第88話 霊廟にて
樹々の香りと土の香り。
濃い魔力の流れに包まれた霊廟。
足元に稔るキノコは、聖域でしか生えぬとされるレア素材。
死んだまま眠るのは氷漬けの勇者。
そして、そんな勇者に恋をする女王の瞳から溢れ続ける魔力が、大森林を聖なる場所へと変質させているのだろう。
ここはそんな聖域の終着点。
大災厄の元となった勇者の遺骸。
その容姿端麗な姿はまるで童話や神話に在るような――清廉な勇者。
大災厄とは違い、本物の父の遺骸であるが……そこに大災厄にあった憎悪はない。殺されたその瞬間は、これで女王が救われると信じ切っていたからだろう。
大災厄が生まれるのはこの後の話。
今、この氷の中で眠る美丈夫は何も知らずに、女王を愛し続けたまま死んだ勇者の遺骸なのだ。
女王の死も、大災厄を産んだ事も、その大災厄の核として自分の憎悪が召喚されていることも知らぬ――身も心も奇麗なままの遺体ともいえる。
氷棺に反射し、銀髪赤目の見目麗しい青年の姿が映っている。
私だ。
だが、その瞳はただ魔道具を眺めるような、冷たい表情をしている。
実際、私の赤い瞳に流れる魔術式は鑑定魔術。
父の遺骸であっても、それがどのような状態のアイテムなのかと探っていたのだ。
実父の筈だ。
だが、やはり大きな感慨はない。
私は口を開いていた。
「これほどの聖人が大災厄の元となっていたのですから、人とは感情や心に支配される生き物。エルフもそうですが、人類とは、一皮剥ければ容易く悪へと成り果ててしまう危うい存在なのかもしれませんね」
相手は現国王の息子だったクリムゾン殿下である。
王家の結界を解除しながら殿下が応じる。
「ただでさえ勇者とは世界に絶望していた存在。そんな中で約束を破られ、愛する者を奪われたのだ――世界を呪う災厄となったとしても俺は不思議には思わん」
結界の魔力光と、結界が解除されたことにより発生した流風で、バサリと赤い髪を揺らめかせる第一王子。
パリス=シュヴァインヘルトと友である赤髪の貴公子。
女神アシュトレトが死なさぬようにと助言を下した相手なのだが――。
王族のカリスマはある。
並外れた魔力もある、魔王や勇者といった例外を除けば上位の実力もある。
なにより腐っていたエルフの王族にしては誠実だ。
もし冒険者ギルドに登録されるならば、指揮も魔術も剣技も可能な、最上位の冒険者として歓迎されるだろう。
これから先の時代は勇者を簡単には利用できなくなる。
強大な魔物を相手に人類は勇者を犠牲にしながら戦うという作戦を立てられない。
仮に私のやり方と合わずに国を出奔することになっても、拾い手は山ほどにいるだろう。
だが――。
私は王族の結界を解除している殿下を見上げていた。
「どうした? 俺の顔に何かついているか?」
「いえ――」
女神がわざわざ私に、殺さぬようにとアドバイスをするほどかと言われれば、否。
本人には大変申し訳ないが、あくまでも現実的な強さとカリスマなのだ。
世界に影響を与えるほどの逸材ではない。
おそらく本人もそれは自覚している。
この貴公子は自分の実力の限界と、自分自身でやれることを極めて高いレベルで見極め、把握している。
良い意味で自分の実力を弁えているのだ。
けれど、大陸神も彼を見守っていた。
私は言う。
「殿下はどこまで知っているのですか?」
「どこまでとは?」
何を言っているのか理解できないといった様子の顔だった。
知らない、とみるべきか。
「遺骸を回収するまでに――あといくつの結界があるか、聞きたかったのです。既にだいぶ時間がかかっておりますからね。あまり遅いとプアンテ姫が心配します。さあ、どうぞ――次の静謐の封印をお解きください。……どうしたのです? 分からんといった様子の顔ですが」
「レイドよ、おまえが結界を解いた方が早いのではあるまいか」
ああ、なるほどと私は苦笑い。
「――既に私は理の外の存在と成り果てておりますからね。力加減というのは存外に難しいのですよ」
これは女神や大陸神にもありがちな、力ある者の共通した弱点だろう。
それは単純な力の問題だ。
相手がどれくらいで壊れてしまうか。
どれほどの力加減で触れていいか、分からない――。
氷漬けの勇者の遺骸を守る結界を解除しようとして、大森林そのものを焦土にしてしまう。
そんな失敗はさすがに笑い話にならない。
それをどう説明するべきか悩む私に。
「なるほどな、概ねは理解した。つまりは燃える魔力の刀身にて、野に咲く美しき氷の花を傷つけず拾い上げるには苦労する、そういう類の話であろう?」
「おや、殿下のたとえは詩人ですね」
「エルフの王族ならば品のある言葉を選択するべきだろうからな」
今のたとえに品があったかどうかは、正直分からないが。
殿下が私に目線を寄こし。
「レイドよ、これからどうするつもりなのだ」
「これからとは」
「フレークシルバー王国のことだ。おまえが王となることを反対する者はいない、大災厄を生み出してしまったエルフという種は自分の身を守るためにも、おまえという強大な王を必要としている。誰もがおまえを王と崇め、謙るだろう」
「たとえ私が魔王だとしてもですか?」
クリムゾン殿下は策略家然とした微笑を浮かべ。
「魔王とは創造神の遣い。むしろ其れは喜ばしいことであろう」
「実際はそうでもないのですがね――」
「珍しく露骨に顔をゆがめているな……女神とはそれほどに厄介な存在なのか?」
「まず前提として、彼女たちはこの世界の味方でもなければ、この世界に生きる人類の味方でもないという事です。中には魔物の側に味方をしている女神とて存在するでしょう」
女神とは神話の時代から自由な存在。
その行動は少しネコに似ているかもしれない。
何をしても許されると本気で思っている存在が多いのだ。
「――エルフの多くは既に私が魔王だと知っている、冒険者ギルドを通じて世界の多くもそれを知ったでしょう。大森林に暮らすエルフの里……フレークシルバー王国の新たな王は魔王だと。そして既に、迂闊に手を出すなと語られ始めているのではないでしょうか? もはや賽は投げられました。この国の全員に、魔王と知りつつ私を王に推薦した――つまりは共犯になって貰うしかないでしょうね」
「――魔王であることと同時に……冒険者ギルドを通じ、今回の件の全容は世界に広がるだろうからな。大災厄となった勇者と女王が起こした被害は甚大と聞く。全ての原因はエルフが驕り昂ったことにある。エルフ種は人類として道を外れ、蔑まされることをしていたのだ――魔王という傘の下になければこれからしばらくは動けまい。自らが助かるためという意味でも、俺を含め、皆がおまえこそが王であるべきだと――レイド=アントロワイズ王朝を望み続けるだろう」
貴公子はこう言っているが――。
いつまでも王でいるつもりはない。
「一応確認しますが、兄上。あなたが王となる気は?」
「欲に溺れ一族をほぼ全滅させた父の子だ……俺は器ではあるまいよ」
「お父上がいつ殺されていたかは――」
「さあな、確証はないがやはり名を捨てたその時に大災厄に乗っ取られたのではないかと、文官たちは報告書を上げている」
実の父の話だ。
さすがにクリムゾン殿下の顔色は複雑そうだった。
実の父の遺骸ですらアイテムとしか見ていない私とは違う。
王となるならば、その心はきっとこのクリムゾン殿下の方が向いている。
私は優しさや憐憫を持って人を導くのではなく、都合よく扇動し、民の心を永遠に欺く王となるだろう。
一生騙し続けるのならば、それはそれで幸せな民になるのかもしれないが――。
ともあれ、クリムゾン殿下の父をフォローするように私が言う。
「あくまでも国を経営する上での話ですが、名を捨てる前のあなたの父上がなさっていた政策が間違っていたとは思いませんよ。確かに、勇者を殺し、母を追放したその手段は下劣ですが……恋に狂ってしまった女王のために動いたと言えなくもありません。実際、私もこの国の公文書や書物、そして機密文書をすべて拝見しましたがあなたの父上が、女王の恋により失いつつあった結界……その損失を補填するため苦心されている跡が確認できましたから」
大森林の結界がなくてはエルフは生きていけない。
人間との共存が必要不可欠になると古くから動いていた部族、青き森に住むシュヴァインヘルト領のエルフのようには、そうはなれない。
クリムゾン殿下の唇が動く。
「どちらにしても……実の妹に嫉妬をし、道を誤った男だ」
「それでも結界の崩壊を防ごうとしたエルフではありました。シュヴァインヘルトが結界がなくなっても問題なく暮らしていける世界を理想としていたように、道は違えど――無辜なる民草が生き残るための道を選び続けた。その結果として、多くの汚名を引き受けながらも女王から無限の魔力を確保した。そういう見方もできますよ?」
実際はどうだったのだろうか。
結果的には国のために動くことになっていたが――。
実際には、本当にただの嫉妬だった可能性が高いと思っている。
女王から奪った瞳、無限の魔力が無限の魔力としての力を取り戻したのは偶然。
抜き取った瞳に、愛する勇者の遺骸を見せつける。
そんな趣味の悪い非道な八つ当たりの結果が、無限の魔力を再生させたのだから。
しかし、私の口はクリムゾン殿下のための嘘を紡いでいた。
そんな私の唇を見て、まるで懐かしむように殿下が眉を下げる。
「レイドよ――腹芸を得意と思っているのなら、おまえは少し癖を直すべきだな」
「何の話でしょうか」
「おまえは嘘が巧みだ。だが――相手を気遣った嘘をつく直前、普段よりも僅かに強く息を吸い、ウソがばれぬようにと完璧な、嘘のない表情と言葉を作る癖がある。その完璧な嘘をつくる様子こそが、嘘をついている証拠だ。優しかった叔母上フレークシルバー女王がよく俺にしていた、彼女と同じ癖だ――」
……。
直接的にかかわっていなくとも、癖が似てしまう。
それが血の繋がりなのだろうか。
ならば、私の先ほどのフォローが嘘だとは気づかれているか。
クリムゾン殿下が言う。
「叔母上は昔から、とても優しかった。当時まだ子供だった生意気な俺と、宮殿に遊びに来ていた友たるパリス=シュヴァインヘルトに良くしてくれていてな。おそらくパリス、あの男はその時から既に女王に惹かれていたのであろうな。もっとも、あいつは乳母みたいな真似事をしていた女王を、女王とは思ってはいなかっただろうがな」
女王がそんなことをする筈がない。
だからあの、今や無精髭のエルフはその時に出会っていた女性を女王だとは気づいていない。
なくもない話である。
「子供の頃からの初恋、ですか。女神たちが好みそうな話ではありますね」
「あいにくと俺は叔母上にそのような感情は抱かなかったがな。それでも本当に、良くしてもらっていた……俺は母を亡くしていてな。叔母上が母代わりとなってくれていた時もあったのだ。多忙であるにもかかわらず女王は我らの世話を甲斐甲斐しくしてくれたが、全く、多忙な女王に頼むとは――父は何を考えていたのだか……」
私の脳裏にも、まだ若いクリムゾン殿下とパリス=シュヴァインヘルトの姿が見えている。
そして、そんな二人に優しく接する母の姿も。
それは幻影だった。
その幻影を発していたのは――勇者を見守る女王の瞳だ。
女王の瞳が勇者ではなく、僅かに目線を変えてクリムゾン殿下を眺めていたのである。
【無限の魔力】から伝わってくるのは女王の心。
瞳に焼き付いた過去を、私に知らせているのだろう。
いや、私が勝手に読み取っているのかもしれない。
ならば、と。
私は意識を集中させ、女王の瞳が見た過去を探っていた。
◇◆ <●> ◇◆
女王の瞳が見せる過去の世界では、フラスコの中で育つ赤髪の赤子の姿が映っている。
それは魔道研究の一環。
もし女王が急死してしまっても、結界を維持できるようにするための計画の一つ。
フラスコの中で浮かぶ赤子を眺めていたのは、二人の男女。
一人は女王スノウ=フレークシルバー。
そしてもう一人は、燃えるような赤髪の王族。
おそらくは現国王だった者……つまり、クリムゾン殿下の父親。
これは王宮の研究資料にもあった【フラスコの中の小人妖精】。
ホムンクルスの技術を応用した、体外受精の研究だろう。
当時まだ安定していたフレークシルバー王国で、国を維持するための手段の一つとして――未婚の女王の後継者を人工的に作り出す研究を行っていたのだ。
方法は簡単だ。
倫理観の問題で避けられているが、現代技術でも可能とされている母体を伴わない生命の誕生。
人工的に作り出した羊水の代わりに、魔力の海を作り。
そこに被験者の男女の生体情報、精子と卵子を魔術式によって正しき配置し――受精させる。
理論としては可能だ。
実際にやるかどうかは別としてだが。
だが、エルフはそれを、実際にやっていたのだろう。
多くの失敗。
多くの犠牲の中で研究は廃止された。
しかし、たった一つだけ実った命があった。
そうして生まれたのが、このフラスコの中の妖精。
通常妊娠と全く違いのない、深い赤髪のエルフ。
フラスコに刻まれた認識名は深紅――つまり。
クリムゾン。
兄である男と、妹である女王。
この国の第一王子は、この時誕生した。
そもそも現国王とされていたあの王に、婚姻の記録は一つもなかった。
エルフならばよくある話だと、その長寿ゆえの寛容さのせいで誰も気にも留めていなかったのだろう。
このフラスコの中で浮かぶ赤子こそが、クリムゾン殿下。
母にはスノウ=フレークシルバーの細胞と魔力、父にはクリムゾン殿下の父親の細胞と魔力。二人の男女の情報が使われた人工的な後継者。
つまり、血縁上のクリムゾン殿下は私の兄にあたる存在だったのだ。
女王の瞳が映す、過去の中。
赤髪の王族は息子の誕生に喜び、女王の肩に手を伸ばすが。
女王はさして興味がないようで、立ち去ってしまう。
カツンカツンと、研究者も去った研究所内。
冷たいヒールの音が響いている。
後継者とするには魔力が未熟。
髪も男に似た赤、白銀ではない。
だから無駄な存在だと、女王として感じたのだろう。
赤髪の王族は、それでもフラスコの中の子供を愛しそうに眺めている。
エルフは近親であっても恋慕を抱く存在だとされている。
長寿ゆえに長くを共にし、長寿ゆえに交配を繰り替えさない――近親での子供を作るリスクが少ないからだろう。
だからきっと。
赤髪の男が見せるこの感情は、愛。
白銀女王スノウ=フレークシルバーの兄は、強大な魔力を誇る妹に劣等感を感じながらも、同時に……恋をしていたのだろう。
おそらく。
本気で――愛憎を抱いていたのだろう。
おそらく、そんな兄の感情を知らぬ無垢なる女王の瞳。
その無限の魔力に漂う残滓が、輝く。
私の中に、更なる過去の情報が流れ込んできていたのだ。