19 愛及屋烏
夜。
宿の一室、ベッドの上に腰掛ける私は、落ち着かない気持ちで何度も深呼吸をしている。
さっきクライド様が馬車の中で言った「すごいこと」が何なのか、わからない私ではない。まあ、あれがわからない人なんていないとは思うけど。
わからないわけではないからこそ、落ち着かないわけで。自分の気持ちを自覚しながらも言い出せずにいたのは、きっとこうなるだろうとわかっていて、それが少し怖かったからでもある。そう考えると、初夜のときはよく覚悟できたものだと我ながらちょっと感心する。
「アナイス」
気がつくと、湯浴みを終えてまだ髪が濡れたままのクライド様がドアの前に立っていた。
「は、はい」
「少し、話をしようか」
私の顔を確認したクライド様は何故かふっと軽く笑って、それから私の隣に座った。
触れそうで触れない微妙な距離が、なんだかもどかしい。
「今日は、ありがとう」
「え? 何がですか?」
「公爵の誘いを断ってくれて。正直、俺は君がステイシーのために犠牲になる道を選ぶんじゃないかと思った」
切なく微笑むクライド様の表情は、私の心をギュッとわしづかみにした。
「確かに、一瞬考えました。せっかくステイシー様を助けるために公爵に会いに行ったのですから、ここで公爵の要求を受け入れれば万事丸く収まるのではと」
「うん」
「でも、そんわけないですよね。私があなたと別れて公爵のもとに行ったら、あなたはきっと深く傷つくでしょう? 私がステイシー様を助けたかったのは、あなたのためです。あなたが後悔したり自分を責めたりして、辛い思いをするなんてことは避けたかったんです。それなのに私があなたを傷つけてしまったら、たとえステイシー様を助けられたとしても本末転倒じゃないですか」
「……うん」
「というようなことを頭の中で瞬時に考えて、即答しました。何より、私がクライド様のもとを離れたくなかったんですけどね」
そう言って笑うと、クライド様は唐突に私をふわっと抱きかかえ、自分の膝の上に乗せた。
腰に回る腕の力強さにどぎまぎしていると、とろけるような目をしたクライド様の額が私の額にこつんと触れる。
「……幸せすぎる」
「ふふ。私もです。でもこれからもっと、幸せになりましょう?」
額を合わせたままにっこり笑ってみせると、クライド様はゆっくりと額を離し、悩ましげな上目遣いをした。
「アナイス。もう待てない」
「え」
「アナイスがほしい。ほしくてほしくてたまらない」
懇願するような青藍色の目が、私を捉えて離さない。逃れられない熱を感じながら、そういえばさっき公爵も同じようなことを言っていたと思い出す。
公爵に言われたときはあんなに気持ち悪くてどうしようもなかったのに、クライド様に言われたら不快どころか体の芯からうれしさと愛しさが溢れてきて、痛いくらいの幸福感に胸が締めつけられる。
私は息を潜めて手を伸ばし、クライド様の頬に触れた。火照った頬が、熱い。
「クライド様、前に言ってたでしょう? 私にも俺を求めてほしいって。私だってクライド様がほしいし、クライド様のものになりたい。自分から抱いてほしいと言うような、淫乱で浅ましい私でもいいですか?」
あの初夜の日にクライド様が言った言葉をそのまま返すと、クライド様は一瞬で何とも言えない複雑な表情になった。
「あー、その、あんなこと言ったのは、ほんとに悪かった。でも俺はどんなアナイスも好きだし、淫乱で浅ましいアナイスはむしろ大歓迎だよ」
「大歓迎なのですか?」
「もちろん。淫乱で浅ましいのは、俺も同じだ」
低く掠れた声とともに、切羽詰まったような秀麗な顔が近づいてくる。
私も静かに目を閉じて、それからクライド様の甘すぎる深い愛に溺れた。
*****
フェリクス様が私たちの部屋を訪ねてきたのは、翌日の昼近くになってからだった。
昨日宿に戻ってきたのも、ほとんど真夜中といっていい時間帯だったらしい。
「ずいぶん遅くまでつき合わされたようだな」
「まあね。でも俺、実はそんなに飲んでないんだよ。公爵って酒は好きなんだけどあんまり飲めない人だから、ガンガン飲ませていろいろうやむやにしちゃおうって魂胆で」
「悪いな。面倒をかけた」
「そんなことないさ。それよりも」
フェリクス様はあまり見たことのないような真面目な表情をして、私の方に顔を向けたかと思うと思い切り頭を下げた。
「アナイス様、本当にごめん!」
「え? 何がですか?」
「公爵がサエルに会いたいと言っていたのは本当だけど、まさかマウノのことを口実にしてアナイス様に婚姻を迫るなんて思ってなかったんだよ。あそこまで執着心を拗らせてるとは思わなくて」
「そうなのですか? 私はてっきり、フェリクス様もグルなのかと」
「違うから! ほんとにそこは! 信じてもらえないかもしれないけど、俺だってクライドが不幸になるのなんか見たくないから!」
あなたも私とクライドの仲を邪魔しようと、似たようなことしたはずですがね? とは思ったけど、今は言わないでおこう。
ものすごい勢いで言い募るフェリクス様を横目に、私は隣に寄り添う夫の顔を見上げた。
それを何かの合図だと思ったのか、まるで片時も離れたくないとでもいうように腰に回した腕の力を強めるから必然的に密着してしまう。
「どうした? アナイス」
「……近いし、恥ずかしいです。クライド様」
「昨日、もう『様』を取ると約束しただろ?」
「……あ。その、クライド」
「恥ずかしがるアナイスもかわいいけど」
言いながら、必死になって謝り続けるフェリクス様など気にも留めない様子で私のこめかみにキスをする。
「え、ちょっと、クライドってば」
「困ってるアナイスもかわいい」
「ちょっと! 俺がいるのに堂々といちゃいちゃすんのやめてくんない!? ていうか、昨日よりだいぶ距離近くない? ねえ!」
「うるさいな、フェリクス。俺たちの蜜月を邪魔しにきたのはお前だろ。だいたいお前、アナイスがいればうまく交渉できるとか言ってたくせになんなんだあのエロ公爵は」
「だからほんとにごめん! アナイス様にも、ほんとに謝るよ。俺も公爵も、勝手なサエル像を作り上げて女神だなんだと一方的に崇めてたんだなって今更ながら気づいたよ。あんなの、アナイス様からしたら気色悪いだけだよな。俺が同じようにされたらやっぱりちょっとムカつくし」
フェリクス様は本当に反省しているのか、ちょっと泣きそうな顔でうなだれながらなおも続けた。
「クライドは立場上、いろいろ耳にしてることも多いと思うけどアナイス様は知らないことも多いと思うからさ。ちゃんと説明させてくれる?」
「何をですか?」
「公爵自身のことだよ」
クライドは仕方がないなというように軽くため息をついて、話の続きを促すような視線をフェリクス様に向けた。
その反応に少しほっとした様子のフェリクス様が、「何から話そうか」と思案顔で口を開く。
「まずは公爵夫人のことかな。一男一女を儲けて、すでに亡くなってるというのは事実だよ。10年以上経つと思う」
「そんなに経つのか」
「ああ。でもバルテルス公爵という人は、実は結婚前から女癖が悪いことで有名でたくさんの令嬢と浮名を流してきた人でね。まあ、あの見た目なら若い頃から引く手数多だったんだろうけどね。だから結婚してからも何人も愛人がいて、少なくても三人の愛人との間に子を儲けているんだ」
「え」
「ちなみに、例のマウノ・バルテルスは二番目の愛人との間の子だよ」
「そ、そうなのですか?」
「うん。生まれた子どもは全員公爵の子として認知したうえで公爵家で引き取って、夫人に養育させてたんだよね。でもそんな生活で心労の絶えなかった夫人は、早くに亡くなってしまって」
「それ、控えめに言って」
「クズだな」
「クズですね」
「まあね、褒められはしないよね。だから夫人との間の子どもたちは、公爵のことを当然よく思っていない。兄妹二人で、家を出てしまうくらいには折り合いが悪い」
「あれま」
「夫人が亡くなったあとも公爵は愛人たちとよろしくやっていたんだけど、サエルが文壇に登場してからはどんどんサエルに心酔していってね。あの通り、いつからか倒錯的な執着を抱くようになっていたわけだ」
「そんなに愛人がいるのなら、サエルなんか別に必要なかったのではないですか?」
「それは違うよ。何人もの愛人を持っても、そのうちの誰とも結婚しようとはしなかったんだよ? その公爵が、サエルだけは『妻にしたい』と言って憚らないくらい圧倒的な熱情を傾けていたんだ。現に公爵、『妻にしてやるという私の愛の深さがわからないのか』とか言ってたし」
「わかりませんね。わかりたくもないし」
「だよね」
フェリクス様もはっきりと呆れ顔になって、頷いている。
「でもさ、困ったことに、公爵は一歩も譲らなくてね」
「マウノのことですか?」
「それもそうだし、サエルのことも諦めないってずっと言ってて。どんな手を使ってでも手に入れるとかなんとか」
「こわ」
「いくら王弟とはいえ、横暴が過ぎるだろ。下手すりゃ犯罪だ」
「ほんとにね。だいぶ酔わせてへべれけにしたうえで、あれこれなだめすかしたんだけど無理だったんだよね。手を出される前にとっとと帰った方が得策かもしれない。マウノのことも何も解決してないし、かえって事態を難しくしてしまって申し訳ないんだけど」
いつものふてぶてしいくらい爽やかな笑顔はどこへやら、フェリクス様は「不甲斐ないよ」と表情を曇らせる。
「大丈夫ですよ、フェリクス様。私に考えがあります」
「考え? どんな?」
「私には、私の戦い方がありますから」
明らかに何か企んでいるという顔で微笑む私を前にして、二人は不思議そうに首を傾げた。




