第44話 西からの使者
姫が死んだ日から一週間ほどが過ぎていた。
ピスタチオ姫が失踪したというのに、クリームヘイト王国は落ち着いている。
今は王城。
私はショーカ姫の従者のような状態となっていた。
ショーカ姫は暗殺者が自分の命令に従い、邪魔な姉を始末したとご満悦。今日も魔術の授業も、帝王学の授業もせずに、傍で従う私の膝に手を置き――ふわふわな髪を揺らしている。
「レイド様! どうですか! この髪飾り! 姉ではなくわたしを選んでくださったあなたのために。あなたの素敵なプリンセスになるために、あなたにわたしの美しさを見せるためにショーカが急いで用意させたのですよ!」
「ええ、あなたはとても愛らしいですよ」
私の口からは穏やかな声が漏れる。
実際、見た目だけなら愛らしい子リスで小リス。王女という称号がなくとも、町で三番目程度には愛らしい少女として話題にはなっただろう。
だが、その内面は既に政争に利用されて汚染されている。
実力では負けていたコンプレックスがそうさせるのか、愚かな姫は食い入るように私に言う。
「姉より可愛いですわよね!?」
「ええ、そうですね。彼女は苛烈な方でしたから、知識や気丈さで言えばピスタチオ姫殿下の方が秀でていたでしょうが――愛らしさで言えばあなたが上でしょう」
「酷いですわ、気丈さでわたしは負けていたと……?」
「ですがそれは先週までの話。もう彼女はいないのです、ならばあなたがこれから知識と気丈さを身に付ければいいだけの話ですよ。気の強さを示す気丈さはともかく、知識は本当に必要となります。あなたは女王になるのでしょう?」
知識を学ぶ機会を与えても。
「それは全て辺境伯がして下さいますの」
「確か、西の領地の男でしたか」
「ええ、わたしを一番に思ってくれて、わたしをいつも一番にしてくれようと動いてくれる、素敵な殿方ですの! まだ歳も三十、ふふふふふふ、どうしますかレイド様。わたしを盗られてしまうかもしれませんわよ?」
姫をいいように使っている野心家の一人だろう。
実際、三十の若さで辺境伯の地位にあるのは立派。辺境伯とはこの国ではある程度の独立が許された領主であり大貴族、王族を除けば上位にあたる存在だ。
姫の目線を受けながら、私の口だけが動く。
「辺境伯を好いておられるので?」
「いいえ、確かに侍女や小間使いたちからは美丈夫だと評判ですが、わたしは野蛮な男は好きではないのです」
「西の辺境を治める領主です、魔物による侵攻を抑えるために戦う必要のある御方。野蛮と言っては少々、可哀そうですね」
「まあレイド様はお優しいのですね」
「いえ、あまり敵を作りたくないだけですよ」
「ならば、わたしを選んだあなたの選択はとても正しいですわ! この国はわたしのものになる、お父様もお母様も――いいえ、わたしに酷いことばかりを言ってきたピスタチオお姉さま以外のみんなが、わたしを愛してくれていますもの!」
膝の上に乗ってきた姫に私が言う。
「そうですか、彼女以外は皆、あなたに優しかったのですね」
「ええ! ええ! だからあんな人、死んでしまっても仕方がなかったのです!」
「悪い姉だったのですね」
姉以外、誰も、何も――この無垢なる愚物を叱ってやりはしなかった。
前のように、ごく一部の忠臣が進言しても、それが邪魔だとばかりに消されてしまう。
だから姫は悪さを自覚できない。
悪いことを悪いと教えられなかった猿と同じ。
そう考えるとこの愚物もある意味で被害者。
教育次第ではまだやり直せる可能性はある。
「ええ、本当に……嫌な姉でした。わたしはこれほど頑張っているのに、いつも小言ばかり。やれ王族の女ならば魔術を身に付けよ、やれ魔術が嫌ならせめて女騎士としてのスキルを磨けだの。本当に、戦いがお好きだったのでしょうね」
「女騎士としての適性がおありなので?」
「主神マルキシコス様の趣味なのでしょうね、女ならば魔術を放て、剣を握って華麗に戦え。それが神の御意思。分かってはいるのです、けれど、それってとても野蛮で、わたしには似合いませんのよ?」
無骨な剣神のように見えたマルキシコスだが、その実態は存外に俗物。
女好きで女性にばかり魔術を授け、なおかつ女騎士が好きとなると、なかなかどうして、欲に忠実な神のようである。
ふっと鼻で笑ってしまったせいだろう。
「レイド様? どうかなさったのです?」
「いえ、くだらぬ神であるとそう思っただけですよ」
「まあ! レイド様は神にさえそう言って下さるのですね! わたし、いつも思っておりましたの。マルキシコス様は少し、おかしいのです! 魔術は女性だけのモノ、大規模戦闘の攻撃手段である魔術を女性だけに独占させ、女性だけに戦わせるのは時代遅れだと、わたしはずっと言いたかったのです!」
魔術が女性のモノだったのは半年前の話。
もはやこの大陸の生きとし生ける者が魔術の素養に目覚めているのだが。
この国の時間は止まったまま。
ピスタチオ姫がいなくなったことさえ肯定するこの国は、もう駄目だろうとさえ思えてくる。
元より口煩い姫。
前妻の姫。
小さき身でこの国を支えていた姫は、国の要だったというのに。
私は辺境伯の屋敷の位置を地図に表示しながら、冷めた瞳でこの王国を眺めていた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
黄昏が終わり夜が来る。
満月の下には、大きな屋敷。
ここは大陸の最西端。
海は酷く荒れていた。
「誰も、何も、気にしない――それが当たり前になってしまうと気付かない。皮肉ですね」
独り呟いた私はとある貴族の屋敷の中。
王都から離れたクリームヘイト王国の辺境地。
檻の中に閉じ込められていた暗殺者の猫を解放し、微笑んでいた。
ネコはあまりエサを与えられていなかったのだろう、衰弱していたが既に私の魔術で快癒している。
「何者だ――きさま」
回復魔術の魔力の揺らぎのせいか――侵入者である私に気付いたのだろう。
屋敷の私兵が取り囲んでいるが、その奥にいる寝巻の男には見覚えがあった。
姫いわく、野蛮な領主。
王から独自の権力を与えられている、例の辺境伯である。
「おや、私の顔をお忘れですか? 先日、お招きいただいた晩餐会でお会いしたと思うのですが」
慇懃な礼をしてみせ、私は魔力の灯りをともす。
戦いを知る辺境伯の強面が、ぎしりと尖る。
「賢者レイドだと!? 何故きさまがここにいる!」
「猫を返して貰いにまいりました」
「そういうことではない――っ! 今きさまは、あのバカ姫と静かに過ごしている筈であろう……っ」
「ただの転移魔術ですよ。ほら、街と街とをつなぐ転移技術が確立されていたでしょう?」
「何を馬鹿な、あれは地脈を利用し魔力の流れにより転移する装置。地脈が届かぬこの辺境には……それができるというのか、貴様は!」
一応は、私が常識の外にある存在だとは理解をしたようである。
辺境伯の私兵が、剣を構える中。
肯定も否定もせず、私はネコの頭を撫でながら苦笑してみせた。
「それよりも、閣下。この国の法や取り決めを確認しましたが、辺境伯の地位にあっても他人の猫を押収して良いとはどこにも記載がありませんでした。この子は暗殺者にお返ししてよろしいですね」
「暗殺者どもの鎖を放つというのか」
「弱者の命を盾に狂犬を飼うなど、悪趣味ですよ閣下」
私の腕の中の猫が私兵や辺境伯に向かい唸りを上げている。
そこにあるのは敵意。
「あの小娘の腰巾着になったと聞いておったが、血迷いおったか! このような事をしてタダで済むと思っているわけではあるまいな!」
「小娘? ああ、ショーカ姫の事ですか。先ほどからバカ姫だの、小娘だの、まあお気持ちはお察ししますが……いくらあなたが権力者であっても次期女王を小娘と呼ぶのはどうかと思うのです。それがこの領地でのマナーなのですか」
「黙れ!」
「おや失礼。お叱りを受けなくとも黙りますし、帰りますよ。しばらくしたらここは戦場となる、厄介ごとは御免ですからね」
転移陣が私の足元に展開される。
辺境伯の強面が揺らぐ。
「戦場だと!?」
「ええ、この辺境地は西の海と面しておりますから、ちょうど彼らの進軍ルート。ああ、早いうちの対処をお勧めしますよ、まあもう時間切れでしょうが」
「なんだ、この音は……っ」
「ピスタチオ姫があなたたちの手によって暗殺された今、海洋魔術は失われた。海を守っていた隔たりが消えたのです――それは今まで保たれていた平和の終わりを意味しているのでしょう。愚かなことをしましたね」
轟くのは稲光のような音。
海竜の唸りだった。
「きさまぁああああああああぁぁ! いったい、なにをした!」
「なにも」
「嘘をつくな!」
「困りましたね、本当に何もしていないのですよ。私はただ、領地が滅ぶ前にこのネコを回収に来ただけ。何もしないからこそ、こうして彼らの進軍が始まった、順序が逆……いえ、こういう場合はどう言うのでしょうか。該当する言葉を探すとなると、なにもせず見捨てるになるのですが……ともあれ、私は本当に一切、干渉しておりませんよ」
地鳴りが、屋敷を揺らす。
海竜の群れが上陸したのだろう。
なまじこの辺境伯は戦える領主だったからだろう、海竜たちの気配に全身の毛穴を広げ、肌に大粒の汗を浮かべ始めていた。
「この魔力、この覇気……いったい、なにがここに近づいているというのだ」
「それではサービスです。彼らは海竜。ピスタチオ姫が海洋魔術によりその進軍を封じていた、ドラゴンの群れですよ」
私の杖から投影されるのは、海竜の進軍の映像。
「なぜ、なぜドラゴンが我等が領土を侵す!?」
「それを知っていたのもおそらくはピスタチオ姫だけだった。けれど、彼女を消したのはあなたがたです。まあ、自業自得、ですね」
おそらくピスタチオ姫だけは古文書の解読を成功させていた。
だから、彼女はいつも脅威に備えていた。
私の存在に過敏に反応したのは、そのせいもあったのだろう。
「待て、交渉だ!」
「交渉?」
「ああ、そうだ――! きさまが欲しいものを何でもくれてやる! だからこの地を助けよ!」
「生憎と、あなたが所有するモノの中に私の心を動かすほどの価値のあるアイテムは一つもありませんよ」
「きさまが賢者ならば、究極魔術の書に興味があるだろう!」
究極魔術の書と言うが。
「もしや、この【核熱爆散】の書の事ですか?」
「どうしてそれをきさまが」
「いえ、実はこの子を治療した時についでに私の眷属化をさせたのです。そして私はこの大陸の生きとし生けるもの、全てに魔術の素養が発生しているのかの実験がしたかった。そんなところに、屋敷の中で不釣り合いな魔導書の気配を感じましたので――拝借しました」
「盗んだというのか、我が家の秘宝を!」
「おや人聞きが悪い、この国には誘拐された猫が誘拐された家の魔導書を読んではいけないという法でもあるのですか? まあたしかにここは独立領。王国憲章とは異なる規則があっても不思議ではないですが」
ネコの瞳が魔導書を読み解き始める。
魔導書を読み解くには神の力が必要不可欠。
ならば私が神の代わりに、このネコに魔導書を読み解く加護を授ければいいだけ。
これは実験だった。
誘拐され、愛する家族と引きはがされたネコがどこまでできるのか。
魔王たる私でも、他者に魔術の加護の付与が可能かどうか。
ネコの瞳、その眼光には究極魔術の書が記す魔術式が流れ――それはやがて輝きとなってネコの身体を包み始める。
これが魔術の習得。
魔王である私には、魔術伝授の能力があると思っていいだろう。
魔導書が力を失い、塵となって消失する。
「さて、私は別にあなたたちをどうこうするつもりはありません。けれど、この子はどうでしょう?」
「やめろ……」
「大丈夫ですよ、まさか温厚な猫に復讐されるような事を偉大な閣下がなさるとは思えない。きっと、何事も起こりません。そうでしょう、閣下?」
「誰か、そのネコと賢者を殺せぇええええええぇぇぇ!」
叫ぶ辺境伯の目の前。
檻に閉じ込められていたネコが、シャァァァと鳴く。
それは猫にとっての詠唱だったのだろう。
そして、マルキシコスは私との約束を守り、この大陸の生きとし生ける者に魔術を授けた。
【核熱爆散】は発動されていた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
消滅する光の柱の中。
崩れる屋敷からネコを連れ、私は別空間に転移。
ふわふわな猫を傷つけぬようにぎゅっと抱き。
家族を人質に取られていた女暗殺者が言う。
「ニャースケ……ああ、ああ。良かった、生きてたのね……あ、ありがとうございます」
「辺境伯への挨拶のついでですからね、構いませんよ」
「あ、あの、ニャースケの爪が輝いているのですが、こ、これは」
「二度と悪い人間に捕まらないように、レベルを最大まで引き上げておきました。その影響でしょう。あなたには懐いているようですから問題ないと思いますが、他の人と会わせる時はお気をつけなさい。今のその子は魔竜すら一撃で滅ぼし、ありとあらゆる基本魔術を習得し、天変地異すら引き起こす力を習得しておりますから」
暗殺者の女は冗談と受け取ったようで、不器用に笑ってみせたが。
「本当の事なのですが、まあいいでしょう。ついでです、他の人質になっている家族も一応解放しておきましょう。案内していただけますか?」
「え?」
「どうしたのです?」
「い、いえ。てっきりニャースケが一番最後だと思っていたのですが」
「一番弱いネコを助けるのが優先順位では?」
私には人の命も猫の命も等価にしか見えない。
むしろ愛らしいネコの方が価値のある命に見えているほどなのだが。
ともあれ、私は他の暗殺者の家族も解放して回った。
海竜の進軍も、同時に進んでいた。