6 夜会①
馬車の中でも、旦那様はちょっと気持ち悪いほど無言だった。
ただ、いつもほどの険しい雰囲気ではないような気がする。
まあ、病み上がりだし。
気のせいかもしれないけど。
しばらくして壮麗な王宮の屋根が見えてきたと思ったら、目の前に座る旦那様が唐突に口を開いた。
「昨日は、助かった」
「え? ああ、そんなこと。良かったですね、熱が下がって。あ、下がらない方が良かったんでしたっけ?」
「いや……」
「私に会うのが嫌だからって、ろくに休みもしないで働き続けるのはよくないですよ。イアンもサマンサも心配してましたし、夜はできるだけ帰ってきてゆっくり休んだ方がいいと思いますよ」
「……そうだな」
目を伏せた旦那様は、それきりまた押し黙る。
「私に会うのが嫌だった」ことは否定しないわけね、なんて意地の悪いことを思いながら、私は目を伏せたままの旦那様の横顔を盗み見た。黙っていれば、この秀麗な顔立ちはほんとに眼福でしかないんだけど。
そうこうしているうちに馬車が止まり、私は旦那様の流れるようなエスコートでゆっくりと馬車を降りた。
そのまま、豪華絢爛を絵に描いたような会場の中に入っていく。
さすがは王太子殿下主催の夜会。華やかに飾りつけられた王宮の大広間は、どこもかしこもキラキラと眩い光に溢れていた。
集まってくる人たちも色とりどりの鮮やかなドレスを身に纏い、さながら色の大洪水。チカチカして、瞬きの回数が多くなって、だんだんクラクラしてきた。なんかやばい。
圧倒されてちょっとふらついてしまった私を、旦那様がすかさず受け止めた。
「大丈夫か?」
「すみません。慣れてなくて」
「ああ、そうだったな」
「クライド!」
思いがけない接触に気まずさを覚える私にはお構いなしで、突然前方から飛んできたのは軽やかによく通る声。
と同時に、爽やかな印象の青年がにこやかな笑顔で駆け寄ってくるのが見えた。
「今来たのか」
「ああ」
「あ、これはこれは。奥様」
そう言って爽やか青年は芝居がかったように恭しく礼をして、意味ありげな含み笑いをしながら私を見上げた。
「俺はフェリクス・ヴィンセントと申します。結婚式のときにもお会いしたかと思いますが」
あー、そういえば。
ヴァージル殿下の側近の中に、いた気がする(うろ覚え)。
「フェリクスはヴィンセント侯爵家の長男だ。ヴァージル殿下の側近としての覚えもめでたい」
「クライドが褒めてくれるなんて珍しいな。具合でも悪いのか?」
「うるさいなお前」
急に砕けた様子でやり取りし出す二人を見て、なんだか少しほっとしてしまった。
この人も、友だちの前ではこんな顔できるんだ。よかった。
……よかった? なんでよ。
「結婚式のときにもずいぶんきれいな花嫁をもらったなと思いましたけど、今日はまた一段とお美しいですね。しかもクライドの色を全身に纏うなんて、こいつの独占欲丸出しじゃないですか」
「え」
その言葉に、私たちはついお互いの顔を見合わせてしまう。
ち、違うんですこれは。サマンサに乗せられて軽い気持ちで選んだだけで、旦那様の気持ちなんてまったく、一ミリもないんです……!
と思ったけど、今ここで言えるわけがない。
引きつった薄笑いを浮かべてやり過ごすしかない私と、怒りの感情が湧いてきたのか顔を赤らめたまま固まる旦那様。
どうにも居たたまれない雰囲気に身動きできずにいると、いきなりけたたましいファンファーレの音が会場に鳴り響いた。
見上げると、現れたヴァージル殿下が奥の大階段から颯爽と下りてくる。
堂々とした佇まいに圧倒的な存在感。
濃い金髪をなびかせ、階段の踊り場まで下りてくるヴァージル殿下を目で追うと、殿下の向こうに見覚えのある柔らかな金髪の巻き毛が見えてしまった。
……ジャレッド。
現れた殿下に、賞賛と尊敬のまなざしを向ける懐かしい笑顔。
そしてその横には、当然のように美しく着飾った愛らしいアリシアが。
殿下の挨拶の声やたくさんの人々の気配がどんどん遠ざかり、私の視界にいるのはジャレッドとアリシア、二人だけになる。
実家から離れて数週間。
物理的な距離が、私を助けてくれると思っていた。
慣れない環境と否応なしに振り回される毎日の中で、いつかこの気持ちを永遠に封印できる日が来るんじゃないかとさえ思えていた。
それなのに。一目見てしまったら。
自分の想いが何一つ変わってないのだと、今でもジャレッドが忘れられないのだと、思い知らされてしまう。自覚してしまう。
忘れかけていたあのじくじくとした胸の痛みが容赦なく襲いかかり、呼吸すらままならなくなって――――。
「アナイス」
「え?」
気がつくと、旦那様が心配そうに私の顔を覗き込んでいた。
「殿下だ」
「え? あ」
「やあ、夫人」
さっきまで大階段にいたはずのヴァージル殿下が、すぐ目の前で屈託のない笑顔を浮かべているからあたふたしてしまう。
「あ、で、殿下。申し訳ございません」
「いいよ、いいよ。緊張しているのか?」
「は、はい。不慣れなもので……」
「そうか。今日はよく来てくれたね。礼を言うよ」
「そんな。もったいなきお言葉」
「どう? クライドとの結婚生活は。クライドは、ちゃんと君を大切にしているかい?」
気安い友に話しかけるような人懐こい笑顔を見せる殿下。
旦那様はなんだか緊張した面持ちで私を見下ろしていて、私が余計なことを言うのではと落ち着かない様子だった。
……やだわ。私だって、さすがにTPOを考えるわよ。
私は控えめに微笑みながら、殿下に答える。
「旦那様にも屋敷の皆様にも、良くしてもらっております」
「ほんとに? クライドは昔から無愛想で近寄りがたくて、面白いことなんか一つも言わないしぶっきらぼうなところがあるけど、大丈夫?」
おまけに口は悪いわ、横柄だわ、自分勝手で無遠慮で、厚かましいうえに失礼な人ですけどね。
言いたいことはいろいろあるけど、そこはぐっとこらえて(大人だから)くすりと笑ってみせる。
「殿下は旦那様のことを、よくご存じなのですね」
「ああ、そうだね。クライドとは幼い頃からずっと一緒だったから。不器用だけど忠義に厚く、嘘はつかないしいいところもあるんだよ。それなのに人を寄せつけないからずっと浮いた話もなくて、心配していたんだ。やっと結婚するって聞いたから、私の方がうれしくてね。なんせ、結婚はいいものだから」
あら。
そういうこと?
自分が結婚して、「これはいいものだ」と思ったから側近にもそれを強要した的な?
……にしては、妃殿下の姿が見当たらないことに気づく。
私が不思議に思っているのを察したらしい殿下が、憂いげに苦笑した。そして、私たち以外にはほぼ聞こえないだろうという小声でささやく。
「レスリーはね、今ちょっと、体調が優れなくてね」
「妃殿下がですか?」
「そうなんだ。妊娠がわかって、最初はそうでもなかったんだけど、最近ではあんまり食べられなくなってね。食べてもすぐ戻してしまうし」
「まあ。悪阻ですか」
「そうらしい。代わってあげたいけどそうもいかないし。最近は体調が悪いせいなのか、精神的にも不安定な日があってね」
話しながら、殿下の表情がみるみる曇っていく。
ああ、この人は、心から妃殿下のことを愛していて、そして心配してるんだ。
そう思ったら、なんだかとても、切ない。しんどい。
さっきのじくじくとした痛みがまたぶり返しそうになって、慌ててその気持ちから目を逸らす。すぐさま蓋をする。そして必死に、殿下との会話に集中する。
「妊娠してすぐは、悪阻のつらさに苦しむ人が多いようです。何をしても気分が優れず、ずっと馬車に揺られているような気分の悪さが続くとか」
「そうなんだ。レスリーも同じことを言っていた」
「無理をせず、食べられるものを食べ、心穏やかに過ごすのがいいと聞いたことがあります。気分の悪さは一時的なもので、時が来れば収まるようですし」
「ああ、医者にもそう言われているんだが。でもレスリーは、ずっとこのままの状態が続くんじゃないかとか、こんなに食べられないとお腹の子が育たないんじゃないかとか、ひどく気に病んでしまって」
「初めてのお子ですし、しかも王太子殿下のお子ともなればレスリー妃殿下がお感じになる重圧もひとしおなのではないでしょうか。何か気が紛れるようなものでもあればいいのでしょうけれど……」
「気が紛れるものね……」
殿下はひとしきり、考え込むように視線を空中に漂わせた。それから「あ」とつぶやいたかと思うと私の方を見て、あからさまに顔を輝かせる。
「君、レスリーの話し相手になってくれないかな?」
「は?」
「君は妊娠について詳しいようだし、何より同じ女性だからレスリーも話しやすいと思うんだ。話し相手がいれば、彼女も少しは気が紛れるんじゃないかな」
「え、でも」
「ダメかな? えっと」
「アナイスです。殿下」
「アナイス、時々でいいんだ。気が向いたときだけでいい。どうだろう?」
一国の王太子に懇願するような目で「どうだろう?」と言われて、あっさり断ることのできる人がいるだろうか? いやいない。もしいたら、是非ともお目にかかりたい。
縋るような目で旦那様を見上げると、仕方ないなというような穏やかな表情をしながら頷いている。
ん? これは、「引き受けろ」という合図? ゴーサインなの?
普段ほとんど話したことないのに、いきなりアイコンタクトなんて高度なコミュニケーションスキルを発揮されても困るのよ。
「……旦那様が、いいとおっしゃるのであれば」
「クライド、いいだろ?」
「そうですね。殿下の頼みとあらば、お断りできませんね」
諦めたように微笑む旦那様を見て、とりあえずこの答えで良かったのだと胸を撫で下ろす。
そして次の瞬間、とんでもないことになったと気づいた私は心の中でぎゃーーーーと悲鳴を上げた。
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