第52話 エピローグ ―クリームヘイトの姉妹―
平和が訪れようとしていた昼下がり――騒動後の王城は大騒ぎ。
皆、せわしく動いていた。
なにしろ王が亡くなり、そして大陸の西側の領土、辺境伯が治めていた地域が海竜の群れの攻撃で沈んでいるのだ。
やるべきことは、山ほどにあるのだろう。
王位継承権第一位のピスタチオ姫も当然、忙しくしているのだが――今だけは休憩中。
とはいっても、これも公務。
ピスタチオ姫の私室のバルコニーにて。
旅立つ私、レイド=アントロワイズの接待をしているのである。
嵐が去った清々しい青空の下に並ぶのは、ティーセット。
風が良く通る、穏やかな日差しだった。
甘い紅茶とバターがふんだんに使われた焼き菓子には、濃厚なハチミツが滴っている。
ただし、持て成しに手をつけずに私の口は動き続けた。
「で、あるからして――今後も恒久的に魔術は維持されるでしょう」
語る内容は多くある。
神マルキシコスを眷属化した事。
けれど基本的にはこれからもこの大陸は変わらない。この国の加護は続く。
男神マルキシコスによる魔術の付与はされている。
そして、私もすぐにこの大陸を発つという事も、説明している。
ちなみに。
持て成しのティータイムのお供は、私に代わり、三女神たちが堪能中。
影の中から満足そうな吐息が聞こえてきている。
しかし何よりも大事な説明は、これ。
邪杖ビィルゼブブの髑髏の瞳からは、リアルな映像が投影されている。
私が関わらなかった場合の現在を、丁寧に解説してみせていたのだ。
私を巻き込んだことで大きく狂ったクリームヘイト王国の争乱。
もし私を巻き込まなかったら、どうなっていたか。
単純だ。
ピスタチオ姫は死に、ショーカ姫も死に、王も死に、そして大陸の西方は海に沈んでいたことだろう。
そして海竜王陛下は逆鱗状態のままクリームヘイト王国を亡ぼし。
姫を生贄にして正気に戻ったとしても、もう遅い。
その後、海竜は海竜で勇者ガノッサに滅ぼされて終わり。
全員が死ぬという結末が待っていたことは想像に難くない。
勇者は人間同士の争いには介入できないが、海竜が相手ならば話が変わる。
だから――本当に、あの時、ピスタチオ姫が私を捕らえなければ全ての命が終わっていた可能性が高いのだ。
それを悲劇と人は呼ぶだろう。
説明し終え、他の者に伝える際に使う資料も添付し魔導書を作成。
私は次期女王ピスタチオに、今回の事件のあらましをまとめた書を手渡し。
結論を語り終える。
「以上の結末から考えますと――結果的にではありますが、被害は大きく減少しました。この国が残っただけでも、成果は上々といえるでしょう。つまり私は、あまり悪くないという事です。分かりますね?」
私が真実を語るのはピスタチオ姫だけ。
姫は驚いてはいたものの、既にバアルゼブブやダゴンを見ているからだろう。
私がそういう、人間の常識の外にある者だとは察しているようである。
「わたくしも妹のショーカも、そして民も海竜王陛下も、別にあなたを責めてはおりませんので……そう、言い訳をなさらなくとも……」
「こういうことは先にはっきりと責任がないと言っておかないと、後から、お前のせいだったと難癖をつけられますからね。必要不可欠な宣言なのですよ姫様」
「そのような心の狭いことをする方などいるのですか?」
「――私もよく研究者仲間の昔の失敗を掘り返し、ネチネチと嫌味を言った記憶があります」
目線を逸らす先には、王都たる街を再建する民の姿が見えている。
もっとも、それはダゴンが周囲を闇の海に変えた影響の名残なのだが――基本的にほぼ全ての命が助かったのだ、命と街、どちらの価値が高いか。
実際はどうあれ、人間ならば命と答えるだろう。つまりは、やはり私たちは悪くないという結論に繋がるのだ。
空中庭園もそのままアシュトレトが自らの庭、自らの所有地としているが、突っ込む者はだれもいない。
全ては些事である。
ピスタチオ姫が呆れた顔を見せ。
「あ、あなたのお話でしたのね……賢者様」
「それがなにか?」
「賢者様は存外に俗物的というか、庶民的というか。面白いお方ですのね」
言ってピスタチオ姫もラウンジから外の景色を眺める。
金色だった姫の髪色は、今や青。
まるで海のような、一面のブルー。
少女は半人半竜としての性質を少しずつ表に出し始めているようだった。
これから先の未来のため――人々を導くために、ドラゴンという性質を利用しようとしているのだろう。
「わたくしは――女王としてやっていけるのでしょうか」
「まだ先の話でしょう。これから成長すればいいだけですよ」
「お父様の娘ですから、少し、自分が心配なのです――いつかわたくしも女王の座に溺れ、私欲や保身のために周りを見なくなってしまうかもしれない。それが、怖いのです」
声は透き通っていたが、強かった。
既に民草を見守る威厳ある王族の色を帯びていた。
神マルキシコスの鶴の一声で、既に騒動は終結している。
多少強引な手段であるが、大陸神の名は伊達ではなかったのだろう。
人間と海竜の血を引くピスタチオ姫か、ショーカ姫が次のクリームヘイトを支える王となることは既に決まっている。
海竜たちの姫でもあることが、両種族の懸け橋となるからだ。
ただ彼女たちはまだ成人していない。
戴冠式が可能になる十八歳になるまでは、亡き先代王の弟が一時的に王権を預かることで話が纏まったようだ。
ようするにあの愚王とかつては王位を争っていた、かつて権力争いに負けたモノ。
騎士団長の娘の夫である。
これから先、亡き王の弟がどちらの姫が女王になるかを選定するのだが、答えは決まっている。
ショーカ姫はもう既に王位継承権を放棄していた。おそらく自らを恥じたのだ――女王を目指すことはもう無いだろう。
出逢った当時のピスタチオ姫は自ら退き、ショーカ姫に王位継承権を譲ろうとしていた。
けれど結果的にはこうなった。
ピスタチオ姫がなぜショーカ姫を女王にしようとしていたのか、正直私にはよく分からなかった。
ダゴンもバアルゼブブも分からないと言っていた。
けれどアシュトレトだけは、なんとなく理解していたようで。
妹に、居場所を与えてあげたかったのであろうな――と、どこか達観していた様子を見せていたのだが。
私も二柱の女神も、まだ人間の心を上手く理解できていない。
魔王となった私には、もう二度と理解できないのかもしれないが……。
アシュトレトだけは違う。前よりも人間の心の機微に敏感になっているのは、何故なのだろうか。
おそらくは人と接する機会が増えたからだとは思うが。
ともあれだ。
弱気な姫を元気づけるのが人間としての在り方だろう。
しばし考え、瞳を閉じて私が言う。
「あなたは父や妹の失敗を嫌という程に眺めて来た。反面教師という言葉はあまり好きではありませんが、まさにそれ。大丈夫です、あなたなら立派な女王になれますよ……と、なんですか、その顔は」
「いえ、励ましてくださっているのは重々承知しているんですよ? けれど、……あの。あなたにそう前向きな言葉を言われると、皮肉かなにかに聞こえてしまって」
「私がひねくれ者みたいではありませんか」
人がせっかく、人の心のなんたるかを考えて発言したのに。
これである。
損をした気分になってしまう。
「え? あれ? 自覚がないのですか?」
十五歳の少女がみせる素の驚きを見て、私は慣れないことをしたと苦笑し。
「どうやら、本当に心配はなさそうですね。あなたは女王になれますよ、神さえ畏れるこの私に面と向かって、そのような事を言えるのですから」
「すみません、少し失礼でしたわね」
コホンと咳払いをし。
続けて。
しばしの間の後、表情を引き締めたピスタチオ姫が言う。
「賢者様。お願いがありますの」
「今回の騒動の追加依頼と、その報酬。ようするにあなたを生贄にする件ですね」
「はい、わたくしは大変に恥ずかしいお願いをしなくてはなりません」
「大丈夫ですよ――今のあなたを魔術の実験に使う気などありません。そもそもあなたはバアルゼブブとまともに会話をしてくれた珍しい人材、それは貴重な命。無駄に消費するつもりはないので」
ピスタチオ姫は女王としてこの地を治める。
だから、私への依頼の報酬が払えない。
既に吟遊詩人の情報と、海洋魔術に関しての報酬を受け取ってはいるが。
「それでもいつか必ず、この御恩には報いるとお約束します」
「まあ気長に待ちますよ」
私がハーフエルフで魔王で長寿であるように。
おそらく、ピスタチオ姫もまた長寿。
時間はまだまだあるのだ。
青空の下。
街を再建する民たちから目線を私に戻し――。
姫が言う。
「もうひとつ、お願いしてもよろしいでしょうか」
「内容次第ですね」
「もし、わたくしが道を踏み外し、女王として恥じるような存在となったら」
「はい」
「その時はわたくしを――生贄に捧げに来てくれますか?」
ようするに。
父のように道を踏み外したら。
殺してください。
乙女はそう言っているのだ。
父たる王はかつて本当に立派な王だったのだと、古きを知る者達は皆、嘆いていた。
神マルキシコスもそのような事を言っていた。
どれだけの賢人でも英雄でも王族でも、環境次第ではその性根を腐らせてしまう。
それが、この少女にとっての恐怖。
いつか知らぬうちに、自分も王と同じ轍を踏む。
それが、怖い。
だから私との約束が欲しいのだろう。
私は姉ポーラに拾われた日の事を思い出していた。
知らぬ屋敷の中で、まだ幼かった私は恐怖を覚えていた。
そんな私の頭を、姉ポーラは優しく撫でてくれた。
震える乙女の、海のような青色の髪に手を触れ。
その頭を撫でてやり――。
私は言った。
「それでは此度の報酬の受け取りは、あなたが女王失格となった時にいたしましょう」
それは。
少女にとっては心に刺さった、将来の刃。
もし道を踏み外しても、賢者が止めてくれるという安堵。
少女は頷き。
「ありがとう存じます、賢者様」
微笑んでいた。
私が言う。
「さて……私からは以上です。それでこの言い訳の魔導書……ですが。どうしますか? 一時的に王となられる叔父上にはお伝えした方がいいとは思います。あなたが伝えられないのなら、私から伝えておきますが」
「いえ、叔父様も父が王の座に溺れ、道を踏み外していたことは承知しているでしょう。もし賢者様が介入してくれていなかったら、全てが終わっていたと――次期女王として、わたくしの口から説明する義務があるでしょう」
「そうですか」
「ええ、そうです――頑張って立派な女王になるための第一歩ですね」
ピスタチオ姫がどこまで私に関して話すのかは分からないが、彼女が叔父に説明している時には既に、私は別大陸。
私は姫としての彼女ではなく、海竜陛下の孫としての彼女に問う。
「あなたの母方の父……海竜王陛下はなんと?」
「母の事と、母の最期を聞いて……心を痛めておりましたわ。全ては逆鱗に触れてしまったクリームヘイト王国の祖のせいなのですが、それでも、海竜王陛下は実の娘を復讐の道具として、この王国に送り込んだ事を後悔しておいででした」
「失礼ながら姫様、もう一つ宜しいでしょうか」
「なんでしょう」
「あなたは人に化身した海竜の母から、なにを聞かされ、どう動けと言われていたのか――興味があるのです。もちろん、不躾な質問だとは承知しておりますが」
それでも私は、心を知りたかった。
「どう動けとは言われておりませんの。ですから行動の全てはわたくしの意思」
母を思い出しているのだろう。
少女はまだ小さな胸の前に手を置いて。
「お母さまは真実を話してくださいました。あの古文書の事や、そして、姉妹で敵対国であるクリームヘイトに潜入している事も、わたくしたちや王妃姉妹こそが、荒れ狂う海竜王陛下が進軍するための道標――楔である事も。本来なら、わたくしとショーカは海竜王陛下に捧げられる最後の生贄になる筈だったことも、全て――」
「けれどその計画には破綻があった」
私の口は姫を見ながら自然と蠢いていた。
「あなたの母君は、本来ならただの生贄でしかない筈のあなたを母として愛してしまった」
「ええ、その心は海竜王陛下の思惑とは反する叛意。母は、呪いを受けたような状態となり、どんどんと弱っていってしまったようです」
「子を想う愛が、呪いとなって自らを蝕んだ……ですか、救いのない話ですね」
「それでもお母さまは最後に言って下さったのです」
姫が言う。
「わたくしを産んで、良かった。あなたに逢えて、良かったと。細くなってしまった手で、わたくしの頬と頭を撫でてくださったのです」
ドラゴンにとって子供は所有物。
愛すべき対象ではない筈。
けれど、人へと化身した影響で精神に異常が発生したのか、それともピスタチオ姫に人間の血が混じっているからか。理由は分からないが、母は確かに娘を愛したのだろう。
「……」
「賢者様?」
「もしかしたら、私は関わるべきではなかったのかもしれませんね」
「どうしてそう思われるのですか」
「もし海竜に子を想う気持ちが存在するのなら、私は海竜王陛下の復讐を邪魔してしまったことになるのですから」
大陸神から命令された人間はもちろん、海竜たちも今回の件からは手を引いている。
少なくとも当分は、海竜もこの大陸の人間には手を出さない。
一見すると平和だ。
けれど――これはあくまでも私が状況を掻きまわしただけの停戦、火種は燻っている筈。
先ほどから一つというわりに、多くを聞いてしまっている。
けれど、私の口は動き続ける。
「ショーカ姫と王妃殿下がどうなさるおつもりなのかは、ご存じで?」
「意外ですね」
「なにがです」
「あなたはそういう些事を気になさらない方だとばかり」
辛らつだが、適切な言葉だったからだろう。
私の頬は苦笑の形を自然にみせていた。
「ご明察通り、私は彼女たち自身について気にしているわけではない。これからの人生を気にしているわけではないのでしょう。途中経過がああなった場合、どういう結論、どういう結果をもたらすのか――それを私は知りたいのだと思います」
「お義母様は、海竜として海に戻るそうです。ショーカも、おそらくは……母についていくのではないでしょうか。あの子は、妹は、ずっと……ただ愛して欲しかっただけなのだと思います」
「辛辣なようですが。愛して欲しいからといって、子供だからといって――行動の全てが許されるわけではありません」
「ええ、存じております」
ピスタチオ姫は青い空を見上げた。
大きな雲が流れていた。
姫が言う。
「悲しいことが多くありました、けれど事実は一つですわ。あなたは無益な争いを止めて下さったのです、白銀の賢者レイド様」
「それでも私はもう旅立つ。後はあなたたちで解決するしかない」
「ええ、分かっております」
ピスタチオ姫は言った。
「賢者様。最後に一つだけ、お聞きしても?」
「ええ、どうぞ」
「結局、どうしても分からないことがあるのです。あなたの正体は一体、なんだったのでしょう。勇者でもない、神でもない……けれど、全てを解決してくれたあなたを、わたくしを救ってくださった。白銀のあなたのことを、ピスタチオはちゃんと、知っておきたいのです」
「私自身も私を把握しているわけではありませんが、けれど、そうですね――」
私は言った。
「幸福を齎す三女神の駒。かつてアントロワイズ家に拾われた半人半妖の赤子。いつかの未来。今が歴史となった時。多くの者はおそらく、私をこう呼ぶのでしょう」
すなわち。
「幸福の魔王――と」
少女は納得した様子で微笑んだ。
ああ、魔王様だったのですね。
言われてみればピッタリだと、本当に愉快そうに笑ったのだ。
その日。
私は王位継承権の争いに巻き込まれた姫を救った。
私の行動の是非は正直なところ分からない。
命を救ったことを評価する者もいる。
自由に動き過ぎたことを批判する者も多いだろう。
けれどこれだけは自信をもって言える。
この日、私は一人の少女を救った。
それだけはきっと。
間違いではない筈だ――と。
私の姿は霧となって消え。
次の大陸を目指し――港町エイセンへと帰還した。
海はとても穏やかに。
青く、輝いていた。
第三章
クリームヘイト王国編 ―終―