1 「君を愛することはない」からのバトル勃発
「君を愛することはない」
つい先ほど華やかで煌びやかな結婚式を挙げ、侍女たちにこれでもかというくらい磨き上げられ、だいぶ戦闘力の高いナイトドレスを着せられ、夫婦のベッドの上にぎこちなく座りながら夫が来るのを待っていた私に投げつけられた一言。
目の前に立つ夫は、誰が見てもその端正で精悍な顔立ちにため息をついてしまいそうなくらい見目麗しい、クライド・フィンドレイ公爵令息。
現宰相・フィンドレイ公爵のご子息でその有能ぶりは幼少期から一目置かれており、次期宰相の呼び声も高い。
その超絶美形の夫が、もともときつい目つきをもっと鋭くさせ、私を睨んでいる。
最近巷で、というかうちらの界隈で流行っている「君を愛することはない」なんてセリフ、現実で言う人がいるなんて思わなかった。
私は思わず、ちょっと珍しいものを見たような感覚になって正面に立つ夫を上から下までまじまじと見つめてしまう。
私が自分の美貌に見惚れていると勘違いしたらしい夫の声は、ひどく不機嫌そうだった。
「聞いているのか」
何も言わない私にしびれを切らした夫は、一方的に説明し始める。
「ヴァージル殿下がとにかく結婚しろ結婚しろとうるさいし、どこぞの令嬢を勝手に見繕おうとするから仕方なく君を選んだのだ。俺は君を愛する気はないし、今夜これから君と夫婦関係を結ぶつもりもない」
「それでは子ができませんが。公爵家の跡取りはどうされるおつもりなのですか?」
「縁戚から養子をもらうつもりでいる」
至極真っ当なことを聞いただけなのに、とてつもなく渋い顔で答える目の前の夫。
え、なに、この人。
顔は端正だけど、心根の方はすこぶる不細工的な?
とんでもない不良物件の予感しかしないんだけど。
確かに、縁談の話が来てから一度も会うことはなく、というか話が来たと思ったらあれよあれよという間に今日を迎えてしまったことに多少の疑念はあった。
婚約期間なんてなく、急いで結婚したのはさっきの「ヴァージル殿下がどうこう」とかいう理由があったんだろうけど。
にしてもよ。
初対面の妻に、あの言葉はなくない?
あの手の本を読むたびに、初夜からきついこと言うよなあ、とか他人事みたいに思っていたけどまさか自分が言われるとは思わないじゃない。
ほんと、どういう神経してんのかしら。
「とにかく君は、次期公爵夫人としての務めを果たしてくれればそれでいい」
「お待ちください。次期公爵夫人としての務めとは、跡継ぎを産むことも含まれると思いますが」
「だからそれは要らないと言っているんだ。それ以外の仕事があるだろう」
私が一言返すたびに、夫の眉間の皺がどんどん増えていく。
その麗しくも険しすぎる顔を見返して、私は冷ややかに答えた。
「お断りします」
「は? どういう意味だ」
「愛されることはないのに次期公爵夫人としての務めだけを果たせばよいというのは、少々勝手な言い分ではありませんか? 確かにお会いするのは今日が初めてですし、私もあなたもお互いのことをよく知りません。でもそれは、これから時間をかけてゆっくりとお互いを知り、少しずつ愛を育んでいければよいと思っておりました」
「だからそれが要らないと言ってるんだ。君と愛を育むつもりはない」
「じゃあ、何故結婚したんですか?」
「言っただろう? ヴァージル殿下がうるさいからだと。あの人は本当にその辺の令嬢を適当に見繕うつもりだったんだ。あの人ならやりかねない」
「では何故、私をお選びになったのですか?」
「婚約も婚姻もしていない令嬢がいて、家格が釣り合い、利害関係や派閥争いとは縁のない家といったらクレヴァリー伯爵家くらいだったからだ。それに、社交界でも君は控えめで慎ましく、穏やかな人柄だと評されていた。だから」
「控えめで慎ましく穏やかなら、自分の言うことも聞くだろうと?」
棘のある言い方に、夫はうっと唸った。
「君は愛さない、でも仕事はしろって一体何様のつもりなんですか? なんで愛してもくれない人のために働かなきゃなんないわけ」
「なんだその言い方は。愛、愛って、そんなに愛してほしいのか?」
その言葉に、今度は私の方がうっと唸ってしまった。
今、そういう類のことは言われたくなかった。触れてほしくなかったのに。
でもその隙を、夫が容赦なく突いてくる。
「なんだ? そんなに愛してほしかったのか? 抱いてほしかったのか? 初夜に自分から抱かれたいと言うなんて、君はずいぶんと淫乱で浅ましい女だな」
「はあ!?」
その一言で、私の頭の中の何かがぷつんと切れた。いや、ぶちぶちっと切れた。
なにこいつ、信じられない。
なんでそんなこと言われなくちゃなんないわけ……!
「初夜なんだから、覚悟してここにいるに決まってるでしょうよ! それをなに偉そうに、愛さないだのなんだのって好き勝手言っちゃって。百歩譲って愛せないと思ったとしても、もう少し言い方ってものがあるでしょう? 初対面で『愛さない』とか言われて、相手が傷つかないとでもお思いですか? というか、もう少し相手を思いやるとか尊重するとかできないんですかね? 次期宰相が聞いて呆れる」
「君こそなんだ。控えめでも穏やかでもないじゃないか。どういうことなんだ」
「どういうことなんだって、こっちが聞きたいですよ。そっちが持ってきた縁談でしょう? もらってみたら思ってたのと違ったと言われたって、困ります」
「なんだと?」
夫は鬼の形相で私を睨み、私も負けじと睨み返す。
数秒間そのまま沈黙が続き、先に視線を逸らしたのは夫の方だった。
「話にならない」
夫は怒りを露わにしたまま背を向けて、部屋から出て行こうとする。
「君の生活は保障する。衣食住で不自由をさせるつもりはない。次期公爵夫人としての務めに関しては、執事のイアンから聞くように。この家で生活は共にするが、今後君と顔を合わせることはほぼないだろう。失礼する」
次々と自分勝手にまくし立て、しかもだいぶ乱暴にドアを閉めて、夫は出て行った。
はあ。なんだあれ。
博学多才にして美貌の次期宰相、なんて世間ではもてはやされているようだけど。
他人の気持ちを慮ることのできない人が人の上に立ったって、なんの役にも立たないと思う。というか、むしろ害にしかならないのでは?
戦闘力の高いナイトドレスのまま、私はだだっ広いベッドに勢いよくごろんと横になった。
ベッドの上に飾りつけられていたいくつもの薔薇の花びらが、その拍子にふわりと舞う。
思えば最初から、いろいろと不可解さの多い縁談ではあった。
世間では、現宰相の子息でもある公爵家の嫡男がいまだ誰との婚約も決まっていないことについて、いろんな噂が飛び交っていた。
その圧倒的美貌ゆえに行く先々で注目を浴び、夜会ではたくさんの令嬢にあっという間に取り囲まれ、それでも一向に顔色を変えない冷静沈着な公爵令息。
彼の心を射止めるのは果たしてどんな令嬢なのだろうとささやかれる中、突然我がクレヴァリー伯爵家に縁談の話が来たのが二カ月前。
うちは伯爵家ではあるけれど、建国当初から続く由緒ある家柄ではある。両親とも実直で経営の才に長け、そこそこ財力もある。
だから家格的には、まあまあ釣り合う。
でも、何故いきなり? と我が家は騒然となった。いや、なるわよ普通。
何の縁も面識もないのに、巷で話題の、しかもある意味雲の上の存在である公爵家から縁談が来ちゃうなんて。
謎は多かったけれど、承諾の返事をしたのはその半月後。
その後は多忙を理由に顔合わせも見送られ、「できれば婚約ではなくすぐに結婚してほしい」と急に言われた。
両親は面食らったけど、夫となる公爵令息に直接言われてしまったら異を唱えることはできない。家格としては当然うちの方が下だし。
そのまま式の打合せも特になく、今日を迎えた。
公爵令息の結婚式だから、確かに華やかで煌びやかではあった。金かかってんなあと思ったし、さすが公爵家、という声も聞こえた。
でも王太子であるヴァージル殿下やその側近の方々など錚々たる顔ぶれが出席している一方で、フィンドレイ公爵家の方々は誰一人として出席していないようだった。家族なのに。
しかも夫は、式の間中私の方を見向きもしなかった。
というか、あれはわざと見ないようにしていたのだと思う。
途中、神父様の前に立ったときに一瞬目が合ったような気もするけど、定かではない。
そんな数々の不可解さはあれど、あえてすべてをスルーしてここまで多少強引に話を進めてきたのは、実は私自身だった。
本当は、縁談を申し込まれたのは私ではない。多分。いや、確実に。
私をよく知る人は、私が「控えめで慎ましく穏やか」なんて、誰も思わないもの。
「控えめで慎ましく穏やか」なのは、私の双子の妹、アリシアの方だ。社交界で評価が高く、人望も人気もあるのはアリシア。私のことなど、みんなとっくに忘却の彼方だろう。
でも、この結婚にどんな意味がありどんな結末になろうとも、あの家から離れることができるならと切実に願っていたのは私の方だった。