第3話 転生ロジック
既に貴族屋敷の香水の匂いは、家族の香りになっていた。
六歳となった私は用意された個人の部屋にて、魔術のレクチャーを受けていた。
家庭教師を雇うことになったのである。
騎士貴族アントロワイズ家の末弟として購入され、一年が過ぎている。
新しい家族の内訳は、騎士貴族の義父ヨーゼフと、その妻にして同じく女騎士のジーナ。
そしてその一人娘の姉ポーラ。
ポーラお姉ちゃんと呼べと、毎日のように強制してくる元気な姉である。
この当時、既にレイドたる私は多くのことを思い出していた。
処刑された奴隷の下で蠢いていたから、ドレイをもじり、レイドと名付けられた事も。
私がかつて、別の世界に生き住んでいた事も。
そして、この世界に引き込んだ三柱の女神がいるという事も。
女神たちの声がする。
『ほれ、見てみよ。あれが今のあの男の姿じゃ。なんとも愛らしいではないか』
『あ、あ、あた、あたしは、ま、前の方が、えへえへへ、こ、好みかも……?』
『外見などどうでもいいでしょう、あたくしは心や知識が大切だと思うのです』
私は彼女たちに殺され、ここにいる。
異世界転生と呼ばれる現象が実在するのか、それも分からない。
けれど少なくとも六歳となった私の脳に、本来なら知りえない情報が爆発的に広がったのは確かなのだ。
私の出した見解は二つだった。
一つは単純だ。
姉の教育により言語を理解したことがきっかけで脳が活性化し、かつての暮らしを思い出した。
二つ目の見解も単純。
貴族として拾われた孤児に、日本人であるという私の魂が降ってきて、身体や精神を乗っ取るモノ。
この場合の私は私であって、レイドではない。
けれど私の自己認識はレイドだった。
だから私は母の母体の中に転生し、レイドとして作られたと認識することにしている。
ともあれ、私の中に異世界の住人としての知識があると自覚したのは、六歳の夏。
私は魔術を扱える男子として、それなりに大事に扱われていた。
部屋の外、庭から親子の訓練の声がする。
「お父様! 覚悟!」
「はは、ポーラの剣はまだまだだが、筋がいい。すぐにお父さんの腕は超えてしまうかもしれないね」
「そうよ! すぐに国一番の女騎士になってやるんですから!」
八歳になったポーラは魔導書ではなく剣を握っていたのだ。
騎士貴族の家系であり、両親ともに騎士なのだ。
本来ならばこれが正しい姿なのだろうが、彼女はあっさりと魔術を捨ててしまった。
義父ヨーゼフにとっては娘がようやく騎士の剣術を学んでくれるようになり、私に大変感謝しているようだった。
姉があれほど大好きだった魔術を捨てた理由が、おそらく私だからである。
アントロワイズ家は王から命令され娘を生贄候補にされてしまうほどの、弱小貴族。
一般人よりは当然裕福だが、それでも貴族としては下の中の財政力。
外から教師を招くなら、一人が限界。
剣術ならば両親に教わればいい――けれど魔術はそうもいかない。姉ポーラはこの家に魔術の家庭教師を招くにあたり、自分ではなく私にその教師をつけたのである。
他の家族も反対しなかった。
既に私はアントロワイズ家の正式な家族として、心から受け入れられていたのだ。
素直に私はそれを温かい記憶と認識している。
今のポーラの口癖はこれ。
「レイド! あなたはきっと、あたしが守ってあげるのだから! だから、あたしを一番にしなさい。どれほどいい出会いがあったとして、どれほど恋焦がれる女性に出会ったとしても、あたしは姉。あなたの唯一のお姉ちゃん! あなたにとっての家族。だから、あたしを信じなさい!」
私が屋敷の中で魔術の家庭教師から指導を受けている間に、これ。
貴族令嬢とも思えぬ、庭からの草原を揺らすほどの爆音。
屋敷を取り仕切る無口な執事がうっかり、くすりと笑みをこぼしてしまう程の声である。
ヒマワリのような笑顔という言葉があるが、彼女はまさにそれだった。
思わず苦笑してしまった私の銀髪が、窓に反射し揺れている。
私はあまりこの銀髪と、血のような赤い瞳があまり好きではない。だからつい目をそらしてしまったのだが――失敗だったかもしれない。
視線の先には、赤い口紅を震わせる女性がいた。
苛烈な姉ポーラと、それを温かい声で叱る義父ヨーゼフ。
あちらが太陽だとすると、こちらは月ではなく闇。
家庭教師としてやってきたのはベテランといった言葉や、マダムという言葉が似合いそうな、若づくりをした魔術師の女性だった。
彼女ははじめ、ちゃんと授業をしてくれていた。
けれど、二日目、三日目となると、だんだんとこうした態度を見せるようになっていたのだ。
昼前だからだろう。
明るい太陽を外から受ける部屋は、余計に昏く見えていた。
私は言う。
「どうしたんですか、先生」
「どうしたって……なぜ、なぜあなたは平気なのですか?」
マダム教師は声を震わせ、目線を下に落としている。
彼女は父が騎士仲間から紹介して貰った、優秀な魔術講師だったのだろう。
だからこそ、見えていたのだと思う。
「そんなに悍ましいっ、見たことも聞いたこともない神影。女神を三柱も侍らせて……っ。あぁぁぁぁぁああぁぁ……もう、嫌です。もう、あたくしには無理なのです」
マダムは発狂してしまった。
どうやら私にはやはり、三柱の女神が憑りついているようだった。
『失礼な奴じゃな』
『し、仕方ないよ、あ、あたしたち、ぼ、ぼく、たちは、普通じゃ、怖いだろうし……』
『あら、けれど宜しいのではなくて? この魔術師、あまり強くなさそうですわ』
ただこの女神たちは誰の目にも見えるわけではないらしい。
姉ポーラ程度の、ただ魔術が扱える人間には見えていない。
そもそも魔術を扱えない義父ヨーゼフも、魔術を軽く使える程度の義母ジーナにも見えていない。
けれど、一定以上の魔術師となると、これらがはっきりと見えてしまうのだろう。
だからマダムは頭を抱えて座り込んでしまった。
どれほどの魔術師ならばこれを読み取れるのか。
そもそもこの三柱の女神は、なんなのか。
当時の私はまだ、ほとんど何も知らなかった。
マダム先生はたった四日で家庭教師を辞退。
報酬を全額返金し、逃げるように屋敷から退去してしまった。
申し訳ありませんが、あたくしには手が負えません。
もっと強力な魔術師か。
あるいはアレが見えないもっと弱い魔術師に頼りなさい。
と、最後に教師らしいアドバイスを残して。
私は師が師となる前に失ってしまった。
ただこうも考えられる。
無報酬で三日間も魔術のレクチャーを受けられたのだ。
きっと、私は幸福なのだろう――と。
窓に反射し映る女神が、うっとりと……。
私の頭を撫でていた。