第92話 出生編―エピローグ―
空中庭園にて出迎えたのは、昼の女神アシュトレトを筆頭とした三女神だった。
彼女達はしばし何も語らないままだった。
それは静かな黙祷だったのだろう。
出迎えた女神達の後ろには、かつて暗殺者だった私の部下たちが控えている。
喪服の代わりだろう。
黒い花刺繍のドレスを纏う女神アシュトレトに、私は目線を移し。
「――どうやら、気を使わせてしまったようですね」
『構わぬ、これも伴侶としての務めであろう』
「状況はすべて理解されていると思って宜しいのですね」
『然り。妾たちは此度の件の始まりから終わりまで、全てを眺めておった。大陸神とも話がついているようだともな。それにしても――そうか、そなたが我が夫の兄クリムゾンか』
こちらは兄弟二人だけ。
兄たるクリムゾン殿下は女神を視界に捉えた瞬間に目をそらし、頭を垂れ跪くが――。
三女神達の声が響く。
『なにをしておる――面を上げよ、クリムゾン=フレークシルバー』
「恐れながら、創造神よ。我は拝謁を許される立場も資格も無きエルフ。母の失態を諫めることもできず、弟を処刑場で生まれさせてしまった、悲しき運命を導いてしまった大人の一人。いかに前王朝……既存のエルフの王族が厚顔無恥であったとしても上げられる顔がございません」
まじめな男だ。
それは紛れもない本音だと、私の心ですら覗くことができる女神達ならば一目瞭然だっただろう。
三女神たちが、神の威光を纏ったまま。
それぞれに語りだす。
『これは異なことを言う。そなたは我らが伴侶の認めし、唯一の肉親。ならばこそ、昼の女神たるこのアシュトレトはそなたを庇護しよう』
『赤きエルフの末裔よ。母体を通さず生まれ落ちた、フラスコ受胎の神子クリムゾンよ。拝聴せよ、拝謁せよ。我が名はバアルゼブブ、黄昏の女神たる余の言を聞くがいい。余とて許そう……。その全てを。余の顔とて、自由に拝謁せよ。仰ぎ見よ――汝にはその資格がある』
『故に』
『理解するといいでしょう』
それはまるで呪いの歌のようだった。
『あたくしは明け方の女神ダゴン。どうか、その奇麗な顔を上げてくださいまし。クリムゾン殿下、あなたは特別なのです。幸福の魔王。あたくしの旦那様レイド=アントロワイズ=シュヴァインヘルト=フレークシルバー様の実兄。其れはあなたを守る盾にして、一生の楔』
『其の命』
『もはやそなただけの命ではないということじゃ』
警告するように女神は歌う。
『覚えておきなさい、お刻みなさい。あなたが囚われれば、それは我ら三女神の不興を買うと』
『エルフ王となる我が夫を貶めるため、蛮族がそなたを人質にしようものなら』
『余はその蛮族の全てを、その血肉だけに飽き足らず。その血縁、その縁者。その生まれ、その運命のすべてを血の祝福で汚染するであろう』
ようするに、私の身内となった事での注意点。
もしクリムゾン殿下が人類に利用され、誘拐されたり人質にされたりしたら、それは終焉の始まり。
創造神の独断で、やらかした種族ごと、その全てを滅ぼすかもしれないから気をつけてね、と言っているのだが。
そんなことを聞かされたら当然、常人は萎縮してしまう。
私が言う。
「あまり兄さんを虐めないでくれませんか?」
『虐めてなどおらぬ、じゃが、もし前振りをせずに妾達がやらかしおった種族を、こう、きゅっと絞めてしもうたら、そなたは呆れるであろう?』
「種族を粗末にするなと、呆れる前に怒るでしょうね」
『まあそういうことじゃ。クリムゾンよ、脅して済まぬが――これは心からの警告なのじゃ。本当に、我が夫の兄としてのそなたを利用するため、どこぞの者どもが害をなしたのならば……妾達は容赦なくその者たちを消す。おそらく、大陸神ごとな』
むろん、我が兄の額にも頬にも大粒の汗が浮かんでいる。
だが。
「彼女たちが言っていることは大げさに見えますが、本当の事です。もし兄さんが人間国家に捕まり、尋問程度なら、まあ……大丈夫でしょうが、拷問でも受けそうとなったら。その瞬間にその種族は終わるでしょう。無辜なるモノたちも含めた、連帯責任となると思われます」
「……女神たちは普段からこう、なのか?」
「こう、ですね。なにか一つでも間違いが起これば、世界に大きな影響を与える。それが女神。気の休まる瞬間がありませんよ。もしかしたら本当に兄さんに手を出そうとして、滅びる種族が近いうちにでるかもしれませんね。抑止力にもなりますし、もしそうなったらギルギルス殿にお願いして、また噂を広げて貰いますよ」
ははっと弟としてのジョークを告げたのだが。
どうも女神からの忠告のインパクトが大きいらしく、反応は薄い。
眉間に皴を刻んだクリムゾン殿下は考え。
「俺自身には何の価値もないのだが、こうなってしまうと複雑だな」
「兄さんは自己評価が低いようですが、私はそのまじめな気質は嫌いじゃありませんよ」
「そうか」
「――ええ、そうです。それにこれから国を支えていく上で、あなたの立場はとても重要。私には相談できなくとも、あなたになら相談できるというエルフ達は増えていくでしょうからね」
賢者たる私が魔王。
そしてエルフの王でもあるとは、百年の間に多くの大陸に広がっていくだろう。
大森林の外で暮らすエルフたちが帰還してきた時にも、まずは兄との謁見を望むのではないだろうかと私は踏んでいる。
元より殿下は数少ないまともな王族、誠実で実直な王族。
森を出たエルフでも、クリムゾン殿下の人間性は信用しているだろう。
『さて、埋葬の準備はできておる。続きは進みながらでも良かろうて』
告げた女神アシュトレト。
その腕の中に出現したのは、無限の魔力が浮かぶクリスタル。
バアルゼブブの後ろに出現した漆黒の棺にはおそらく、勇者の遺骸が眠っているのだろう。
その棺の表面には私ですら読み取れない魔術式が無数に刻まれている。それはおそらく封印であり、結界。
墓荒らし対策。
外部から回収されないように無数の呪いが施されているようだ。
もっとも、並以上の存在だとしても空中庭園に入ることすらできないだろうが。
いつもの口調に戻ったバアルゼブブが言う。
『こ、これはね? アシュちゃんと、ぼ、ぼくと、ダ、ダゴンちゃんと。そ、それに、三時と夜が、協力して、施した封印、だ、だから。ほ、他の女神にも、と、解けないんだよ。だ、だからね』
「安心できました。ありがとうございます、バアルゼブブ」
『えへへへ、へへ。ほ、褒められちゃったんだよ』
デヘヘヘヘっと口の端を溶かすバアルゼブブ。
蠅の王としての彼女の威光しか知らなかったクリムゾン殿下は、かなり驚いている様子だった。
得体のしれない霧の中に潜む王者の正体が、このバアルゼブブ……さすがにギャップが凄かったという事か。
おそらく今後の彼女たちは空中庭園を拠点とし、行動。
いつも通りに好き勝手に、それぞれに、私が働くフレークシルバー王国の宮殿にふらりと顔を出すことになる。
ようするに、宮殿や王宮に女神たちが顔パスでやってくることになると思うのだが。
まあ、そのうちに慣れるだろう。
ダゴンはいつもの聖職者の姿。
葬儀用のヴェールの下を吐息で揺らし、静かな祈りを捧げている。
彼女たちなりの私への気遣い、女神なりの埋葬の儀なのだろう。
アシュトレトが静かに告げる。
『おまえたち――、兄弟を埋葬地に案内しておくれ』
言われて前に出てきたのは四足歩行の獣。
少しふくよかになったニャースケである。
モフモフな猫は兄と私に慇懃な礼を寄こして見せ――ニャーと鳴く。
それを合図に、大森林の妖精や精霊がまるで灯篭のような明かりを浮かべ、飛び始める。
彼等も女神に参列者として呼ばれていたのだろう。
まるで蛍の道だった。
静かな参列の先は、白い雪のような花が咲く墓地――新たな霊廟だった。
妖精たちが雪のような花の中に入っていき。
なにやら詠唱を開始する。
それは鎮魂歌。
鎮魂歌で揺れる花の中から現れたのは、夜を纏う死の女神。
顕現した女神はペルセポネ。
死者たる勇者を一瞥し。
彼女は死者の女王としての重厚な声で言う。
『此度の戯曲、見事であった。此れは朕からの餞別である、拒否はできぬと知れ』
打ち合わせは済んでいたのだろう。
言葉と共に――女神アシュトレトが無限の魔力たる白銀女王の瞳を空に浮かべ。
そしてペルセポネは枯れ木を這わせたような半身を伸ばす。
死の女王の半身は生者であり、その半身は死者。
朝と夜を生と死に見立てた逸話の名残なのだろう。
だからその枯れ木纏う腕から延びるのは、死者の王としての力のようだ。
優しい闇が周囲を包む。
勇者の棺の横に、新たな棺が生まれていた。
そこに安置されたのは、白銀髪の眠るような乙女。
白銀女王スノウ=フレークシルバーの遺体だ。
無限の魔力から、母の遺骸の全身を再生させたのだろう。
後は埋葬するだけ。
確かに瞳のままよりも、こちらの方が――きっと、良い。
母の棺にも封印を施すバアルゼブブの横。
眠る白雪を眺める私の唇から声が漏れていた。
「母さん、お母様、母上。さて……一度も会話をしたことのない母を、私は何と呼んだらいいのでしょうね」
記憶の奥にあるのは吊られた母の姿だけ。
だが今の眠り姫は違う。
女王としての威厳も含む姿だった。
同行するクリムゾン殿下が言う。
「俺は叔母上と呼んでいた。だが、俺も今の彼女を何と呼んだらいいか、判断できないな」
「好きに呼んであげてください。私とは違い、あなたには彼女と交流があったのですから」
「ならばやはり、母上――と、俺もおまえもそう呼ぶべきなのだろうな」
呼び方を選べなかった私に代わり、兄は迷うことなく決めていた。
私もそれに倣うことにした。
この兄が言うのならば――。
おそらくそれがきっと、一番ふさわしい言葉選びだったのだろうと、そう思ったのだ。
勇者と女王の遺骸。
この伝説のアイテムが悪用されることは、もう二度とないだろう。
安らかに眠る母の顔を見て、兄は小さく母上と――言った。
声に出した瞬間に、それは男の感情を一瞬で揺らしたのだろう。
おそらく男自身もそこまで感情を揺すぶられるとは思っていなかったようで、僅かな困惑が浮かんでいたようだ。
男は――涙を流していたのだ。
奇麗な涙だった。
清らかな聖人の涙だった。
冷淡な貴公子が流す涙は、多くの妖精の目を引いていた。
おそらくアイテムとしても価値のある、エルフの心からの涙だ。
それはキラキラと輝いて――白雪の花を揺らしていた。
だから妖精たちも、女王の死を悼むように鎮魂歌を歌い続ける。
涙の数が多ければ多いほど、死者は愛され、報われている証。
そんな話を思い出し。
私は僅かに瞳を閉じた。
――けれど。
どれほどに真似ようとしても。
私の瞳からは涙は流れなかった。
魔王だからこそ、私は涙という状態異常をキャンセルしてしまうのだろう。
それでもきっと、胸を締め付けるこの痛みは――。
……。
エルフの王国フレークシルバー。
出生編 ―完―
幕間を挟んでから新章開始予定となっております。




