第54話 豪商貴婦人《ヴィルヘルム》
海竜の古代語で船を見送る彼らは敬礼。
今回のこの件、海竜たちはレイド様と言っていたので、確実に私のせいである。
だが一匹ですら珍しい海竜が群れとなり、列となり――並んで頭を下げる姿を傍から見ると、まさにドラゴンの集団奇行。
人類たちにとっては恐怖の光景として映ってしまっていたようである。
それがつい三十分前の話。
既に海竜の王国を通り過ぎたのだろう、嵐が去ったように海は静寂で満ちていた。
波を揺らすのは穏やかな風と二本の釣り糸のみ。
異常事態に船員や客たちが議論する端っこ。
釣竿をプラプラさせながらアシュトレトが言う。
『ふむ、釣りとは存外に退屈なモノじゃな。全然かからんではないか』
「海竜の群れが異常行動をしていましたからね、普通の魚は警戒してこの海域から去っているのでしょう」
『妾は覚えたぞ。これがありがた迷惑というやつか……』
「まあ、そう言わないで上げてください。彼らも彼らで私やあなたが急に船でやってきたのです、相当に慌てていた筈ですよ」
『おぬしがそういうのならば許すが』
やはりまったくかからない釣りに、少し不満のようである。
こちらはのんびりとしているが。
あちらは違う。
客も船乗りも例の偉そうなエルフの貴婦人もガヤガヤガヤ。
海竜の群れが去っても、混沌。
船内はいまだに騒然としているのだ。
やはりというか当然――海竜との遭遇は前代未聞。熟練の船乗りにとっても、意味不明な状況となってしまっているようだった。
エルフの貴婦人が、頬に汗を浮かべながらも安堵の息を漏らし。
長寿を感じさせる貫禄ある声で言う。
「この異常現象。誰か、心当たりのある者はいるのかしら?」
誰にともなく呟いた問いかけに答えを返せる者はいない。
誰も分からないのだろう。
まさか前回の事件で散々に暴れた賢者を見送っていた――そんな珍回答を当てるわけがないので、当然と言えば当然なのだが。
誰も答えないというのも、それはそれで不敬なのだろう。
動いたのは中年の大男。
人間種であり、その職業は船長――潮風と太陽により焼けた褐色肌の船長が唸り。
喉の奥から声を絞り出していたのだ。
「我ら海に生きる船乗りにとっても、海竜は未知の存在。彼らとの遭遇など百年に一度あるかないか。言語を有しているとは伝承されておりますが、その文化などはあまり伝わってはおりませぬからな。……もしかしたらこちらを縄張りに入った竜だと誤認し、威嚇していた――……ということなのでしょうか」
「誤認ですって?」
「ええ、この船は竜の姿を模した設計がされておりますから。可能性はゼロではないかと、船長たるわたしは考えます。むろん、ただの思い付きの意見ではありますが」
「誤認した……たしかにそうかもしれないわね」
エルフの貴婦人の応対は生返事に近かった。
威嚇ではないと気付いているのだろう。
気品ある貴婦人は思考に集中。扇の開閉を繰り返すルーティンの中でブツブツブツ。
「――ワタクシが買い付け遠征から帰還した船にて、偶然、海竜と遭遇するなんてこと、あるかしら……? いや、ありえないでしょう。そのような偶然を偶然と思うのは、愚か者がする事。……これはなにかあるわね……。けれど……人間たちによるエルフへの嫌がらせ……にしては、規模が大きすぎるし。分からないわね」
色々と答えを探しているようだが、まぎれもなく。
偶然なのである……。
緑髪の貴婦人は船長の肩に手を置き、にひぃ!
「船長、ヒミツはなしにしましょう。何か知っているのならお話しなさいな」
「ほ、本当に知りませんっ!」
「そうなの? 言っておくけど、ワタクシの部下の尋問は結構苛烈って有名よ?」
脅す貴婦人の後ろでエルフの護衛騎士たちが、ギロっと人間の船長を睨む。
船員たちが船長を守ろうと動く前、船長は人間の船員たちを鋭い目線のみで黙らせ――すぐに貴婦人に目を戻し。
下手に出たまま、強面に苦い顔を乗せていた。
「――参りましたな、陛下……。そう脅されても本当に何もないのでありますが」
陛下とたしかに船長は貴婦人に告げた。
エルフの王族か、あるいは陛下と渾名をつけられるほどの存在ということなのだろう。
「そう、じゃあ積み荷に心当たりは?」
「なにも――特別なものは。どうしてもと仰るのでしたら、本来なら信用を欠く行為で好みませんが……船の上での絶対権限、船長権限を発令しましょう。全ての荷の中身を確認していただいても構いません」
「そう……ならば信じましょう。なら乗っている人員が目当て。けれどワタクシたちの一団を除き民間人ばかり。はぁ……ならばやはり、海竜の目当ては豪商たるワタクシだった、ということですね」
どうやら都合よく誤解をしてくれたようである。
目を合わせたアシュトレトと私は頷き、そういうことにしようと以心伝心。
「皆様、大変申し訳ございませんでした。ワタクシは長寿エルフにして、緑森の長。ヴィルヘルム商会の鬼陛下、といえば、お分かりですね?」
ひぃ!
っと、人間族の客から悲鳴に近い声が漏れていた。
名を聞いただけで畏れられる商人という事だろう。
護衛のエルフ騎士たちがキリっと周囲を警戒する中。
貴婦人は毅然と告げる。
「ご安心ください、エルフに対する誘拐や人身売買に加担していない人間や他種族には、なにも致しません。当商会とワタクシ、ヴィルヘルムが敵対視しているのはエルフを商品としていた愚かな方たちだけ。お客様方は違うのでしょう?」
「陛下……おきゃくさま方をあまり、脅されるのは……」
「大丈夫よ船長さん。船員リストと搭乗リストをチェックさせて貰っていますけど、怪しい存在はおりませんでしたから」
ほほほほっと陛下と呼ばれる豪商ヴィルヘルムは微笑み。
「さて! ここからが本題ですわ。どうやらお互い命があったようですね。船長、そして皆さん。ワタクシの探知魔術には海竜の姿はございません。もう安全だと断言できます! アイテムボックスやウチの商品の積み荷から、高い酒を振舞わせていただきます。伝説の三厄海と遭遇し生き残った運を、共に祝いましょう」
もちろん、ワタクシの奢りですわ、と豪商エルフはニッコリ。
魔術に長けたエルフ。それも年を経て成長したハイエルフの貴婦人の安全宣言だ。
船員、客問わず。非戦闘員にとっても、戦闘員にとっても大きな安堵となっただろう。
宴会の準備を始める船員たちの隙間を縫って、船長は貴婦人ヴィルヘルムに頭を下げ。
渋い海の男の声で、こそり。
「本当に無償ということでよろしいので?」
「エルフに二言はありません」
「畏まりました……しかし、本当に……あれはいったい、なんだったのでありましょうか」
「伝承にある海竜に間違いないでしょうね」
「……海を沈める人魚ローレライとはまた異なる、船乗りにとっての悪夢。脅威の三伝説」
ローレライとはこれ。
魅了された顔でうっとり、私の釣り糸を逆に引っ張り、海の中からこちらを見上げている人魚の事だろう。
もちろん、すぐにお帰り頂いたが。
ローレライをリリースしたこちらに気付かず。
気前よく宴の資材を提供させながら、豪商ヴィルヘルムが言う。
「海の支配者海竜、海の誘惑者ローレライ、海の悪魔クラーケン。これら三体は三厄海と呼ばれ、いつの世でも船乗りに畏れられていますからね。実際、上位の冒険者を護衛に付けた船でもたまに沈むことがある、これらは彼等の仕業とされている――もっとも、噂はあくまでも噂。その姿を見て生き残った者はいない。ですが、今回は違う。ワタクシも長くを生きておりますが、そのうちのひとつと出逢ったことは初。ある意味で運はいいのでしょうが――さすがに肝が冷えましたわ」
ローレライが海に帰った後。
私の釣り竿に超巨大なイカとタコを組み合わせたような魔物、クラーケンがかかり釣ってしまったのだが。
私は素知らぬ顔で、容量が無限に近いアイテム亜空間に封印。
じぃぃぃぃぃっと私を見ながらアシュトレトが、ちくり。
『レイドよ、やはりこれはおぬしの特殊能力のようなもの。本来なら出会えない超低確率な現象でも引き寄せてしまうようじゃな』
「たかだかローレライと出逢い、クラーケンを釣り上げただけで大げさですよ」
『ほう? ならばなぜ目を逸らす?』
「気のせいですよ。それよりも――釣りももういいでしょう。海竜が去った直後の海では、まともな存在はかかりません。それに、あのヴィルヘルム商会の鬼陛下と呼ばれる長寿エルフとは、あまり関わり合いになりたくありません。退散しましょう」
『それもそうじゃな――』
その後の船旅は順調だった。
早く船酔い地獄を抜け出したい私が海流を操作し、船を大幅に加速させていたのだ。
船は無事に沿岸国家クリスランドに到着した。
◇◆◇◆
沿岸国家クリスランドは自由と平和を重んじる国家。
人間やエルフやコボルトやエトセトラ。
多くの種族が混在して暮らしている影響で、一人の君主が全てを決める王制ではなく、皆の話し合いで国を動かす議員制を採用しているとのこと。
多くの種族が住むという事は、魔術もコスメもグルメも充実しているという事で三女神たちも興味津々。
私も新たな世界への興味が湧いているのだが……。
我々のクリスランドの冒険は、初手から既につまずいていた。
それは――伝説ともされる海竜の群れのせい。
そのまま無事入国。
となるわけもなく――。
亜人が多く存在する国、クリスランドは海竜騒ぎで前代未聞の大騒ぎ。
到着しても入国はできず、全ての積み荷が再確認。
運ばれた荷に海竜を引き寄せる何かがあったのではないか?
クリームヘイト王国や大帝国カルバニアからの攻撃ではないか?
間者が混じっているのではないか?
そんな疑念が警備と審査を厳重にさせ。
私達は船の上での待機を命じられてしまっていたのである。
海上で事件が起きたという事で、入国審査は極めて厳しかった。
『さすがにこれを船旅とは言わぬであろう。我が夫よ――妾が言いたいことは、分かるな?』
「ええ、同感です。これは大幅なロスとなりますね、アシュトレト」
いつものように以心伝心。
アシュトレトと私は目線を合わせ頷き。
審査を素通りすべく、姿隠しの魔術を詠唱しようとした矢先だった。
何やら察して気付いたのか。
例の貴婦人、豪商ヴィルヘルムがこちらを向き。
「そこの親子! どこに行かれるというのです?」
『親子とな?』
「キョロキョロとわざとらしく見渡すのはおよしなさい! そこの無駄に派手なドレスで着飾っている、年齢不詳な女と、ハーフエルフの少年! あなた達の事を言っているのです!」
当然、私が子でアシュトレトが親判定だろう。
こう見えても私の肉体的な年齢は、まだ十五歳ほど。
たいしてアシュトレトは年齢などという器とは関係のない、美を有している。言動はともかく見た目の貫禄は女神そのもの。その貫禄と神格が只者ではないオーラを放ってしまっているのだろう。
エルフの観察眼ならば、なおさらか。
女神はふっと微笑し。
アシュトレトがつんつんと私の頬を、つつき。
『聞きおったか~、レイドよ~? そなた……あまりにも眉間にシワを刻み過ぎて老けて見えるのではないか? 親と思われておるぞ~?』
自覚はゼロのようである。
「前向き病もここまでくれば立派ですね」
『うぬ? 何の話であるか?』
「親と思われているのはあなたですよ、アシュトレト……」
『妾がレイドの母とな? ふふ、斯様な冗談もまた一興。じゃが、そうじゃな。理解はできた。つまりおぬしはこう言いたいのであろうて。今宵は赤ちゃんプレイをしたい――と』
ちなみに。
質が悪いことに、この女神は本気で今の言葉を口にしている。
だから私も呆れを隠せず、はぁ……。
「少し、黙っていて貰いましょう」
『なに、照れるでない。なにしろおぬしの初めては既に妾たちが――』
……。
発言と――。
ベタベタ触ろうとしてくる女神の下ネタをキャンセルし。
私は無詠唱で魔術を発動していた。
「詠唱妨害魔術:【口封じ】」
いわゆる呪文妨害である。
女神の口を一時的に封じた私は、人間とエルフに目をやった。
豪商貴婦人に目をつけられたせいだろう。
街の衛兵も護衛のエルフたちも全員こちらに注目している。
「今そちらに向かいますので、お待ちを」
「いいでしょう――」
海岸を眺められる甲板の上。
私は貴婦人エルフ、豪商ヴィルヘルムの前で隙のない動作。
アントロワイズ家で学んだ貴族の礼をしてみせていた。