17 素敵なおじ様
「本当によかったのですか?」
馬車の中、隣に座るクライド様はどういうわけだか私の右手をしっかりと握ったまま、気難しい顔をして窓の外を眺めている。
フェリクス様と話をした翌々日には、三人でエドフェルト王国に向かうことになった。善は急げというやつだ。
何日も休むことになるからと、クライド様はそのまま帰ってくることなく残業に残業を重ねたらしい。帰ってきたのは出発する日の明け方で、ほんの少し仮眠したあとすぐ出ることになった。
疲労困憊の状態のくせに「大丈夫だ」と言って馬車に乗り込んだ途端私の手を握り、それきりこちらを見ようともしない。
顔を背けたままのクライド様を眺めながら、それでもなんだかやけに安心しきっている私がいた。
この距離が、妙にしっくりくる。いつの間にか、この手の届く距離にこんなに馴染んでいたなんて。
しっかりと握られている右手に目を落として、私は思わずふふ、と笑った。
「クライド様」
「……なんだ」
「ごめんなさい」
「は?」
「ステイシー様のこと、勝手にあれこれ言ってごめんなさい。あなたを傷つけるつもりはなかったし、後悔するあなたを見たくなかったのも事実ですけど、それでももうちょっと、言い方があったなと思って。嫌な思いをさせてしまってごめんなさい」
力なく微笑むと、クライド様はがばっと勢いよくこちらに体を向けて声を張り上げた。
「ち、違う! アナイスが悪いんじゃない! 君が俺のことを思って言ってくれたのは俺だってわかってる。でもその、どうしても、あっちの家のことに関しては感情的になってしまって……。俺の方こそ、ジャレッドのことなんか持ち出して、悪かった。それにステイシーのことも心配してくれて……。すまない」
最後は尻すぼみになって、ぼそぼそとした声になるクライド様。なんだかかわいい。
「じゃあこれで、仲直りですね」
「あ、ああ」
「あと、お忙しいのにエドフェルトに一緒に行ってくれて、うれしいです。心強いと言いますか」
「フェリクスと二人でなんか行かせられないだろ? あいつは本当に油断も隙もないからな。特にサエル・アレステルのことはある意味崇拝してると言っていいくらいだから。レスリー様といい勝負だよ」
「……そのことも、ありがとうございます」
「何がだ?」
「知っていたのに、黙っていてくれて。秘密にしていることを、責めずにいてくれて。そして知ったあとも、変わらず接してくれて」
そう言うと、クライド様はいつも通りの柔らかい笑みで私を見返した。
「言っただろ? 君がサエル・アレステルでもそうでなくても、俺にとってはどっちでもいいんだ。君がずっと隠していたいと思うなら、死ぬまで知らないフリをしていようと思っていた。アナイスが俺のそばにいてくれるなら、なんだっていいんだ」
「なんか、そういう言葉久しぶりすぎて、照れます」
「俺も意地になって極力顔を合わせないようにしていたが、そのせいで君がどこかに行ってしまうんじゃないかと不安でどうにかなりそうだった。夜もあまり眠れなかったから、サエル・アレステルの本を読破してしまったよ」
「は?」
「いい機会だと思ってね。君がどんな小説を書いているのか興味があって」
「よ、読んだんですか? 全部?」
「ああ」
「いや、一昨日も言いましたよね? 私の小説は、バリバリの恋愛小説でゴリゴリのいちゃラブ路線だって」
「あー、確かにそうだな。勉強になった」
「は!?」
「つまり、アナイス自身もああいうのが好きだということだろ? 君の小説に書かれているようなことをすれば、そのうち好きになってもらえそうだという光明を見出したよ」
明るい期待に彩られたクライド様の目に迫られて、返す言葉が見つかるわけもなかった。
*****
それから数日後、無事にバルテルス公爵邸に到着した。
フェリクス様が前もって先触れを出してくれていたおかげで、手厚いもてなしを受けた私たちはそのまま応接室に通される。
しばらくするとドアをノックする音がして、すらりとした壮年の男性が華々しいオーラを纏って現れた。
「やあ、フェリクス。久しぶりだね」
「公爵! お久しぶりです」
立ち上がったフェリクス様が両手を差し出し、にこやかに挨拶する。
バルテルス公爵は長身で精悍な顔つきをした、素敵なおじ様だった。上品に整えられた口髭は威厳と親しみやすさの両方を醸し出していて、文句なしに好感が持てる。これはおモテになるだろうなと、思わずにはいられなかった。
公爵はフェリクス様の後ろに控えていた私たちに気づくと、次の瞬間ぱっと目を輝かせた。
「君が、あの……?」
「はい。サエル・アレステルです。本名は、アナイス・フィンドレイと申します」
「本当に来てくれたのか! フェリクス、でかした!」
「いやあ、まあ」
曖昧に笑うフェリクス様など意に介さず、公爵はクライド様とも軽く挨拶を交わすと私に座るよう勧めた。それから、待ちきれないというように前のめりの姿勢で話し出す。
「君にはずっと会いたいと思っていたんだよ。いやあ、想像以上だね。美しく、凛としていて、比類なき聡明さが滲み出ている。君の小説も本当に素晴らしい。『博識令嬢』シリーズが最も著名だが、私は君の処女作が出版されたとき度肝を抜かれてね」
「え、『溺愛しか知らない』ですか? あれはそんなに売れていませんが」
「だが、あれを読んだ編集者の先見の明に私は激しく同意するね。現に二作目の『博識令嬢は我が道を行く』は君の作家としての地位を不動のものにしただろう?」
「それは偏に、フルロア・ヴィンスの書評のおかげです。彼が高く評価してくれたからこそ、脚光を浴びることができたのだと」
「聞いたかね? フェリクス。サエルは君のことを恩人と思っているようだ」
得意げな顔で振り返る公爵の言葉で、この人はフルロア・ヴィンスの正体を知っているのだと瞬時に理解する。
「そうみたいですね。でも俺の方こそ、サエルとの出会いは運命的でしたよ。彼女が文壇に現れなかったら俺のスランプもどうなっていたかわかりません」
「あの頃の君は、ずいぶんと生みの苦しみを拗らせていたからね。なんとかしてやりたいと思いながらずっと見守っていたが、サエルが登場してからはまるで息を吹き返したかようにのびのびと書き進められているようじゃないか」
「ええ。本当に、サエルには感謝しかありません」
目の前の二人の容赦ない賛辞にさらされて、私はちょっと怯んでしまう。
隣に座るクライド様を見上げると、うれしいんだか戸惑っているんだか、複雑な表情をしていた(そりゃそうだ)。
それにしても、ここまで社会的地位が高く、成熟した大人の魅力を振りまく渋いおじさんがサエル・アレステルのファンだとは。世の中、びっくりすることばっかりだわ。
なんて、まるで他人事のように思っていたらそれに気づいたらしいフェリクス様が意地悪く微笑んだ。
「公爵、サエルにはきちんと説明した方が」
「ああ、そうか。伝えていないのか?」
「ええ。ご本人の口から聞いた方がいいのではと思いまして」
「気を遣ってくれたんだな」
二人が突然、悪そうな顔をしながら謎の会話をし始める。かと思うと公爵は、うれしさと恥じらいの入り混じったような表情をしながら私をじっと見つめた。
「実は私にも、ペンネームがあってね」
「ペンネーム? もしや公爵も作家なのですか?」
「そうなんだ。私のペンネームはね、マリオン・エルーラというんだが」
「は!? マリオン・エルーラ!?」
緊張も戸惑いもぶっ飛んで大声を出してしまった私を、公爵とフェリクス様がニヤニヤといたずらっぽい顔で眺めている。
なんのことかピンと来ていないらしいクライド様だけが、微妙な表情で事の成り行きをうかがっていた。
「え、待ってください。だってマリオンは、『悲恋の女王』と呼ばれてるんですよ?」
「そうだね。その二つ名は、私が考えたものではないんだけどね」
「それにそもそも、『マリオン・エルーラ』なんて完全に女性の名前じゃないですか」
「まあね。女性の目線で恋愛小説を書こうと思ったら、女性の名前を使った方がより受け入れられやすいかなと思ったんだよ。どうせ本名は使えないからね」
驚愕のあまり二の句が継げない私を満足そうな顔で認めて、公爵は朗らかに続ける。
「王弟という身分は、存外に自由な時間が多くてね。手慰みに書いてみたものが、まさかそんなに売れるとは思わないじゃないか。そのとき軽い気持ちで使ったペンネームだって、ここまで世の中に浸透するとは思わなかったんだよ」
いやいや、ちょっと待ってよ。
「悲恋の女王」が、いくら上品で大人の魅力溢れるとはいえこんな髭のおじさんだなんて……。
世の中のマリオンファンがどんな反応をするのか、想像もできない。
展開についていけない私(とクライド様)を尻目に、公爵とフェリクス様はあっけらかんとして話を進める。
「で? フェリクスの話は何だっけ?」
「ご子息のことです、公爵」
「ああ、マウノのことか。あいつ、そっちでもやっぱり好き勝手やってるらしいな」
「はい。そちらにいるクライド・フィンドレイの妹、ステイシー・フィンドレイ嬢を見初めたのはいいのですが、彼女に想い合う相手がいるとわかるとその仲を引き裂くべく、あれこれ画策しているようで。最近では相手の侯爵令息に大怪我を負わせたり、ステイシー嬢を誘拐しようと襲ったりしたようです」
「なんだって? それは聞き捨てならないな」
顎に手をやりながら、公爵はひどく険しい表情になる。
事態の深刻さを重く受け止めているようなその態度に、この人は話の通じる人だと安堵したのも束の間。
「で、マウノをなんとかしろということかい?」
「できれば」
「それは難しいな。あいつ、こっちでもいろいろやらかしていてね。いくら言っても聞かないし、やりたい放題で手に負えないから思い切ってそっちに留学させたんだよ。今更私が苦言を呈したところで、その行動を改めるかどうか」
「そうは言っても公爵。このままではご子息はもちろん、バルテルス公爵家の評判をも落としかねません。信用が地に落ちてしまっては、いくら王族と言えども」
「そうだな」
言いながら、その上品な雰囲気からは想像できないほど下卑た笑みを浮かべた公爵の視線が唐突に私を捕らえた。
「ではこういうのはどうだ? サエルが私の妻になってくれたら、マウノのことはなんとかしよう」
「は!?」
「公爵、何を……!?」
「公爵。私はすでに、こちらにいるクライド・フィンドレイ様に嫁いでいます。突然何を――」
「見たところ、君たちはまだ本当の意味での夫婦関係には至っていないようだ。それならば申請をして、その婚姻をなかったことにするなど容易いはずだが」
「いや、でも公爵にだって」
「私の妻はね、一男一女を儲けたあとすでに亡くなって久しいんだよ。長年サエルに心奪われてきた私が、今日という日をどんなに待ち焦がれていたかわかるかい? 君が正式に私の妻になってくれるのなら、マウノの留学をやめさせてこちらに呼び戻してもいいのだが。どうかね?」
下卑た笑みを浮かべたままの公爵が、悠然とした様子で私を見据えている。
今にも飛びかかろうとする殺気を放つクライド様を制した私は落ち着いて、きっぱりと言い切った。
「お断りします」
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