第35話 女神の知らぬパンケーキ
屋敷の窓は開いていた。
かつて賑やかだっただろう大きな屋敷に、風が通る。
私と女神アシュトレトは老婆の最期を悟っていた。
焦点のあっていない色素の薄い目を開き。
老婆が言う。
「あら……みなさんでお集まりになって。どうしたの? お腹、空いちゃったのかしら?」
「問題ないですよ、既に食事は済ませています」
「そう。残念ねえ、はちみついっぱいのパンケーキを焼こうと思っていたのだけれど。そうだわ、オヤツに焼くから、いまのうちに準備しておこうかしら」
言って老婆は起き上がろうとして。
……。
あぁ……と、動かぬ体と自らの薄くなっていく肌の色を見て、微笑む。
「そう……、そうなのね。あたしにもようやく、お迎えが来るのね」
「ええ、あなたの魔力と魂が肉体から剥離し始めている。既に、死と生の境にある。失礼ですが、おいくつで?」
「いくつだったかしら、ふふ、もう忘れちゃったわ。けれど、合計すると百年くらいは生きたんじゃないかしら」
老婆が横を向く、カーテンの奥から注ぎ込んでくる温かさを眺めていた。
穏やかな昼の陽ざし。
温かなベッドに横たわる老婆が顔を傾けると、太陽に触れる白髪が、まるで金糸のように輝いていた。
風に揺れる金の糸を、普段は陽気で不遜なアシュトレトの瞳が眺めている。
その瞳には、薄らとした雫が浮かんでいるのだ。
老婆がしわの目立つ口を開く。
「まあ、アシュちゃん。あたしのために泣いてくれているの? 嬉しいわ」
『おかしなことをいう。妾は泣いてなどおらぬ。妾は完璧な存在だ。人間如きの死に狼狽するほど、妾は弱くはない。それに、おぬしの目は見えていないのだ、分かるはずなどあるまい?』
握る老婆の手に落ちた涙を、女神は知らない。
きっと、自分が泣いていることに本当に気付いていないのだろう。
ダゴンが老婆を看取るアシュトレトを、不思議そうに眺めている。
明け方の女神にとっても予想外の出来事なのだろう。
老婆が言う。
「そうね、ふふふ。ごめんなさいね、ならきっとあたしを悲しませないように、明るい優しい顔で見守ってくれているのかしらね」
『うむ、そうじゃ。妾は昼の陽ざしを司るモノ。常に明るくなれと願い、暗い顔を望まぬ』
「アシュちゃんは女神さんなのよね?」
『そう言っておろう。妾は豊穣を司る神。明けの明星にして宵の明星。かつて全ての命を愛し、全ての命を祝福した昼の陽ざしの如き神性』
女神は輝いていた。
老婆の最期を慈しむ心が魔力を生んでいるのだろう。
「そうなの、よく、分からないけれど。とてもすごい、偉い神様なのね」
『そうじゃ、妾に並ぶ者などおらぬ』
「なら……そうね。最後に……、一つだけ、我儘を。お願いを聞いてもらえないかしら?」
『ほう、ふむ! 良いぞ! まだまだ生きたいというのだな! ならばそなたの寿命とて、妾の秘術で伸ばしてやるが! と、なんじゃバアルゼブブ』
バアルゼブブがアシュトレトの薄い服の裾を引き。
違うよと、首を横に振っていた。
バアルゼブブにも分かっているのだろう。不老不死。それは良き事ばかりではない。人間にとって、正しい祝福ではないという事を。
だからこそダゴンは勇者への復讐に、ガノッサに不老不死の呪いをかけたのだから。
老婆の口が、弱々しく動く。
「ちょっとでいいの……、あたしに光を……、みなさんのお顔を、ちゃんと……見られるようにして貰えないかしら」
『そのような事で良いのならば構わぬが……本当に良いのか? 願うならば、そなたの寿命とて』
「いいのよ……、あたしはね。もう十分、たっぷり生きたわ」
『しかし……』
「あたしはね……、あたしを蘇らせてくれた人のね、不幸を知っているのよ」
老婆が過去を語りだす。
「顔に傷がある、とても強そうで、けれどとても疲れた顔をした……勇者様」
『ガノッサ……あの男か』
「そう、ガノッサさんって言ったのかしら。駄目ね、おばあちゃんになると覚えておきたくとも、どんどんと頭の中から消えてしまって……。けれど、あの時のね、あの人の、顔だけは覚えているわ。再生されていくあたしの……金色の髪と青い瞳を見てね、最初は目を輝かせたの。けれど……違う、ファリナじゃないって……ほんとうに大きな手で、顔を覆って泣いていたわ」
ダゴンに目線を送るが、彼女は知らないという顔。
魔王となった私が人間の個体識別が苦手になったように、女神にも人間の顔の区別などつかないのだろう。
それが人ではない者の証ともいえるかもしれないが。
私が言う。
「やはりあなたは、勇者ガノッサに蘇生アイテムを使われて、蘇った存在だったのですね」
「ええ、そうよ……勝手に蘇らせたんだからって、それなり以上のお金も貰ってしまってね……、今は、あの人は、どうしたのかしら? もう死ねず、歳も取れず、ただ愛した人を取り戻すためだけに世界を徘徊してたって……とても疲れた顔をしていたわ。あれから八十年……いえ、もっとかしら、あの大きな手の勇者様は、大事にしていた奥さんに会えたのかしら?」
咄嗟に、私の口からは嘘が漏れていた。
「勇者なのです、きっと……もう再会できていると私は思いますよ」
「そう……そうなのね。そうだったら、いいわね」
「実際、可能性はゼロじゃない。ゼロではないのなら、いつか、必ず……会える日が来るでしょう」
老婆は私のウソを見抜いていた。
だから私は可能性を告げた。これは本当だ。
「あなたは優しいのね。だから、いつも女神さんたちは……あなたから離れられないのかしら? お迎えが来る前に……一度ね、お顔を見てみたいと思うのよ。アシュちゃん、駄目かしら?」
『そうか、ならば仕方ないな。数秒ならば……可能だ』
告げて、女神アシュトレトは老婆の瞳に光を宿らせる。
老婆はアシュトレトの顔を見て、にっこり微笑み。
そして私の顔を見て。
「ああ、やっぱり……ウサギさん、キラキラと輝く、あたしの……守れなかった、大事な」
「起き上がったら危ないですよ」
「いいのよ、ごめんなさいね、あの時……あなたを守ってあげられなくて。あなたを……家に巻き込んでしまって、本当に……」
老婆の瞳に映る私の顔にあったのは、驚愕。
老婆の瞳の中。
赤い瞳を僅かに揺らした青年の唇が動く。
「ポーラ姉さん?」
「そうよ、ポーラお姉ちゃんよ……やっぱり、そうだと思ったの。キラキラと輝く、あたしの宝物。そう……無事だったのね。アシュちゃんたちに守られていたから、なのかしらね」
「どうして……あなたがここに」
いや、可能性を考えればゼロではない。
姉ポーラは貴族の魔術師。金髪碧眼の魔術師。
勇者ガノッサのランダム範囲の蘇生アイテムが、不幸な死を遂げた、金髪碧眼の魔術師を対象にしていたのならば……彼女も該当者。
「ありがとう……アシュちゃん。最後に、あたしの一番大好きな弟に会わせてくれて、お顔を見せてくれて。あたし……とっても幸せよ」
老婆はアシュトレトと私を交互に眺め。
あの日、まだ転生者だと自覚をする前の私を抱きしめたように、最後に私を抱きしめ。
そして……。
その瞳を閉じた。
「……どうか、幸せに、なってちょうだいね」
「姉さん……」
「あぁ……眠くなってきちゃったわ……少し、休むわね……」
かくりと、最後に強い息を漏らし。
声にならない声で、レイド……あたしの、レイド。
と、唇だけを僅かに動かし。
しばらくして。
呼吸も、心音も止まった。
老婆は動かなくなった。
少しずつ、身体が冷たくなっていく。
これが人の死だ。
あの日、核熱爆散で感じる事さえできなかった……寿命による、静かで安らかな死。
「お休みなさい、姉さん」
告げた私は冷静だった。
とても穏やかだった。
涙が流れないのは、私が魔王として覚醒している影響だろう。
反面。
アシュトレトはポロポロと大粒の涙をこぼしていた。
動かなくなった老婆の手を握り、美しき女神の唇が動く。
『美しくもない、老婆じゃ。ただムシケラに等しき、人の命じゃ。なのに、なぜ、妾は泣いておる? これほどまでに愛おしく、美しく思える?』
「美しいと感じるのならば、それはあなたが価値観を広げたという事でしょう」
『のう、レイドよ。妾はなぜ、なぜ泣いておるのか? そなたならば理由が分かるのであろうか?』
「それはあなたが決める事ですよ、アシュトレト」
老婆の瞳を整え、ベッドに寝かせ。
私は最後にその髪をとかしていた。
幸せそうな最期を看取り。
アシュトレトは老婆の頬に手を触れ。
本当に、愛おしそうなしぐさで撫で、言葉を漏らした。
『やはり、分からぬな。なぜ、この老婆は妾に感謝を述べたのだろうか……妾にはどうしても分からぬ。ただ側にいて、一緒にパンケーキを焼いたり、紅茶を飲んだり、ただ一月、共に過ごしただけだ。富を与えたわけではない、加護を授けたわけでもない。なのに、こやつは本気で妾に感謝しておるようだった……』
「本気で感謝をしていたのでしょう」
『分からぬ、妾には分からぬ。ただ側にいる、それだけでいい筈なかろう……』
長くを生きる女神である筈なのに。
まるで子供のようだった。
「誰かとともに変わらぬ日常を送る事に幸せを見出す……それが人の心ですよ、アシュトレト」
『斯様なことで幸せとは、人とは、哀れじゃな……』
「孤独ではなく誰かに看取られて往生したのなら、それは幸福だとも言えます」
『そうなのであろうな……本当に幸せそうじゃった。共に味わったパンケーキが、美味しい美味しいと……何度も頬を赤くさせておったからな。妾には正直、よく分からぬ……人とはなんとも、詮無き生き物よ』
分からぬと女神が言う。
けれどアシュトレトは泣いていた。
姉との再会と別れに泣くことすらできぬ私よりも、よほど。
人の心を持っているように見える。
私はもはや。
最愛の人の死であっても、泣かなかった。
魔王に涙の機能はないのだろう。
ダゴンもこんな結末を望みも、計画もしていなかったのだろう。
呆然と泣くアシュトレトに指を伸ばし。
けれど掛ける言葉が見つからなかったのか、私に頭を下げ陽射しの奥へと消えていく。
アシュトレトが言う。
『のうレイドよ――』
「なんでしょうか」
『妾は、そなたを殺した』
「ええ、そうですね」
『それはそなたを良く思っていた、誰かを悲しませることになっていたのではあるまいか?』
「どうでしょうか、私は嫌われていましたからね。家族もいませんでしたし、あなたが今更気になさる必要のないことですよ」
『そうか――そなたは優しいなレイドよ』
その後、アシュトレトは人間の葬儀の仕方を聞き。
私と共に、老婆を手厚く葬った。
墓には、ポーラ=アントロワイズの名が刻まれた。
もう二度と会えないと思っていた姉との再会。
あの日の事件のせいで途絶えてしまった幸せ、それを取り戻したわずか一月の営み。
そして人として天寿を全うした姉との別れ。
それは奇跡のような偶然の組み合わせだった――。
とても幸福と言えるだろう。
けれど私はもう泣けなかった。
みっともなく人前で泣くことをしなくていい今が、幸せなのかどうか。
その答えを、私は知らない。
風が通る窓の外。
手入れのされた庭には、あの日のポーラの笑顔のような草原。
昼の太陽を浴び微笑むタンポポが咲いている。
この日以降。
アシュトレトはただの野草であるはずのタンポポを見ると足を止め。
ふと、優しい微笑を浮かべるようになっていた。
《次回》
幼少~少年期編エピローグ。