5 夜会前日
いよいよ夜会を翌日に控えたその日。
昼食を終えて一息ついた頃、俄かに一階がバタバタと騒がしくなったと思ったらシーラが部屋に駆け込んできた。
「アナイス様。旦那様がご帰宅なさいました」
「は? なんで? まだ昼過ぎよ?」
「執務中にお倒れになられたらしくて……。熱がおありのようで」
「あら」
結婚してからだいぶさぼっていた執筆活動を、そろそろ再開しようかと思った矢先のことだった。
あれこれ準備していた私はペンを置き、すぐに立ち上がる。
「旦那様は私室へ?」
「はい」
急いで向かうと、すでにベッドに寝かされていた旦那様は熱が高いのか苦しそうに浅い呼吸を繰り返していた。
「医者は?」
「今呼びに行かせました」
慣れた様子で使用人たちに指示を出すイアンと、手際よく旦那様の世話をするサマンサ。
「昔から、こうしたことはよくあったのです」
サマンサは手を休めることなく、真剣な表情で話し続ける。
「クライド様は幼い頃から、お疲れが溜まるとすぐに熱を出されて……。成長なさってからは、めっきり減っていたのですが」
「疲れねえ」
確かに、宰相補佐として王宮に出仕している旦那様の帰宅は毎日遅く、ひどいときには明け方に帰ってきたかと思ったらちょっと仮眠して着替えてまた出かける、みたいな日も多かった。
王宮の宰相補佐室には仮眠用のベッドもあるから多少はそっちでも休めるだろうけど、にしても働きすぎじゃない? とは思っていた。
イアンに聞いたら、結婚前はこんなに遅くなることはあまりなかったと言っていたから、単に私がいるこの屋敷に帰ってくるのが嫌なのかもとは思ってたんだけど。
あー、やだやだ。なんか萎えるわ。
私は二人に気づかれないように小さくため息をついて、それからベッドの脇で冷水に浸したタオルを絞るサマンサに近づいた。
「サマンサ、私がやるわ」
「でも奥様」
「あなたはほかにもやることがあるのでしょう? いくらお飾りといっても私は一応妻だし、今んとこやることもないから私が代わるわよ」
「いいのですか?」
「もちろん」
会いたくないと思うほど嫌われているとしても、こんなに苦しそうな人を放っておけるほど私も鬼畜じゃない(つもり)。
鷹揚に笑ってみせると、サマンサはそのきつそうな目にいっぱいの涙を浮かべている。
嫌な予感がしてイアンに目を遣ると、こちらもなんだか涙ぐんでいる。
いや、この老夫婦、涙腺緩すぎだよね?
「では奥様。お願いいたします」
濡れたタオルを私に渡したサマンサは涙声になりながらも立ち上がり、イアンと共にそそくさと部屋から出て行った。
私は近くにあった椅子をベッドのすぐ脇に移動させて、タオルを旦那様の額の上に載せる。
確かに、だいぶ熱い気がする。
眠っている旦那様は苦しげではあったけど、苦悶の表情はその美貌を一層際立たせて、つい見惚れてしまった。
黙っていれば、これほどの目の保養もないわね。ほんと、黙ってればね。
しばらくすると、旦那様は疲れもあるのか次第に深い眠りになって、少しずつ呼吸も落ち着いていく。
そのあとすぐにやってきた医者は、過労だろうからゆっくり休ませるようにと少量の薬を置いて帰って行った。
それから、手持ち無沙汰になった私は旦那様の私室を興味本位でぐるっと見回した。
ちょうど本棚があったから、何か読むものでもないかと思って足を向けてみる。
なんだか小難しい本ばかりだった。政治学とか、経済とか経営論とか、社会保障とか国際情勢とか。そんなのばっかり。
これだからあんなに頭の固い男になっちゃうのよね。少しは人の心の機微を丁寧に描いたような恋愛小説の一つでも読んでみればいいのに、と思ったら、小難しい本の中に隠れるように『愛される資格などない』という本を見つけて愕然とした。
いや、タイトルに驚いたわけではない。まあ、自覚あったのか、とかいう気持ちもあるけど、本題はそっちではない。
この『愛される資格などない』は、作者フルロア・ヴィンスの代表作とも言える小説である。フルロア・ヴィンスの作品はミステリー小説でありながら恋愛要素も多分に含み、たくさんの細かい伏線を最後の最後になって一気に回収していく爽快感がたまらない魅力なんだけど。
このフルロア・ヴィンスこそ、私の小説を最初に高く評価してくれた人気作家なのだ。編集者に言われて書いた二作目を、フルロア・ヴィンスが書評で「軽やかな文章、ユニークかつ多彩な言葉が紡ぎ出す繊細な心情描写は秀逸」「全体的には柔らかな空気感を纏いながらも緊張感のある断罪シーンは圧巻の一言」なんて絶賛してくれたおかげもあって、あの二作目は売れに売れたのだから。
もともと、私もフルロア・ヴィンスの作品は大好きで、暗唱できるほど何周もした小説がたくさんある。だから彼にあそこまで褒められたのがうれしくて、あの書評は何度読んだかわからない。全文暗記するくらい読んで、実際に全文そらで読んだらアリシアが爆笑してたんだもの。
旦那様がフルロア・ヴィンスを読むなんて。ちょっとびっくり。
あれ。でもおかしいな。この『愛される資格などない』はシリーズもので、八巻まで出ているはずなのにこれしかない。なんでだ?
不思議に思って『愛される資格などない』を手に取ろうとしたら、ベッドの方から「う……」という旦那様の声がした。
咄嗟に振り向くと、旦那様が起き上がろうとしている。
「え、ちょっと、旦那様」
急いで駆け寄ると、まだ少し意識が朦朧としているのか旦那様は「あれ、君は……」なんてあどけない声でつぶやいた。
「大丈夫ですか? 王宮で倒れたの覚えていますか?」
「あ? あ、ああ……」
「まだ熱があるんですから、もう少し寝ていた方がいいですよ。あ、でもせっかくだから少し水分をとりましょうね」
そう言って水差しからグラスに水を注いで手渡すと、旦那様は思いのほか素直にそれを受け取って一気に飲み干す。
「もっと飲みますか?」
「あ? ああ、いや」
水を飲んでだんだん覚醒してきたのか、旦那様の顔が少しずついつもの険しさを取り戻し始めた。
「君は……いつから……」
「旦那様が運ばれてきたときからです。イアンもサマンサもだいぶ心配してましたよ」
「ああ……」
「旦那様。ひとまず今は、もう少し休んでください。お疲れなんでしょう?」
「……」
気まずそうな旦那様は、ゆっくりと視線を下に向ける。
「これで熱が下がらなかったら、明日の夜会に行けませんよ」
「俺としては、その方がありがたいのだが」
「そんなことしたら、王太子殿下はまた改めて夜会の機会を設けるんじゃないですか?」
王太子殿下のことはよく知らないけどなんとなくほんとにやりそうだな、と思ったら、ちょっとだけおかしくなってふふ、と笑ってしまった。
それを見た旦那様は、急にぽかんとした表情になる。
「どうしました?」
「いや……」
「さあ、もう少し寝てください。あ、私がいたら寝にくいですよね。水差しの水を替えてきますから、旦那様はゆっくり寝てください」
「あ、ああ……」
のそのそとベッドに沈み込む旦那様を確認してから、私は水差しのお盆を持って部屋を出た。
*****
翌日の朝には、旦那様の熱はすっかり引いたらしい。
もしかして、夜会に行きたくなさすぎて熱出したのかしら、あの人。
まあ、夜会が、というより、私との結婚をお祝いされるというのがだいぶ苦痛なんだろうけどね。
苦痛といえば、私の方にも懸念はあった。
多分夜会に行けば、アリシアたちに会うだろう。
もちろん、会いたくないわけではない。むしろアリシアには会いたい。
どちらかというと、ジャレッドと顔を合わせたくないというのが本音なわけで。
私の結婚が決まるのとほぼ同時に二人の婚約が正式に決まったから、今夜の夜会には二人で出席するだろう。二人と離れたことで少しだけ和らいだ胸の痛みが、またじくじくと頭をもたげて私を追い詰めるのではないかという不安が、確実にある。
憂鬱な気持ちを抱えながらも夜会の準備は進み、ほぼ初めてじゃないかというくらいの煌びやかで上質なドレスを纏い、私は玄関ホールに向かった。
熱の下がった旦那様はすでにホールで待っていて、階段を降りる私を見上げている。
「旦那様。大丈夫ですか? 熱は下がったと聞きましたが」
階段を降りきって今度は私の方が旦那様を見上げると、旦那様は何故か昨日と同じようにぽかんとしていた。
「え、ほんとに大丈夫ですか?」
「あ? ああ」
「あまり無理はされない方が」
「あ、いや……」
「奥様。クライド様は奥様のお美しさに見惚れているのですよ」
サマンサがニマニマしながらつつつ、と寄ってくる。
「いや、そんなわけないでしょ」
「いえいえ。このサマンサにはわかります。クライド様の色を纏った奥様に目を奪われているのですよ」
あ。
そういえば、そうだった。
ドレスを仕立てるときに、サマンサがしきりと「クライド様の色にしてはどうでしょう」なんて言うもんだから、まあいいかなんて軽い気持ちで言われる通りにしてしまったんだった。
クライド様は、銀の髪に深い海のような青藍色の目をしている。
だから深い青色のドレスに細かい銀の刺繍を施して、アクセサリーも同じ色で統一したんでした。
「あー、やりすぎたかしら」
「そんなことはありません」
「ごめんなさい、旦那様。調子に乗って旦那様の色にしてしまいましたけど、次からは気をつけますから。今日一日我慢してくださいね」
「あ? あ、ああ」
なんか、「あ」しか言ってない旦那様だけど、ほんとに熱下がったの? 大丈夫?
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