本を盗む
天井まで届く背の高い本棚に挟まれ、僕は漫画が置いてある棚に向きあう。どれを買おうか吟味しているふりをし、目線だけを左右に動かす。この本屋の一番隅にあるコーナー、見える範囲内に人はいない。
監視カメラの死角に入ることも忘れない。棚に並んだ色鮮やかな背表紙を目でなぞり、横に移動する。カメラの真下に自然に入り込み、足を止める。背後に人が居ないか、音と気配で探り続ける。
僕は胸元辺りの高さから、適当な漫画を2冊静かに抜き取る。タイトルも、漫画家の名前も、僕には興味がない。重ねた状態の漫画を裏返し、あらすじを読むふりをする。僅かに首を右に傾け、再度周囲に人が居ないかを確認する。少なくとも、僕の手元が見えるほど近くには誰もいない。
抜き取った漫画本の1冊をパーカーの内ポケットに素早く押し込む。肘から先だけを使い、上体の動きを最小限にする。胸が激しく鼓動し、背筋にひやりとした感覚がよぎる。最も緊張する瞬間であり、最も楽しい瞬間でもある。
数秒が経過する。僕は手元に残ったもう1冊を元の棚に戻し、身を翻す。早る気持ちを抑え、ゆっくりと店の出入り口まで歩く。薄暗い店内とは対照的に、外では夏の日差しが照りつけている。眩しさに目を細めながら、僕は急がずゆっくり店の外に出る。成功だ。
これで5度目。
僕はこの本屋で何度も本を盗んだ。
初めは、欲しい漫画があった。お小遣いが足りなくて、でも、どうしても欲しかった。手放せば2度と手に入らないんじゃないかと思い、カウンター横の本棚の前で漫画を握りしめていた。そんな時に、魔が差した。
僕はこっそりと周りを見回す。閑散とした店内、見え見えの監視カメラ。他の棚で作業をしているせいで無人になったカウンターのモニターには、監視カメラの映像が映っていた。今この瞬間、僕のことを誰も見ていないし、映ってもいない。そのことを僕は知ってしまった。
僕は周囲を見回しながら、急いで鞄に漫画を突っ込んだ。今思えば、怪しいことをしてますと言わんばかりの動きで、その時に捕まらなかったのは奇跡に近かったんだと思う。そのまま早足で店外へ逃げ、家まで走って帰った。あの時のことは今でも覚えている。口から飛び出るんじゃないかと思うほどにバクバクと音を立てる心臓。ぐっしょりと濡れた掌。欲しくてたまらなかった漫画は鞄の中で他の荷物と共に揉まれ、折れ曲がっていた。
折り目のついた漫画をカバンから取り出した時、悪いことをした事への後悔よりも、スリルへの興奮が僕の中で上回った。背中がヒリヒリとする緊張感。そして、達成感。
その瞬間から、”盗る”ことが手段ではなく、目的となった。何度もその本屋に足を運び、死角や店員の行動パターンを研究した。怪しまれないように欲しくもない雑誌や本を何度も買い、”唯の本好きな学生”だと店員に認知される様にした。
全てはあのスリルを味わうためだ。
3度成功させた後、本屋には”万引き”への注意書きが張り出される様になった。注意書きには誰が盗ったか分かっているかの様に書かれていた。それでも、僕が店員に咎められることはなかった。探りを入れるために、顔馴染みの店員がカウンターで会計をしている時にわざと「万引きなんてする人がいるんですね」と話しかけた。その店員はため息混じりに「早く捕まって欲しいよ」と愚痴をこぼした。その犯人が目の前にいるとは思ってもいない口調だ。僕のやり方は間違っていない。そう確信を持つことができ、自信が持てた。
まだやれる、そう思った。
盗んだ本と、偵察のために買った本。僕の部屋には読みもしない本ばかりが積み上がっていった。家族はその様子を見て、僕が本を読む趣味ができたと呑気に考えている。都合がいいけれど、怪しまれない工夫も必要だった。持ち帰った本のビニールは全て剥がし、雑誌を閉じている紐を切るのはもちろん、本の話が出た時のためにネットで盗ってきた本のあらすじやレビューを調べ、頭に入れた。1度、母に「本棚が欲しい」とねだったりもした。母は怪しむ様子もなく、「最近よく読んでるものねぇ」と言った。家族に、僕の真の趣味がバレていない証しだ。
今日も僕は盗んできた漫画のビニールを剥がし、ゴミ箱に捨てる。背表紙には4巻と書かれている。1〜3巻は事前の下調べの際に購入しているので、並べておけば怪しまれることはない。
僕だけにしか分からない、盗みのコレクション。本棚がそれで埋まっていくことに、満足感を覚えながら僕は勉強机に向かい、宿題をこなす。真面目なふりをし続けることも、この趣味を怪しまれずに続ける上で重要なことだ。
夏休みに入った。
茹るような暑さの中、僕はいつもの本屋に向かう。試験なんかで忙しくしていたせいで、店に向かうのは暫くぶりだった。
興奮もなく、かといって気落ちもしていない。僕はフラットな気持ちを保っていた。これから盗みをするのに、いいコンディションだ。
店を見た瞬間、僕はがっかりした。
シャッターが降りている。
定休日ではないはずだから、急な休みだろうか。
落胆を抱えながら、シャッターに貼られた紙を見る。
”誠に勝手ながら、◯月◯日をもって閉店となります”
簡潔に書かれた一文を見、再び僕は落胆した。僕だけの遊び場がなくなってしまった。新たに本屋を探すにも、下調べや偵察は全くのやり直しになる。
つまらない。
僕はさっさと本屋に背を向けて、家に向かった。
「あぁ、あの本屋さん。閉めちゃったみたいね」
母は料理をしながら、そう言った。
「何でも、聞いた話だと万引きが沢山あって、営業に響いてたらしいよ」
何気なく母の言葉に、僕は背筋がぞくりとした。
ただの遊びだったのに。
そんな言葉が頭の中をぐるぐる回る。
「それにしても、店閉めちゃって、生活は大丈夫なのかしらねぇ」
包丁の小君良いトントンとまな板を叩く音に混じり、母の言葉が聞こえる。
生活。
その言葉が重くのしかかる。 僕の遊びのせいで、本屋さんは生活に困ることになったんじゃないか。
そんな考えが僕の全身を強ばらせ、口の中をカラカラにしてしまう。
僕のせい、僕のせい…。
堂々巡りをする言葉を振り払おうと、必死に考える。
いや、きっと盗んでいたのは僕だけじゃないはず。たった1人の万引きで、店を閉めるほどの大きな影響があるわけじゃない、と。
「宿題するね」と母に言い、僕は自分の部屋に戻る。
僕のせいじゃない。
そう、必死に考えながら。