当みたいで」
「そうなの?」
「掃除も必要だから、お手伝いさんを雇おうかと考えているぐらいだよ」
「それなりの苦労もあるのねえ」
「掃除をしてもらう条件で、相場より安い家賃で下宿人を置いてもいいかな」
「石田さんのおうちって、どこなの?」
「板橋区だよ」
「都内の一戸建てか、その二階と三階を全部貸しちゃうの?」
貸すではなくて、貸そうかどうか考えている。
石田さんは、そう言っていたんじゃないかな?
そこまで聞いた母さんは、よっしゃとばかりに身を乗り出すと。
「あたしが借りてあげる、自分が住んでいるところを掃除すればいいのよね」
「くまさんが?」
「今は実家にいるんだけれど、息子と相部屋なのよ」
「ふうん」
「十才っていえばそろそろ年頃でしょ、だから悩んでいたの」
「くまさんなら知らない仲じゃないから安心だし、借りてくれると助かるな」
意外なことに、母さんの提案には石田さんも乗り気なようで。
「くまさんの会社って、最寄り駅はどこなの?」
「一番近いのは水道橋、後楽園からも同じくらいかな」
「水道橋は地下鉄で一本、駅まで歩く八分を入れても三十分もかからないよ」
「近いのねえ、実家からだと一時間近くかかるし二回も乗り換えをするのよ」
「私鉄の駅にも徒歩で八分なんだ、後楽園だとそっちからになるね」
「ふた駅も使えるなんて、便利ねえ」
「私鉄だと乗り換えを一回するから、三十分ちょいかな」
「それでも近いわ」
「買い物をして帰るには、私鉄の駅で降りた方が便利だよ」
「で、お家賃は?」
「会社の住宅手当って、いくら出るの」
「確か、七万円だったかな」
「じゃあ七万円でどう、掃除をしてもらう三万円を払えば実質的に四万円で」
「四万円なんて、絶対に借りちゃうっ!」
「じゃあ今度の土曜日に息子さんと見においでよ、お泊まりセットを持って」
「いきなりお泊まりに来いなんて、怪しいぞっ!」
ラッキーな話がころがり込み、ワインも手伝ったのか母さんはご機嫌です。
「家なんて、朝昼晩と見ないと周りの環境が分からないものだよ」
「ふうん、そうなんだ」
「昼は静かでも夜は近所がうるさいとか、逆に昼は工場の騒音がひどいとか」
「了解、森野美波は了解しましたっ!」
話がまとまると同時に、ワインのボトルが空になり。
「じゃあ、土曜日の十一時に私鉄の駅の北口でね」
「十一時に北口ね、じゃあ帰りましょうか」
荷物を手にして席を立とうとした母さんに、石田さんが。
「一応、携帯電話の番号を交換しておこうか」
「新たなナンパの手口みたいねえ、番号交換に自宅でお泊まりなんて」
「相手は、子連れで泊まりに来るのに?」
「ただいまっ!」
すっかりご機嫌な、母さんのご帰宅です。
懐かしい人に会い、おいしいステーキを食べてお酒が入った上に。
憂慮していた住居の問題が解決しそうなんで、無理もないとは思うけれど。
「お母さん、ただいまっ!」
「そんな大声を出して、いったい何時だと思っているの」
出迎えたのは母さんのお母さん、つまり僕のばあちゃん。
「何時って、まだ十時でしょ」
「玄関先で大声を出していないで、とにかく入りなさいったら」
ばあちゃんと派手にやり合っていた母さんは、僕を見るなり抱きついて。
「良太っ!」
うわっ、お酒くさいなあ。
「どうしたの、何かいいことでもあったの?」
「いいこともいいこと、新しいおうちを見に行くのよっ!」
「美波ったら、酔っ払って良太に絡むのはやめなさい」
「いきなりどうしたのさ、新しい家って何のこと?」
「何と、一戸建てを格安で借りられることになったのよ」
ここで、ようやく母さんの話に食いついたばあちゃん。
「借りられるって誰からよ、格安っていくらで?」
「前にいた会社の後輩から、都内の一戸建てで家賃はなんと実質的に四万円」
「まったくあなたって子は、何か勘違いをしているんじゃないの?」
「どうして、あたしが勘違いをしなきゃいけないの」
「都内の一戸建てを四万円だなんて、そんな話があるものですか」
「あたしも最初はそう思ったけれど、本当なのよ」
「本当って、それだけ聞いただけじゃ分からないわよ」
「週末に、良太を連れて見に行くんだから」
「後輩って人にだまされているんじゃないの?」
「だますような人じゃないわ」
「本当に、大丈夫なの?」
「とにかく土日はお泊まりだからあけておくのよ、いいわね良太っ!」
「お泊まりって、ちょっと美波っ!」
こうして僕と母さんは、石田さんの家を見に行くことになったんです。
そう、これから住むことになるかもしれない家を。
Copyright 2024 後落 超