第85話 創造神の戯れ
女神たちの降臨は、圧倒的な魔力の中で発生していた。
エルフも勇者も大災厄も、そして魔王も皆が跪いてそれを仰ぎ見る。
ただし女神の顔を許可なく目視するなど禁忌。
すぐに強制的に頭を下げられていた。
やったのは私。
レイド=アントロワイズ=シュヴァインヘルトである。
これは打ち合わせにもない行動。
ようするに、彼女たちの気まぐれ。女神の機嫌を損ねられても困るのだ。
ここが特殊空間に作り替えられていなければ、魔王である私とプアンテ姫を除き、既に全員が死んでいただろう。
それぞれに正体を隠す女神たちは、それぞれに玉座に座り。
微笑。
ビスクドールのような可憐な幼女、午後三時の女神が更に無邪気に微笑み。
足をぷらぷらさせながら――。
『先に言っておいてあげるのだわ! ここにいるあたしを除く女神たちはすんごい怖いんですから! なにか失礼を働いたら、即座に消しちゃうのよ? だからお願いなのよ? 良い子にしていてね?』
お菓子の山を、昼の陽ざしの下で瞳を細め――眺め。
後光で周囲を輝かせた女神が言う。
『そなたが其れを言うか。ふふ、我が夫から新たな呼び名を授けられてから、随分と上機嫌じゃのう』
『アシュ……こほん! あ、あなたたちと違ってあたしは子供なんですから。上機嫌ぐらいが丁度いいのだわ! それよりも、早く続きをしなさいよ! 勝手に用意したボードゲームで、勝手に勝敗を決めて、勝手にあなたが取り仕切るって、勝手に決めたのはあなたでしょう!』
『そう急かすでない――たかだか人類が定めた脅威と、エルフ如きのじゃれあい。そして自然に湧きよる勇者の戯れじゃ。妾達が焦る必要がどこにある?』
神の会話は和やかだった。
けれど、聞いているこちらとしてはそれは重過ぎる魔力の波。
私が邪杖ビィルゼブブで精神汚染を防ぐ結界を緊急展開していなかったら、やはりこれでも皆、魔王以外は死んでいただろう。
ともあれ。
降臨したのは、創造神。
三女神と、午後三時の女神。
そして――つい先日、私に介入してきた夜の女神。
その中でも代表で動いたのは、眩き昼の輝きで顔を隠す女神。
まあ、アシュトレトなのだが……。
外面用の女神の微笑で、彼女は神たる威厳を存分に孕んだ声を落としていた。
『――さて、しかしいつまでも頭を下げさせていても仕方ない。幸福を享受せよ、そして我らの降臨を存分に寿ぐ権利を与えよう。これは名誉じゃ、幸福を享受せよ。妾は昼の女神――汝らの世界を作り、汝らを生み出し、そして愛でる者。そなたらが神と呼ぶ存在において、それなりには強き存在じゃ』
誰しもが畏怖に震える中。
風の勇者ギルギルスが思わず声を滑らせていた。
「な……なんだ、この……尋常ではない、プレッシャーは……っ」
誰かがやらかさない内にと、一歩、私は前に出て。
「絶対に逆らってはなりません、ギルギルス殿。他の方々もです」
「彼らを知っているのか……!?」
「ええ――彼女たちは女神。この世界の創造主……大陸神よりも上位の神性。創造神とされる存在です。なので下手をしたら、本当の意味で全てがこの場で終わりますよ」
私の答えに――創造神!?
と、思わず皆が心の中で驚嘆を漏らしたようだが――。
その驚きが口から伝うことはなかった。
皆、動けないのだろう。
もっとも、この中でも動けるだけの強さと、発言できるだけの胆力を持つ者もいたらしく。
ガシガシと後ろ頭を掻いた斧の勇者ガノッサが、女神ダゴンを睨み。
ビシっと指差し、空気を考えずに叫んでいた。
「あれは、オレを不老不死に変えやがった――っ」
ガルルルルっと女神にさえ吠える彼は、おそらく私とよく行動していたので、ある意味で神に対する耐性があるのだろう。
女神ダゴンの肉を食らったことで不老不死となったので、神としての属性にもある程度は抗えるようだ。
しかしダゴンは知らん顔のまま。
明け方の陽ざしで顔を隠し、おっとりを維持している。
ダゴンは私と思考と思想がよく似ている。
おそらく、今のガノッサの事は嫌いではないのだろう。
その不遜も許すように皆に目配せをしていた。
午後三時の女神の視線を受けたプアンテ姫が言う。
「――あ、あの……勇者ガノッサ様……? 私語は控えるようにしたほうがよろしいかと。真面目な話……選択を間違えると敵も味方も関係なく、世界ごと終わりますわ」
「ちっ……分かってるよ」
「ありがとう存じますわ」
プアンテ姫はエルフにとっては正真正銘の子供。
勇者という存在は基本的に、子供には弱いのだろう。
黄昏の霧の中で揺蕩うバアルゼブブが言う。
『余は汝ら人間、汝らエルフを愛してはおらぬ。なれど、機会は与えるべきだと余は考えた。平伏せよ、静寂せよ、分を弁えよ。これからの汝らの行動は全てが女神の裁定の中にある。油の中で溺れる羽虫となりたくはなかろうて?』
それはさながら、威厳ある皇帝の声だった。
皆からは見えないが、私には黄昏の奥が見えているので。
な、ながいセリフを、言い切ったんだよ? と、ドヤ顔をしているバアルゼブブも見えている。
正直、ネコをかぶりすぎていてバアルゼブブの素を知っている私は、勇者ガノッサのようなジト目になりそうなのだが……。
ともあれ、だ。
女神ダゴンは神託を下す口調で語り始める。
『此度の騒動。あたくし達は初めから眺めておりましたわ。海の調べと共に、風の流れと共に。樹々のせせらぎの中、見守っておりましたの。けれど、残念です。エルフよ、あなたがたは実に醜い。正直に申し上げますと、不快と言って差し支えないでしょう。腐った果実は他の果実まで腐らせる。なので、全てを原初の海へと洗い流し、エルフを一から作り直すことにしようと思っております』
穏やかな声だが、それは終わりの宣告だった。
創造神による種のリセット宣言。
つまりは絶滅を意味する言葉。
ぞっとするほどの魔力が、それができるだけの説得力を持っていた。
けれど、と明け方の女神は口元だけで微笑んで。
『ですが――レイド=アントロワイズ=シュヴァインヘルト。美しき者よ――白銀女王の息子にして、勇者の血を継ぐ者よ。あたくしはあなたを気に入りました。そしてその身にはエルフの血が流れている。だから、まだ猶予を与えようと思うのです』
これはさりげないサポート。
創造神が、私を女王の息子だと断言している。
それはどんな証言、資料よりも強固な証拠となる。
『さて、大災厄と呼ばれておりましたか。白銀女王が胎内で召喚した、憎悪の塊よ。斬首され、氷漬けにされた勇者を核とし蠢く魔性よ。あなたの疑問に答えましょう』
『疑問……』
『ええ、あなたは勇者と女王から切り離された憎悪と形容して良い存在。つまりは、あなたは本体から切り落とされた分霊のようなもの、けれど……分霊とてその心は本物でしょう。人の心とは実に美しい輝きを持っておりますね――あなたにもキラキラと輝く、宝石のようなココロがあたくしには見えているのです』
女神としての美しさと海の如き包容力を感じさせる声を響かせ。
女神ダゴンは両手を掲げ、賛美するように朗々と告げたのだ。
『――それは愛。今、あたくしが最も興味のある感情。勇者よ、女王よ、たとえ世間が許さなくとも、たとえ当時の国が許さなかったとしても、あなたがたの愛をあたくしは認めましょう。だからこそ、あなたに神託を下します』
女神ダゴンが私に目線を向け。
『レイド=アントロワイズ=シュヴァインヘルト。彼は間違いなくあなたがたの子供です。だって、生まれてくる彼を女王の亡骸から取り上げたのは、あたくしたち。明け方の陽ざしの下で、世界を嘲りし明け方の女神』
『昼の陽ざしと共に、命の育みを眺めし昼の女神たる――妾』
『――そして、陽ざしの終わる黄昏の中で汝らの終焉を看取る余、黄昏の女神』
三女神は玉座から立ち上がり。
『レイド=アントロワイズ=シュヴァインヘルト。美しくも麗しい我らの駒よ。幸福の魔王よ。我らはそなたが生まれたその時から、ずっとそなたを眺めている。これからも、この先も。故に、大災厄よこれこそが神託じゃ。創造神たる我らが認めようぞ、断定しようぞ、祝福しようぞ。この者はお前の息子。そなたらの愛の証にして結晶』
大災厄が、父としての顔で私を眺めていた。
だが――。
女神たちのプレッシャーの中で平然と動き、一人私は立ち上がっていた。
「女神よ、私があなたがたの駒であることは伏せておくのではなかったのですか?」
昼の女神アシュトレトが昼の陽ざしで顔を隠したまま。
ふふっと女神スマイル。
『仕方あるまいて。実際、そなたを死した白銀の胎から取り上げたのは妾たちじゃ。妾たち、三女神の証言こそが何よりの証拠であり女神の慈悲。違うか?』
「あなたはいつも強引ですね、昼の女神」
『そこが妾の魅力じゃろう』
「短所でもありますがね」
『相変わらず辛辣じゃが、そなたであれば許そう。その全てを愛そう、その全てを許容しよう。レイドよ、我が夫よ。そなたにはそれだけの価値がある』
周囲は驚愕しながらも私に目をやっている。
私が魔王だと知る者でも、まさか三柱の女神……創造神の駒だとは考えてもいなかったのだろう。
勇者たちの何人かが震える声を絞り出す。
「幸福の、魔王……だと」
「ええ、それが何か?」
まあ勇者にとって魔王とは討伐すべき存在。
風の勇者ギルギルスは不問にしていたが、勇者全員がそうとは限らない。
「ならば、嘘だというのか!?」
「何の話です?」
「勇者の、我らの戒めを解き放つ手段を知らせてくれるといった、あの報酬の内容は――!」
まあ疑問に思うのは無理もない。
冷静に説明しようとした、その矢先。
ポンと、小さな音がした。
プアンテ姫が、え……? と、呆然とそれを眺めていた。
彼女が被害に遭ったのではない。
犠牲者は――吠えていた勇者の体。
その上半身が消し飛んでいたのだ。
やったのは私ではない。
それは夜空のようなヴェールを纏う、夜の女神。
彼女が指をすっと伸ばしただけで、文字通り消し飛んでいたのだ。
戦慄の空気とはまさにこれ。
勇者の死に、他の勇者が勇気を振り絞り立ち上がろうとするが。
「動くんじゃねえ――っ!」
それを本能的に止めていたのは勇者ガノッサ。
彼は女神を知っている。
だから――ここで動けば勇者全員があっけなく殺されると勘で悟ったのだろう。
人類は察した。
女神の不興を買ったと。
夜の女神が言う。
『朕は静寂を好みし夜の女神。午後三時の女神が警告しておったであろう? 創造神の御前にて発言が許されておるのは、それだけの価値がある者だけ。せいぜいこの場では……ふふ、止めておくか。斯様な児戯しかできぬ子供を虐めるのは悪趣味であろうからな』
女神とは創造神。
全ての頂点。
だからといって一瞬で勇者を殺すとは思っていなかったのだろう。
人々はしばらく、何も動きをとることができていなかった。
人の命すらも容易く、摘む。
それが可能で許される存在が、女神であり創造神。
空気が一瞬で引き締まる中。
回転させた魔法陣の光を受けながら、私が言う。
「私の目の前で殺さないでください。不快ですよ」
『死とは救済。永遠の夜への誘い。それは朕の世界に招かれるという事、悪いことではあるまいて――』
「女神よ、それはあなたの価値観でしょう。我らに押し付けていいものかどうか、再考していただきたいですね」
空気は殺伐としている。
既に私の手には邪杖ビィルゼブブ。
そして周囲には複雑怪奇な魔術式を魔法陣として描く、無数の魔導書が浮いている。
『朕を前にして微塵も怯まぬその不遜。見事なり。さすが三女神の弟子にして、伴侶。しかし三女神の駒よ、レイド=アントロワイズ=シュヴァインヘルトよ。そなた、誰の許可を得て蘇生魔術を唱えておる』
それは死から短期間のみの時間経過ならば可能――発動できる蘇生魔術。
死を司る夜の女神にとっては膨大な魔術式を読み解くこととて、容易。
「私は私の自由に動くだけ、ただそれだけですよ」
告げながらも、私は邪杖ビィルゼブブの石突で魔法陣を起動。
それは蘇生魔術の実験だった。
蘇生魔術の実験と訓練は実に厄介で、実際に死者がいないと発動できない。
死刑囚などがいれば倫理観もクリアできるだろうが、そうでないのなら被験者を見つけることは存外に面倒なのである。
兵士や衛兵。
騎士団や冒険者ギルドの皆が見守る中。
私の魔術は式に導かれ、世界の法則を一時的に捻じ曲げ――現実へと上書きしていく。
「緊急蘇生魔術:【齧る者亡き黄泉つ竈食】」
幾重にも連なる十重が回転する中央には、上半身が消し飛んだ勇者の亡骸。
光が満ちる。
……。
ヨモツヘグイ。それは――。
死者が黄泉の国で食事をすると、もう二度と帰れないという伝承。
これはその伝承を逆手に取った蘇生魔術なのだ。
死者が死の国で食事をする前なら蘇生も可能。
そんな屁理屈のような逆説を構築。
=死んだ直後ならば蘇生も可能だと、あえて曲解、拡大解釈をした上で、その状況を魔術式で物理現象に置き換え、無理やりに現実へと上書き。
結果として対象を蘇生するという、裏技のような蘇生魔術なのだが。
蘇生魔術は成功していた。
夜の女神が感嘆とした息に声を乗せる。
『ほぅ、よもや本当に蘇生魔術が使えるとはな――天晴なり』
「どうか無礼をお許しください、夜の女神。しかし私は、弱い者虐めがあまり好きではないのだと、どうかご理解いただきたい」
『――朕も軽々であった。互いにこれで手打ちとしようぞ、良いな?』
こちらからは見えないが――。
夜の女神は本当に満足そうな顔をしているようだ。
女神による死すらも跳ねのけた私の技量を楽しんでいるのだろう。
どこかで彼女の駒の吟遊詩人もこの景色を見ているようで、歯軋りに似た音が遠くから聞こえているが。
ともあれだ。
上半身を再生していく勇者が、そのままとん……と腰を落とし。
ぞっとした様子で私を見上げていた。
顔面は蒼白。
水たまりができそうなほどの脂汗が、勇者の全身を伝っている。
いまさらになって、恐怖を覚えたようだ。
勇者ならばある程度の強者。だからこそ――私との実力差を実感しているのだろう。
そして、蘇生魔術という膨大な魔術式の中で浮かび上がってきたからこそ、畏怖しているのだろう。
その唇から、声が漏れる。
「きみは……いったい……」
「彼女たちが言っていた通り――。勇者と愛し合った白銀女王の胎から女神によって取り上げられたハーフエルフ。当代の幸福の魔王にあたる女神の駒。レイド=アントロワイズ=シュヴァインヘルト。エルフの王となり、この歪んだ世界を作り替えることを望む、ただの魔術師ですよ」
銀髪の下で赤い瞳を煌々と輝かせる落胤。
幸福の魔王たる私。
あの日、追放された女王が産み落とした私こそが女神の駒である。
もはや、その事実を疑う者はいなかっただろう。
女神の前で平然と動き。
条件が複雑で使用者などほぼいない”蘇生魔術”を、集団儀式ではなく単独で行使してみせたのだから。
だからこそ。
大災厄は複雑な顔色で私を眺めているのだ。
いる筈のない、愛の証がそこにいるのだから。