第5話 治療魔術
魔術とはそもそも何なのか。
女神とは何なのか。
昼の女神アシュトレトは私にその本質を教えてくれようとしているのだが。
魅惑的だろう臀部をベッドに沈め。
ぬーん。
『魔術とはドカーンとすごい力である。女神とは、美しくも崇めるべき存在である。なんじゃ、その顔は妾の見解に不服でもあるのか?』
「……アシュトレト様。あなたは些か大雑把なところがありますね」
『仕方あるまい。そもそも妾は上位存在、下等存在である人間の思考や思念に考えを寄せるのは容易ではない。これでもそなたのために、だいぶ”人”であろうと苦労しておるのだぞ?』
文字通り、この女神アシュトレトは上位存在。
神なのだ。
見た目は芸術家が描いた西洋の裸婦。勝手に人の寝具で寝そべって、蛇の頭をツツツツゥっと意味深に撫でている痴女にしか見えないのだが。
口を開けば、更に威厳は消え失せる。
「低俗であることが人間という事であるのなら、あなたは既に最も人間に近い神なのでしょうね」
『ほぅ、言うではないか。神が怖くはないのか?』
「怖いですよ。実際、生前の私はあなた方に殺されている」
『口を吸い、引き締まった男の肉を食らい、その豊穣の繁栄たる淫を貪る。それも神の仕事ぞ。妾たちは本職を全うしたまでじゃ』
昼の女神が私の白く柔い子どもの頬を抱え。
うっとりという。
『早く、大きくなれ。立派な男となれ、そうして勝者となって、妾を喜ばせておくれ』
「勝者ですか」
疑問形式ではなく呟く。
すると意図を察した昼の女神は、唇だけを妖艶に動かしてみせていた。
『この世界にはおぬしの他にも神に選ばれた転生者がおる。それはおぬしの世界から呼ばれた者であったり、おぬし以外の、更に異なる世界から呼ばれたものであったり、様々じゃ。彼らには必ず、神が一柱は宿っておる。妾たちのようにな。これは神々の遊戯。誰が最後まで生き残るのか、或いは誰が他の転生者を屈服させるのか――じっくりと眺める余興である』
「その遊戯に私が選ばれたと」
『さてどうであろうか。まあ安心せい、基本的に一柱の神は一匹の人間しか駒にせぬ。つまり、一匹の人間に対して恩寵を与えているのは一柱の神のみ。けれど、レイド。そなたは例外じゃ。そなたには妾たち三女神が宿っておる。それはつまり、とてもお得じゃな? お買い得商品じゃな?』
またくだらぬことで話の腰を折ると、私は魔導書を捲りながら言う。
「なんですか、その主婦みたいな言い方は」
『人間という生き物はお買い得に弱いのじゃろ? たった二割しか違わぬというのに、わざわざ隣の町にまで出向きアイテムを購入したりするそうではないか。妾たちのお得さ、そなたにも存分に理解し、妾を愛して欲しいのじゃがのう』
赤い瞳を輝かせ私は考える。
昼の女神アシュトレトはかなりテキトーな性格の神だ。
発言も無責任で、行動も無責任。
姉ポーラが見えないのをいいことに、「レイドと子づくりしやすいように、大きくしてやろうぞ」と、その胸を揉もうとする時さえある。
性に対して前向きなのが神の本質なのか、それとも昼の女神アシュトレトだけの性質なのか、その判断はついていない。
他の女神との接触も考えているのだが――。
その時の私はこう判断していた。
おそらく昼の女神アシュトレトは独占欲が強いと。
一人ではなく一匹と人間を数えてしまう程の価値観であるため、私が姉や義父義母、屋敷の使用人と親しくしていても一切の嫉妬をしないが――それはおそらく、取るに足らない下等生物だから。
なら、親しくなるのが他の神となると。
そんな私の思考を読んだのか。
或いは女の勘で察したのか。
昼の女神アシュトレトは、顔をただ黒い平面へと変貌させ。
無貌の状態で、淡々と声を漏らしていた。
『やめておけ、レイド。妾はそなたが好きだ、愛しておる。愛おしい。さすがにまだ小童の肉体であるそなたをどうこうする気はないが、時に全てがどうでもいいと感じることがある』
「でしょうね」
『この際だ、そなたに伝えておこう。妾と他の女神、明け方と黄昏は妾と同一の神性を持つ者。いわば三柱で一柱の神。だがその力は三女神、三柱分もある。思考も趣向も、愛も恋も、欲望も三つに分かれておる。少なくとも、昼の間は他の女神の話題を口にするな。不快だ』
私は言う。
「お言葉ですが」
『なんじゃ、口答えか?』
「私は口にしておりません。勝手に思考を読んだのはそちらでは?」
言われて女神は黒かった顔を元の美女に戻し。
くわ!
ヒューヒューと音の鳴らない口笛を漏らし。
『な、なんのことだか妾、神だから分からぬのう~』
こんな滑稽な神であるが、本当に神は神なのだろう。
だが、それがどれほどに強い神なのかは分からない。
なにしろこの大陸の文献に、昼の女神アシュトレトの記載がないのだ。
書物をどれだけ漁っても、街の知恵者たちにそれとなく聞いてみても三女神の記述などない。
アントロワイズ家もこの街も裕福ではない。
他の地域や、別の大陸に足を運ぶ――或いは学び舎のような場所に入ることができれば、書物や文献を探すことも出来るのだろうが。
そう考えてしまったのがいけなかったのか。
ふと、アシュトレトの気配が消えていた。
女神は基本的に誰かが来ると姿を消してしまう。
廊下を激しく駆ける音がした。
何かがあったのだろう。
ノックされるより前に、私は扉を開けていた。
「あなたはたしか……」
そこにいたのはマダムを彷彿とさせる、いつかの家庭教師だった。
彼女は白銀の書物を手に、私に言った。
「お話がありますの、これは大変名誉なことなので断ることはできません」
「と、言われましても。なんなのですか?」
マダムの後ろにいる義父ヨーゼフは困った顔で言う。
「おお、レイド。それがなぁ、この御方が急に馬車でうちの前に止まって。いえ、いつでもいらしてくださいと言ったのはこちらなのだが、ともあれ。あれなのだ」
もうお父様。あれじゃ分からないでしょう、とポーラが言う。
「ねえ、レイド。あなた、いまは自分で文献をなぞって魔術の勉強をしているのよね?」
「はい、姉さん。それがいったい」
「実はね――」
何故かポーラが仕切っているが、それは彼女がしっかりとしたリトルレディであり、なおかつ――。
姉ポーラの命令ならば、私が絶対に逆らわないと知っていたからだろう。
彼女は恩人だ。
私も彼女への恩を忘れてはいない。
ポーラに説明されたのは、数点。
ちゃんと要約された話で、非常に分かりやすかった。
王族の息子――すなわち王子が狩りに行くと言い出し、ダンジョンと呼ばれる魔物の巣へ突入。
なぜかダンジョンの魔物が強力な魔物に切り替わっていて、パーティが半壊。
命からがらダンジョンから抜け出してきた王子と少数の側近であったが、王子は毒を浴び、重症。
一番近い、この街へやってきた。
回復魔術の使い手は教会に二人。
そして例のマダム教師の合計三人。
三人が三人とも治療に失敗し、もはや王都に戻り腕利きの治療師に頼ろうにも、間に合わず。
ならばと、マダムは私の存在……三女神を纏う悍ましき子供を思い出し、やってきた。
「そういうことですか、ありがとうございます、姉さん。義父さんはとても頼りになるのですが、こういう時には焦ってしまうようで、話が分からないですからね」
話しながらも馬車へと向かうと、そこには重々しい顔をした騎士たちがいる。
ダンジョン遊びをする王子の護衛だったのだろう。
その中央には、金髪碧眼の少年がいる。
歳は十歳ぐらいだろうか。
本来ならこんな子供を連れて行っても問題ないダンジョンだったのだろう。
けれど、何故か偶然、不運なことに今回に限って強力な魔物がいた。
おそらくは女神の仕業だろう。
けれど、それはたぶんアシュトレトではない。
暮れていく空。
黄昏の中に、彼女はいた。
霧のような女性である。
その口が、蠢いていた。
マダムの持っている魔導書を指さし、音にならない言葉を発している。
私は意図を察し。
マダムから本を借り受け、詠唱した。
幸運なことに、王子の毒も傷も完全に治療され。
私は幸福なことに、この国の第二王子の命を救うことになったのだった。
もう私にはわかっていた。
三女神。
彼女たちは私を幸福にするためならば、なんだってしてしまうのだろう。
と。
黄昏の女神はにっこりと、淑やかな笑みを浮かべていた。