第51話 神狼ノ首鎖《グレイプニール》
神話領域の戦いを前にしては人間と海竜の戦争など児戯。
大帝国カルバニアの西方で行われていた、クリームヘイトの王国を包んでいた騒動は中断を余儀なくされていた。
ここまでは思惑通りなのだが。
凛々しい顔立ちを怒気で歪め、荒ぶるマルキシコスが三本の腕を操り唸る。
『我は負けぬ! 我は滅びぬ――!』
「口だけならば何とでも言えますが、あなた、本当に大陸神なのですか? 魔術師相手に剣技で負けているという時点で失格、鍛錬不足では?」
『黙れっ、黙れっ、黙れぇえぇぇぇ――っ!』
神々も女神たちも魔術すら必要としていない戦いに、呆れをみせるばかり。
午後三時の女神が言う。
『ねえ、レイド=アントロワイズ』
「なんですか、午後三時の女神」
『ミス・アフタヌーンティ? それってあたしのこと?』
「午後三時ならばおやつの時間、ならばそういった呼び名でも問題ないでしょう」
談笑しながらもマルキシコスとの戦いは続く。
マルキシコスは必死に三つの腕に魔力と血管の筋を浮かべ、剣のみならず、無数の槍や斧、弓を用いて私を攻撃してくるが。
そのことごとくを、剣技のみで私が打ち払う中。
幼女の女神はキャッキャと喜びながら言う。
『あら! 素敵な名前じゃない! いいわ、あなた! あの凶悪三女神の駒でなければ本当に欲しいくらいなのだけれど、それはいいの。それよりも、魔術抜きで大陸神と戦うだなんて、ちょっと手抜き過ぎなんじゃないかしら? みんな、あなたの魔術を見たがっていると思うのよ?』
「私とて、ある程度の魔術の使用――つまり私の情報の露呈を覚悟していたのですが、相手がこれでは……」
『そうね、マルキシコスが弱いせいね――ねえ、マルキシコス~! このままじゃ負けちゃうのよ~、つまらないのよ~! もうちょっといいところを見せてくれないかしら~?』
眉間に太い青筋を浮かべるマルキシコスが吠える。
『我に、我に味方をする者はおらぬのか!?』
『当たり前なのよ。大陸神って言うのは、ダンジョン主のようなものなのよ? あなたたちは大陸という名のダンジョンのボス。他のダンジョンを助けるようなダンジョン主がいたら、ちょっと違うって思うでしょう?』
『ならば、女神は! 女神はどうしたっ!』
マルキシコスが必死の叫びを上げる。
『この男は異常だ! 明け方の女神、昼の女神、黄昏の女神。悍ましくも美しき三女神の駒だからといって、これは異様だ! こんな異常な駒を放置していて、良いのか!? 今、この場で創造神たる女神が一致団結し排除せねば、必ずや厄災となろう!? 何故分からぬ!』
観戦していた別の女神――漆黒ドレスの女神の一柱が、立ち上がり。
ぎしり。
夜のヴェールで覆う顔の隙間から、夜空の星のごとき微笑みを零し。
声を発する。
『笑止――分かっておらぬのはキサマじゃ、マルキシコス』
『なにを!?』
『朕は思うのじゃ。恐らくは他の女神たちとて同じであろうて。レイド=アントロワイズ。そやつは朕らを狂わせる。嗚呼。その身が、その心が、その肉体が、欲しいと心の底から思うておる。如何に悍ましき三女神の所有物といえど、手を出してみたくなる――蕩ける甘露じゃ』
他の女神たちも立ち上がり。
嗚呼。ワシの駒をぶつけてみたい。我の駒が先じゃ。わっちの駒が先でありますえ。
女神たちはそれぞれに昂り、私を眺めて恍惚としている。
正直、あまりいい気分ではないのだが。
『ならば! 三女神から奪うためにも、今ここで全員の総力をもって!』
『愚かな大陸神よのう。朕らはそれぞれがその新しきおもちゃを独占したいのじゃ。白銀ウサギを一人で食べたいのじゃ。こやつらは皆ライバル……協力など、笑止。多くの競争相手を前にし、どう出し抜こうか悩んでおる最中。マルキシコスといったか、そなたがどうなろうが女神に関係などない』
それでも助力を願おうとするマルキシコスに、女神たちの冷めた目が襲う。
夜を纏う女神が、侮蔑の冷笑を零して言った。
『羽虫よ、そなたとて大陸神。大陸という迷宮の、人類という種族のボス個体。つまらぬだけでは飽き足らず、遠吠えを続けるというのなら不快じゃ。疾く爆ぜるがいい、最後の輝きと絶叫をもって朕らの不興を慰みに変えて見せよ』
『だそうよ、マルキシコス。あなた、顔は良かったのだから、もうちょっと頑張って戦えていれば、助けてくれる女神もいたのでしょうけれど。おしまいなのね』
午後三時の女神が、幼女の顔の中に女神の威光を浮かべ。
『さようなら――剣神。あなたの最期。あなたの断末魔だけはきっと、とても美しいから。みんな満足するはずなのよ、だから安心して。滅びなさい』
大陸神と女神の間には、明らかな壁があるのだろう。
コロシアムでの殺戮を鑑賞するかのような女神たちが、見た目だけは美麗な剣神の断末魔を求め、じっと、重い視線を向けていた。
マルキシコスは絶望の中で周囲を見渡し。
『ああぁぁ、あぁああああああああああぁぁぁぁぁ――ッ!』
最後の足掻きとばかりに、私に向かって無我夢中で剣や槍、斧や弓と言った武器での乱舞攻撃を開始。
捨て身の特攻をしかけてきたのだ。
油断は禁物とは思いながらも、既に負けはない。
もはや勝敗は決している。
だが、もうこれで十分だった。
そもそもだ。私の思惑は、神マルキシコスを滅ぼすことにはない。
人間と海竜の戦争を止める事。
人間や海竜の停戦を見届ける時間稼ぎをしているだけと、多くの女神たちは察しているのだろう。
気付いていないのは実力、または観察眼のない一部の大陸神。
そして、私と戦っているマルキシコス。
もはや思考せずとも自動で戦えている私は、さて、どうしたものかと考える。
このままマルキシコスを滅ぼしてしまっていいものかどうか。
この大陸の魔術に関してはネコに魔術を授けた時と同じことをすればいい、問題ないとは確信しているのだが。
私が魔術を授けるとなると、それはつまり私がこの地を管理しなくてはならなくなるという事。
やれなくはないが。
正直、面倒なのである。
二百年前ならともかく、そこまでの思い入れがこの地にはない。
だが、私が大陸神を滅ぼしてしまうのなら最低限のフォローをしないのは無責任。
だから思うのだ。
どうしたものかと。
考えていると、脳に声が響きだした。
『もしもーし、そなたの妾じゃ。聞こえておるか?』
『アシュトレトですか、どうしたのです』
『どうもこうも、悩む必要などあるまい。とっとと大陸神など滅ぼし帰ってこい……と、言いたいところであるが。おぬし、なんやかんやとその場のノリで行動をする悪癖があるな』
女神には言われたくないのだが。
『いまおぬし、妾には言われたくないと思ったであろう』
『以心伝心できているようでなによりです。ところで人間と海竜の戦いは――』
『レイドよ、そなたの思惑通り戦っている場合ではないと判断したのだろう、完全に停戦状態。今、ダゴンが海竜たちの側で見張り、バアルゼブブが人間たちを見張っておる。脆弱なる人と竜じゃ――さすがに、おぬしらの戦いに巻き込まれたくはなかろうて』
『そうですか――』
怒り狂った存在や、いがみ合っている者たちを冷静にするにはどうするか。
答えは簡単だ。
その横でもっと取り返しがつかない規模の争いを起こせばいい。
それを私は実践しているのである。
『――アシュトレト』
『なんじゃ』
『大陸神を厳密に分類すると、大陸という名のダンジョンボスという認識は正しいのでしょうか』
『他の女神が語ったのか。それはちと妬けるが、概ねその通り』
ふむと私は考え。
荒ぶり最後の特攻を仕掛けてきているマルキシコスに目をやり。
「このままあなたを滅ぼすことは女神の意向に沿うことになる。それも面白くありませんね」
『ならば我を見逃してくれるのか!?』
「それはそれであなたはつまらぬ存在として女神に消されるだけ。ならばこそ、こうしましょう――」
私は杖でも剣でもなく顕現させた魔導書を手に乗せ。
「魔王を調伏し、眷属にできたのですから――次に実験することはもうお分かりですね」
『痴れ者がっ、我を、神を眷属にしようとでも言うのかっ』
「それができるかどうかをあなたで実験したいのです。まあ私の器となった赤子が誕生した件に関して、あなたには一定の責があるのでしょう。自業自得と割り切って下さい。それでは神マルキシコスよ、どうかご覚悟を」
『どこまでも神を愚弄しおってっ! 許さぬ、許さぬぞ!』
もはや三流悪役のセリフであるが。
私は魔導書を手に詠唱する。
「汝マルキシコス、その神性はマルス。守護する聖獣は狼。ならば汝もまた、狼の獣性を得る者也や」
詠唱と共にマルキシコスの周囲を魔法陣の檻が包みだす。
それは分霊だけではなく、神の本体にまで効果範囲を拡大。
当然、相手は抵抗するが。
『テイムなどされてたまるか!』
「我、レイド=アントロワイズの名において命じる。其れはネコの足音より作られ、魚の息に流され鳥の唾液で固められし楔にして鎖。汝の獣性をもってして、我は汝を捕縛せん。人が人であるように、神が神であるように、魔物はまた魔物。祖は等価なる魂。祖は一つの源流へと流れゆく」
詠唱が力となり、それは鎖となって顕現し始めていた。
鎖に捕らえられたら最後。
魔物のように捕縛されると察しているのだろう、マルキシコスは本気の抵抗でその筋骨を蠢かすが――全ては私の防御を下回る攻撃。
そもそもこの神では、能力を数値とした場合の「一のダメージ」すら、私に与える事ができないのだ。
空間から逃げようとするも、ここは遮断された次元。
マルキシコスの空間干渉力ではヒビを入れる事すらできないようだ。
引きつった顔で振り返り。
『やめろっ、やめろぉおおおおおぉぉぉぉおおおおぉ!』
大陸神は情けなく吠えていた。
私の手のひらの上で輝いていた魔導書が閉じる。
パタンと閉じられた書の音が鳴った。
その直後。
女神たちが見守る前で、私は瞳を煌々と赤く染め上げ魔術名を宣言した。
「神従属魔術:【猛き神狼ノ首鎖の宴】」
神狼すらも捕らえ戒める鎖の輪が――ジジジジィィッィイ!
マルキシコスを捕縛していた。
判定は成功。
大陸神マルキシコスは隷属状態。
私との強制従魔契約を結ばされ、唇を強く噛みしめる屈辱の中で既に服従の姿勢をとっていた。
女神と大陸神を見渡し私は言う。
「見世物は終わりです、解散してください」
『あららら? あららららなのよ? 殺さないのかしら?』
「そもそもこれは本来私と神との私闘。それを許可なく勝手に覗いていたのはあなた方でしょう。面白い、面白くないを語る権利すらあなたたちにはないのでは?」
午後三時の女神が微笑み。
『それもそうね、けれどあなたは勘違いしているのよ! レイド=アントロワイズ!』
「はぁ……なにがですか」
『そんな嫌な溜息をつかないで頂戴。大陸神を辱めて強制眷属化するなんて、とっても素敵じゃない! やっぱりあなたは最高よ! でも気を付けて、あたしだけじゃなくて他の女神たちも、今の余興で、もっとあなたに興味を持ったみたいなのよ?』
その言葉に嘘はなかったようだ。
これは殺すよりも強い、神への屈辱と侮辱。
男神マルキシコスを屈服させた事実に、女神は大変盛り上がったようで。
夜のヴェールを纏う漆黒ドレスの女神が言う。
『美しき白銀色の魔王よ――見事であった。朕はそなたを気に入った。悍ましき三女神に伝えよ。朕もこの宴に参加するとな』
「ご自分で伝えたらどうですか」
『ふふふ、良い目じゃ。なれど、朕とあやつらが直接顔を合わせれば最後、世界を滅ぼしかねない終わりの宴の始まり。まだこの世界を壊す気などないのでな――さらばだ、男よ。また近いうちに巡り会い、睦み逢おうぞ』
告げた直後に、女神たち全員が消えていた。
空間が解除され、他の大陸神も散っていく。
おそらく、この空間に干渉していたのはあの夜を纏う女神の力だったのだろう。
三女神に匹敵するかどうかも、私には判断できなかった。
つまり。
少なくとも、まだ私では力量すら分からぬ高みにある女神という事である。
「まったく、まだ強さには先があるとは――神とは本当に恐ろしい存在ですね」
『レイド=アントロワイズよ。我が主よ、ご命令を――』
「ああ、本当に従属しているのですねマルキシコス」
ギリリと奥歯を噛みしめる音がするが。
それでも。
『あなたが我が主であることに違いはない。それに、隷属が解かれれば、あの悍ましき女神たちはっ、我を必ず弄ぶであろうからな……っ』
「魔王だけではなく、大陸神も女神には苦労させられているようですね」
『奴らは創造神も同じ。命も尊厳も、何とも思ってはいない――』
屈辱を覚えているようだが、その裏腹。
この契約により、女神たちが望んだ殺戮ショーから助けられたと悟っているようである。
どうやら、よほど屈辱的な扱いを女神から何度か受けたことがあるようだが、ともあれだ。
私は言った。
「あなたは大陸神の地位を維持したまま――人間と海竜との間に立ち、今回の騒動の清算を御願いします。あなたが私にテイムされたことは、人間たちも海竜たちも知らない筈。神に命じられれば、余計な争いはしばらく避けるでしょうから」
『人間や海竜を守るつもりか』
「結果的にはそうなりますね」
『甘いな――魔王よ』
「……。別に、無駄な争いが嫌いなだけです、戦争とは――文化を育てるうえで非効率な消耗ですからね」
告げる私に、マルキシコスがつまらなそうな顔で言う。
『我は貴様を必ず殺す。いつかその寝首を掻かれぬように精々気を付けることだ――っぐ、がぁぁぁ』
「あの……どのように思うのも行動するのも勝手ですが――言っておきますが、神をも縛るグレイプニールの魔術はかかったままなので、反意を企むと自動的にそうなりますよ」
『分かったっ、わかったから緩めよ、外道め……くそっ!』
反抗的であるが神は神。
一応は大陸神。
まあ、使い道は多くあるだろう。
見ためだけなら、瞳を閉じても全てを見通す涼しげな剣聖や剣神。
その実態は、女性ばかりに魔術を授け、行動も短絡的で、鍛錬をサボる癖もあり、なおかつ脳筋気質。
男神マルキシコスを従えたは良いが、どこまで役に立つかは正直かなり怪しいだろう。
それでもこれで騒動は終結する。
力技であるが、神に命じさせて無駄な争いを止めさせるという結果は、そう悪くはない筈か。
私は停戦している彼らのもとに戻ることにした。