16 正体
「なんだよクライド、ノックくらいしろよ」
フェリクス様のその不気味なほど落ち着いた声で、爽やかな笑顔の下に隠された彼の悪巧みに否応なく気づかされる。
「フェリクス様。わざとそれを聞かせるために、クライド様をここに呼んだんですか?」
「そうだよ。君たち最近、なんだか仲違いしてるみたいじゃない? これを機に、さらに溝を深めてもらおうかななんて思ってね」
意地悪く胡乱な目つきで話すフェリクス様を、私は怒りに任せて睨み返した。
「どういう意味ですか?」
「どういう意味も何も、サエルのことは俺だってずっと狙ってたんだよ」
「は?」
「君が文壇に登場したときから、サエル・アレステルとは一体どこの誰で、どんな女性なんだろうってずっと探していたんだよ。でもやっと正体を嗅ぎつけたと思ったら、君はもうクライドのものになってるじゃないか。そのときの俺のショックがわかる? がっかりを通り越して絶望だよ? だからさ、これはちょっとした意趣返しのつもりなんだよね。君がずっと秘密にしていたことを、俺がクライドにバラしてやったら――」
「知っていたが」
ぺらぺらと気持ちよくしゃべっていたフェリクス様に、クライド様の低い声が容赦なく突き刺さる。
「え」
「アナイスがサエル・アレステルだろうということは、とっくに気づいていたんだが」
「え!?」
驚いて立ち上がり、振り返ってクライド様に目を向けると、クライド様もきょとんとした表情を見せている。
「気づいてたんですか? いつから?」
「君が一階の書庫を使い始めてすぐかな? 仕事が思いのほか順調に片づいて、いつもよりだいぶ早い時間に帰れた日があったんだよ。でも君の姿が見当たらないから、書庫を覗いてみたんだ。そうしたら疲れていたのか机に突っ伏して眠っている君が見えて、その下に『サエル・アレステル』の署名が書かれた何枚もの原稿と、それから『博識令嬢』シリーズの本が何冊か置いてあったから。もしやと思って」
「どうして何も聞かなかったんですか?」
「ペンネームを使っているくらいだから、知られたくないのだろうと思ってさ。必要ならきっと君から話してくれるだろうと思ったし。何より、君がサエル・アレステルであろうとなかろうと、俺の愛するアナイスに変わりはないから」
さも当然といった様子で淡々と話すクライド様を、私だけじゃなくフェリクス様までもが呆然と眺めている。
ていうか、何よその、「俺の愛するアナイスに変わりはない」とかいう殺し文句。
久々にそういうの聞いちゃったら、しみじみうれしくなっちゃうじゃない。まだ愛されてるんだなって、安心しちゃうじゃない。
「は、なんだよそれ」
我に返ったフェリクス様は不愉快そうにムッとして、毒を含んだ視線をクライド様に投げつけた。
「知ってたのかよ。つまんねえの」
「お前もほんと、油断ならないやつだな。妙にアナイスのことを聞きたがると思っていたが、そういうことだったのか」
「ふん。アナイス様の本当の魅力を知らないお前には、もったいない嫁なんだよ。俺にとって、サエル・アレステルは希望の光だ。書いても書いても納得のいく文章が書けなくて、そのうち何を書いたらいいのかもわからなくなって途方に暮れていた俺の前に颯爽と現れた、救いの女神だ。あの溌溂とした心躍る文章は、俺の創作意欲を十分に刺激してくれた。その女神に興味以上のものを抱くのは当然のことだろ?」
二人の会話を黙って聞きながら、私の頭の中には大きな疑問符がいくつも浮かんでくる。
ん? どういうこと?
「書いても書いても」とか「何も書いたらいいのかもわからなくなって」とか「創作意欲」って……?
「あの、それはどういう……?」
いつの間にか私のすぐ横に移動していたクライド様に尋ねると、「ああ、そうか」とつぶやいてふわりと微笑んだ。
「こいつも隠れ作家なのさ。ペンネームはフルロア・ヴィンス」
「は?」
真向いに座るフェリクス様をすごい勢いで見返してしまう。
フェリクス様はちょっと面白くなさそうな顔をしたまま、諦めたように口を開いた。
「あーあ。俺の口から暴露して驚かせようと思ってたのに」
「え、まさか、ほんとに? ほんとにあのフルロア・ヴィンスなのですか?」
「そうだよ。驚いた?」
「そりゃ驚きますよ! でもまじですか? 夢じゃないですよね? 私、昔から大ファンなんですよ! あの書評も、全文暗唱できるくらい、ほんとにうれしくて!」
「はは、あ、そう」
ここまでの流れを完全にぶった切って、私はただのフルロア・ヴィンスガチ勢の一人に成り下がる。その圧に押されぎみのフェリクス様は、ちょっと仰け反りながら乾いた愛想笑いを見せている。
「『愛される資格などない』シリーズも好きですけど、『騎士探偵』シリーズがすごい好きで! それから最近の作品だと、『四葉の誓い』が面白かったです。最後の最後であのどんでん返しはさすがフルロア・ヴィンスだと唸ってしまいました!」
「あ、ああ、ありがとう。そうだね、『騎士探偵』シリーズはレスリー様も珍しく気に入ってくれててね」
「え、じゃあレスリー様もご存じで?」
「ヴァージル殿下もね。俺が書き始めたのは学園にいた頃からだから。学園在学中に、作家としてデビューしたんだよ」
そこでふと、クライド様の私室の本棚にひっそりと並んでいたフルロア・ヴィンスの『愛される資格などない』の存在を思い出した。シリーズものなのにどうして一冊だけなんだろうと思っていたけど、きっとあれはフェリクス様からの献本だったんだろう。
それにしても、憧れの人気作家を前にして、ただの一ファンとしての興奮を抑えることができる人なんているだろうか。いや、いるわけがない。
思いがけない奇跡との遭遇を全身で噛みしめていると、不意に自分の右手が熱い手のひらで覆われる。
「アナイス。そんなキラキラした目をフェリクスに向けないでくれ。嫉妬するだろ」
「え? あ、はい……」
「いいじゃん、ちょっとくらい。俺だって、文壇の女神に愛されたいよ」
「よく言うよ。あちこちいろんな女性に声をかけまくってるくせに、アナイスが本命みたいな言い方するな。そんなんだから、こっちにいられなくなって留学する羽目になるんだろ」
「うるさいなー」
「やっぱり女性問題で留学することになったのですか?」
勢いに乗じたまま、ちょっとだけ興味本位で聞いてみた。クライド様は呆れたような表情をしながらもすんなり頷く。
「学園にいる頃から、こいつは浮ついていて軽薄で、やたら調子だけはよくて馴れ馴れしくて」
「ちょ、クライド! 言いすぎ!」
「いろんな令嬢に粉をかけまくっていたんだが、そのうちの令嬢の一人がフェリクスに本気になってしまってね。すでに婚約者のいる令嬢だったから、婚約破棄だ解消だと大ごとになってしまって」
「俺はほんとに、そんなつもりなかったんだよ。みんなと同じように気軽に声をかけてただけなんだ。それなのになんでだか勘違いしちゃって」
「勘違いするようなことしたんだろう?」
「だからしてないって」
「とにかく、外聞をはばかったヴィンセント侯爵がやむを得ずこいつを留学させることにしたのさ。ほとぼりが冷めるまでな」
「まあ、エドフェルトに行った方が自由に執筆できたからね。その点では行ってよかったけど」
事もなげに無邪気な笑顔を見せるフェリクス様に、唖然としてしまう。
そういえば、フルロア・ヴィンスやフェリクス様に対して腐ったものでも見るかのような視線を向ける、レスリー様を思い出した。
あー、なるほど。そういうことか。
「それ、控えめに言ってクズですね」
「え、ちょっと、アナイス様もひどくない?」
「いや、クズだな。しかし困ったことに、こいつは女性関係については問題だらけだがほかの点に関しては有能すぎるほど有能なんだよ。だからヴァージル殿下も手放せずにいる」
「その代わり、殿下の小言は多いよー。女性を大事にできないやつはダメだとか、早いとこ真に愛する女性を見つけろとかさ」
「その通りだろ」
「いや、お前だってついこの間まで同じようなこと言われてただろ? アナイス様と結婚した途端、殿下側に回りやがって。俺だってサエルと結婚できてたらさ」
「残念だが、お前がサエル・アレステルと結婚することはできない。潔く諦めろ」
「うわ、ひどい」
「あの。そろそろ本題に戻りたいのですが」
最終的には楽しげにわちゃわちゃし出した男性陣を冷ややかに制すると、二人はハッとした表情をして苦笑する。
「あー、ごめんごめん。ステイシーのことだよね」
「そうです」
またその話か、とでも言いたげな顔をして立ち上がろうとしたクライド様が逃げないよう、私は握られていた手を強く握り返した。
一瞬びくりとしたクライド様は、観念したのかそのまま大人しく隣にいることにしたらしい。
「実はさ、俺がエドフェルトにいた頃、バルテルス公爵には結構世話になったんだよね」
「知り合いなのですか?」
「ああ。あの人って見かけによらず小説とかが好きでさ」
「へえ」
「特に、サエル・アレステルの大ファンなんだよね」
「は!?」
「一度でいいから会ってみたいってしきりに言っててさ。きっと、あの文章の通り生命力に溢れる才気煥発な女性に違いないから是非とも会って話してみたい、とかずっと言っていて」
「それで、アナイスに会わせる代わりに横暴なご子息の振る舞いをなんとかしてもらおうと、そういうことか」
「いやでも、私の小説ってバリバリの恋愛小説ですよ? 令嬢とか若い奥様とか、平民の娘あたりが主な読者層の、ゴリゴリのいちゃラブ路線ですよ?」
「うーん、でもそういうのって、年齢や性別関係ないんじゃない? 好きな人は好きだろうし、俺だってサエルの本は好きだよ?」
えー、そんなもの?
もちろん、書く方からしたらどんな人が読んでくれてもそれはうれしいことだし、年齢や性別で区別しようなんて思ってないんだけど。
いやー、ほんとに意外と言いますか。おかげで心臓が変な具合にどくどく言っている。
「とにかく、アナイス様がサエル・アレステルとしてバルテルス公爵に会ってくれたら、なんとか交渉はできると思うんだよね」
すでに勝ち誇ったような雰囲気のフェリクス様を一瞥してから、私は渋い顔をして隣に座るクライド様に目を向けた。
「クライド様。行ってきていいですか?」
「……ダメだと言っても、行くんだろ」
「あなたがダメだと言わないのは、わかってますから」
クライド様は私と目を合わせたまま大きなため息をつき、それから少し困ったような、それでいて何かを決意したような表情をして私の顔を覗き込む。
「それなら、俺も一緒に行く」




