第60話 異教神の過去
朝の陽射しが、用意された朝食を運ぶ私の顔を照らしていた。
昨夜の招きたくなかった来客。私の母の関係者、パリス=シュヴァインヘルトの話は保留と言い切り、話を打ち切り。
そして今は明け方の女神ダゴンの時間。
朝食をとる私の前。
静かに読書を楽しむダゴンが言う。
『旦那様、どうするおつもりなのですか?』
「どうするとは」
『ふふ、分かっているくせに話をお逸らしになる。ということは、まだお決めになられていらっしゃらないのですね』
「分かっているのなら聞かないで下さい」
『あら旦那様。答えが分かっていても敢えてお聞きしたい、それが愛しい殿方と妻のやり取りではないのでしょうか』
ダゴンは新婚ごっこの良妻がしたいようで。
読んでいた本から目を離し、口を潤していた私のカップに紅茶を足し。
にっこり。
『あたくしは旦那様に従いますが、今日のご予定はお聞きしたいのです』
「ですから、賢いあなたなら既に知って――」
『旦那様のお口から、お聞きしたいのです』
三女神の中では一番思慮深いが、こういうところは本当に女神だと実感する。
「とりあえず冒険者ギルドとは異なる組織、あの豪商貴婦人ヴィルヘルムが在籍しているといっていた商業ギルドに顔を出すつもりですよ。もうアポイントは取ってあります――母の関係者を名乗った彼の話だけを信用するのも、どうかと思いますからね。彼への答えは、豪商貴婦人から白銀女王と大災厄のことを聞いてから考えますが――ダゴン、あなたは大災厄、或いは大厄災と呼ばれる存在については」
『存じませんわ。ただ人類にとっては脅威でも、あたくし達や旦那様にとっては観測できないほどの些事に過ぎないとは思っておりますわ』
ダゴンが敢えて話を振ってきたという事には意味がある。
これは神託とは別カウント。
おそらく質問をしていいという事だろう。
「あの無精ひげの男の件もそうですが……私の母に関連した動きは、アシュトレトの仕業ですか?」
『仕業と言ってしまうと語弊があるかもしれませんが、ふふ、よくお分かりですわね。ただあたくし達の名誉のために言っておきますが、生まれ変わる先に白銀女王の死ぬ筈だった子供を選んだのは――本当に偶然。けれど、あの無精髭のエルフ。パリス=シュヴァインヘルトと旦那様を出逢わせたことはまず間違いなく、アシュトレトちゃんの導きでしょうね』
「いったい何のために。いえ、なんとなく理由は分かっているのですが」
アシュトレトの能天気な性格を考えると、浮かんでくる。
男ならば妾に国ぐらい運んで来い!
とあの無駄に前向きなドヤ顔女神の声が、聞こえてもいないのに脳内再生されている。
「母がエルフの王族だったのなら、私は王子や皇子といった存在。ならば国ぐらい私が所有してもいいだろうという彼女なりの、善意、なのでしょうね」
『おそらくはご推察の通りかと、アシュトレトちゃんは旦那様に王様になって欲しいのでしょうね』
「王など罰ゲームでしょうに」
いつもの気まぐれに呆れる私の前。
ダゴンは頬に手を当て、考えて。
『ただ……』
「どうしたのです?」
『いえ――もしかしたら、アシュトレトちゃん自身が妃ごっこがしたいのかもしれませんね』
ダゴンは在りし日の栄光を眺めるような顔で。
窓の外。遠いまなざしで、朝焼けの様子に目をやり。
太陽を掴むように細い腕を伸ばす――。
『いつかのあの日のように――綺麗なドレスで着飾って、自分を飾るための宝石を胸に乗せて、自分を敬う者達を傅かせる。そんな日々を思い出して、懐かしくなって……あの日と同じ遊びをしてみたい。彼女はそう思ったのかもしれません』
「いつかのあの日、ですか。あなた方はやはり……人間によって貶められた神、なのですね」
朝焼けを背に受けるダゴンの表情はいつものままだ。
けれど、微笑むその顔は逆光のせいで真黒。
私の言葉には答えず、じゅるりと聖職者の服の中で生暖かい触手のような器官を蠢かし、ダゴンが言う。
『あの子は気まぐれですから、単純にコスメやグルメや新しいものが大好きなだけかもしれませんが。エルフはスラリとした美形が多いですし、アシュトレトちゃんの体型にも合う服は多そうですし。エルフの王族の衣装を見たいというのも本音だと思うのです』
「まあ実際、それが一番を占めているような気がしますよ」
しかし、アシュトレトにとってはいつもの気まぐれだったとしても、事は王権問題。
この世界のどこかに私の母の故郷があり、その国から追放された王家の血だというのは間違いないだろう。
私がシュヴァインヘルトに従い戻れば、必ず混乱は起きる。
もし例の大災厄を私が解決したとしたら、まず間違いなく私を王へと言い出す民は出るだろう。
エルフがどれほど王権争いに執着しているのかは知らないが、私はそういう面倒な事は本当に嫌いだった。
私のあずかり知らぬ所で、姉ポーラや義父ヨーゼフや義母ジーナのように暴虐に巻き込まれ命を失う者もでることだろう。
私は歴史書を開き、鑑定。
この国、この大陸の情報を表示する。
沿岸国家クリスランドのあるこの名もなき大陸は、マルキシコス大陸より広大。
緑豊かな大地と肥沃な大地を持っていた。
名前がないのは、住まう種族が多すぎるせい。
彼らがそれぞれに自分の種族の呼び方で大陸を呼ぶので、固定された名前がないのだ。
歴史書によれば、この大陸は他の大陸よりも魔力濃度が濃い。
そのことが人間文化の発展よりも、亜人文化の発展につながったのだろう。魔力に満ちた土のおかげで森は生命力を増している。大森林の存在が亜人を育み――エルフやコボルトといった人間とも共存できる亜人種族が主流となったと、書には記されているようだが。
実際にそう間違ってはいない流れで、この大陸の文化が育ったと私は感じている。
ただ亜人や亜人種と言っても多種多様。
ゴブリンやオークはどちらかといえば魔物側で、人間とは共存していない。
だが、エルフや有翼人やコボルトといった、人語を解する種族は違った。
彼らの分類は人類なのだ。
歴史書を魔力で捲る私の口が語りだす。
「もっとも、大陸神という存在がそもそも大陸という名のダンジョンのボス。つまり神という種族の魔物だというのなら、おそらく人間もエルフも全て、源流は同じ。元を辿れば人間とて魔物の一種と分類できなくもないのでしょうね」
朝焼けの中で女神ダゴンが微笑む。
『ふふふふ――人類も結局のところは魔物。この世界の聖職者たちが耳にしたら卒倒しそうではありますが、おそらくはそれが真実だと思いますわ』
「思いますわと言いますが。あなたたち女神が作ったのでしょう、この世界は――」
『はい、旦那様。この世界の創造には多くの女神が協力しておりますわ。旦那様がマルキシコスと戦った空間で覗き見していた女神の多くが該当者、あたくし達と同じく創造神と思っていただいて宜しいかと。それぞれに持ち寄った魔術理論、魔物の知識、神話知識。それら全てを混ぜ合わされてこの世界は生まれたのですから。ですが……』
ダゴンが糸目を作るような女神の微笑みで。
『旦那様は今お召し上がりになられている朝食を全て混ぜ合わせたら、どのようなお味になるか――すぐに想像がつくでしょうか?』
計算すれば答えは出るだろうが、そんな面倒な事はしない。
とりあえず食べてみて判断するのが早いと、口にするだろう。
「――ようするに結果など考えずに実行した、と」
『はい、その通りでございます』
「曇りのない微笑みで返すのは止めてください。まあ、そういった倫理観や計画性のなさは想定内ですが」
今度は瞳を細め詰問する顔で私は言う。
「そもそもの疑問を宜しいでしょうか?」
『ええ、なんなりと』
「あなた方は私を殺し、ただ遊ぶためにこの世界に招致した。或いは、現世であなた方の誘惑を跳ね除けた私に腹を立て、この世界に巻き込んだ。そう考えておりましたが――」
『巻き込むだなんて、愛ゆえにございますわ』
「愛、ですか。どんなものとて掴む力のあった存在が、手に掴めなかったモノ。手に入らなかったからこそ愛おしく思う……それは欲しいがまま、あるがままに我欲を貫く女神の性質ではあるのでしょうね」
『そこを否定するつもりはございません、けれど旦那様を想う今のこの感情が愛だと、あたくしは信じておりますわ』
少なくとも彼女たちは今の自分の感情を愛だと信じている。
『それで、いったい旦那様は何をお聞きになりたいのです?』
「あなたたちは私のいた世界にそもそも存在していたのか。実在していたのか。そこがまず疑問です。それほどの強大な力を持った存在が実在したのだとしたら、今までなぜそれに気付く者がいなかったのか。現代社会においてその情報や存在を隠しておくことなど現実的ではないと――そう思ったもので」
『……そう、ですわね。旦那様が疑問にもたれている件は理解できました』
しばし考えダゴンが言う。
『あたくしたちも最初から、旦那様の世界に居たわけではないのです。本当はもっと別の場所にいたのですよ』
「別の場所?」
『はい。けれど、そこが壊れてしまって――もう二度と、届かぬ場所になっていて。本当は、人を探していたのです。だからあたくしたちは旦那様の世界にいた』
「お聞きしても?」
既にここが異世界なのだ。私のいた地球以外にも世界があったとしても不思議ではない。
『昔話になってしまいますが――魔術体系や神話体系の異なる世界に、かつて神々が住んでいた地が存在したのです』
「神々の暮らす地ですか」
だが、既に過去形だった。
『あたくし達が人間たちによって貶められた存在であることは、ご存じだと思いますが。あたくしたち三女神を含め、後にこの世界の創造に協力することになる他の女神たちも皆、ここでもない地球でもない別の場所に救われるまでは――長い間、行き場を失って彷徨っていたのです。けれど、捨てる者がいるのなら拾う者もいたのでしょうね――。人間たちに捨てられたあたくし達を……拾って下さった方がいたのです』
宗教戦争によって悪魔とされた神々、それがこの三女神だとは認識しているが。
『元の名を奪われ――悪魔や邪神、魔神へと貶められたあたくし達。そんな野良女神を拾って下さった偉大なる御方がいらした地――そこがあたくしたちの新しい居場所となりました。あの方がくれた安住の地でした。あたくしたちはあの方に拾われ、救われた恩を今でも忘れてはおりません』
元の姿や神性を映し出し。
ダゴンが静かに語りだす。
『バアルゼブブちゃんが悪魔王とされ信仰されなくなり、アシュトレトちゃんも魔神だとされ邪教の神と畏れられ、聖典の中であたくしが悪神と蔑称され……魚の鱗や魚身を持つ邪悪な存在と貶められ――漂っていた頃。闇よりも深い闇の中で嘆くあたくし達を拾って下さった方がいたのです』
「恩人というわけですね」
『ええ。恩人です。その方はとても強大な存在でした、旦那様のように見目麗しいお方でした。けれど少し、なんといいますか……その、愉快で適当な性格の御方で。実はあたくし達を拾ったことも、その世界にとっては違法。許されざる罪だったそうですが……あの方は上に逆らい、「可哀そうだし面白そうだから」という理由だけで、他世界の神を拾うという大きな禁忌を犯されました』
なぜか私には先が見えていた。
話が読めていたのだ。
「つまり、本来なら拾ってはいけないあなた方を、その方がその世界に拾い上げてしまった。そのせいで、あなた方の恩人は迫害。或いは、相応の罪を背負った。そういうことですか?」
見抜かれるとは考えていなかったのか。
一瞬だけ惚けたダゴンは正解です、と頷き。
『彷徨う異界の女神たるあたくしたちをその地に招くことは、固く禁じられていたそうなのですが――それでもあの方は手を差し伸べてくださった。他にも何も知らなかった人間たちに魔術を授けたり、どんな願いさえかなえてしまう危険のあるネコ型の魔道具に力を授けたりと、本当に、多くの問題行動を起こす方だったようです。それが規律を重んじる、神の世界でも上にある方々に問題視されるようになってしまった……』
ダゴンたちが神ではなく悪魔とされ彷徨っていた時に、救ってくれた存在がいる。
本当に恩義を感じているのだろう。
ダゴンの瞳はまるで恋する少女のようだった。
『そんなことも知らずあたくし達はあの方に拾われ、その地へと招かれ……浮かれておりましたの。邪神と蔑まれたあたくし達であっても、そこでは自由に生きていた。しばらくすると、かつての正しき神の力を取り戻しておりましたの。とても、そう、とっても嬉しかった。全てはあの方のおかげ、あたくしたちはあの方からの恩に報いようと誓いました。本当に穏やかで、優しく、楽しい日々を過ごしておりましたわ。けれど……』
「その平穏も一生は続かなかった」
続きを語る私の口に頷き――。
『……はい、ついにあの方が――あの地を追放されてしまったのです』
ダゴンが言う。
『あたくし達はあまりの仕打ちに抗議しましたが受け入れられず。あの方に拾われた女神たちだけであの方を追い、元に戻っていた本来の神の姿を捨て……再び堕天しました。一回目は人間たちに貶められ、二回目は自らの意思で――それが今のこの姿なのです。昼の女神アシュトレト。黄昏の女神バアルゼブブ。明け方の女神ダゴン。ですから、今のこの姿にあたくし達は不満はありませんの、だって恩人を追って堕ちた姿なのですから。間違ってなどいないと、信じておりますのよ』
「それで結局、その方とは再会できたのですか?」
首を横に振り。
ダゴンは言った。
『あたくしたちが追った時には、もう遅かったのです。あの方が追放された後、かの地にて、追放に抗議したあの方の兄が殺され……全てが狂ってしまいました。優しかったあの方は本当にお兄様を愛されていた、唯一、対等に話せる存在だと依存しておられた。けれど、そんな肉親を自分のせいで失ってしまった。それがあの方を蝕んだ。あの方はとても悲しんだのでしょう、嘆いたのでしょう。その絶望の果て、感情を暴走させ絶念に沈み』
私の口は先を読んで言葉を刻む。
「復讐に、神々が暮らしていたというその地を破壊。壊滅させたのですね」
『ええ――その通りですわ。旦那様は……本当に頭の回る御方なのですね。まるで見ていたように言い当ててしまうのですから。さすがです』
「あなたの声、あなたの気配、あなたの今の悲しそうな顔が……私に先の展開を予想させているから、かもしれませんね」
私の手はダゴンを抱き寄せていた。
そうして欲しいのだろうと、魔王になる前の私の理性がそう身体を動かしていたのだ。
朝焼けと私の腕の中で、ダゴンが続きを語る。
『あの方は……兄を殺した神々を許さなかった。きっと、今も……どこかで神々の残党を狩っているのでしょう。きっと、本当に全てに絶望したのだと思いますわ――あれほど愛されていた、美しい世界』
しばしの間を作り、唇だけを女神は動かした。
『楽園を破壊し――全てを焦土と化してしまわれたのですから』
神々すらも滅ぼす者がどんな存在か、それは分からない。
けれど、きっと本当に絶望していたのだろうと、私には理解できた。
『だから、もう二度とあの方もあたくし達も、あの方を追いかけ共に堕天した他の女神たちも。もう二度と、あの地には戻れない。だから、あたくし達はせめてもの無聊の慰みに、この世界を作りだしたのかもしれません。第二の楽園とするために』
ただどれほどに再現しようが、作り替えようが。
彼女たち、女神にとってのあの方はいない。
もしいないのならば、次に女神はどうするか――。
「……」
『旦那様? どうかなさいましたか?』
「いえ……」
考え事をする私の腕の中で、ダゴンが最後に物語を締めくくる。
『あたくし達はあの地、楽園を滅ぼした後のあの方を追いましたが。もはやどこにもおらず。どこかの世界に飛んでしまったのか、隠れてしまったのか……もはやあたくし達にも、分かりませんでした。最後に気配のあった地が、旦那様の世界。だからもしやと思い、必死に探しましたの。けれど、結局、あの方と再会することはできなかった。あたくし達は再び行き場を失い彷徨っていたのですが――そんな失意の中で、旦那様、あなたと出逢ったのです。そうしてあたくし達、三女神全員が恋に落ちた』
以上が答えですと、ダゴンは少しだけ寂しそうな顔をしていた。
もはやその恩人との再会を諦めたのだろう。
私の口が、勝手に動く。
「申し訳ありません――」
『なぜ旦那様が謝るのです?』
「いえ、少し聞きすぎたかなと――反省したのですよ」
なんにせよもう、昔の話。
二度と取り戻せない思い出なんです、とダゴンは悲しく微笑んだ。
私は察していた。
三女神を含む女神たちは、かつてその楽園と呼ばれる場所で、恩人と呼ばれたとある男に拾われた者。
仮に、楽園を破壊できるほどの存在に名をつけるとしたら、私ならばこう呼ぶだろう。
魔王――と。
答えが見えてきた。
女神たちはそれぞれに駒を選び、駒を育て強大な存在とし。
二度と出逢えぬその恩人を再現しようと”この遊び”をしているのだろう。
それは女神たちの悲しい遊び。
おそらく、午後三時の女神とて同じなのだろう。
ここは女神なりの楽園の模倣であり。
女神たちがあの日を懐かしむための、魔王を育てるための世界なのだろう。
二度と取り戻せない思い出を追った、追憶の世界。
女神たちはここで、魔王を作りたがっているのだ。
けれどおそらく。
「あなた方は……きっと、自分達が何故そうしているのか。気付くことはないのでしょうね」
答える者は誰もいなかった。
いつの間にか時間が過ぎていたのだ。
女神ダゴンは朝の終わりと共に消えていて、既に私は一人。
豪商貴婦人ヴィルヘルムとの面会時間となっていた。