第32話 魔王レイド=アントロワイズ:前編
唯一の逃げ道を目指し、魔物達は私の後ろにまっしぐら。
けれど私はこれでも本物の魔王。
強大な敵とて問題なく対処できていた。
凍り付く最上位魔物。氷彫刻の群れの中、彼女はようやく現れた。
イメージは、漆黒。黒い蛇のような女。
あの日。
【核熱爆散】で私の家族、アントロワイズ家を消失させただろう魔術師。
魔王アナスターシャがそこにいた。
王妃に対する慇懃さを披露すべく、私は胸に手を当て小さく頭を下げていた。
「お待ちしておりましたよ、アナスターシャ王妃殿下」
『貴様は――』
「初めまして、殿下。私はレイド。レイド=アントロワイズ。これ以上の自己紹介は、不要でしょう」
種族は邪霊の一種。
黒い女が距離を取り、錫杖を握る。
大魔女の名にふさわしい、高貴で豪奢な、黒き皇族の魔術ドレスを装備した女である。
『なるほどのう――我が再臨したということは、我の邪魔をしようと動いていたそなたが再臨していたとしても不思議ではなかった。そういうことか』
「おや、王妃殿下が私などをご存じとは畏れ多いことでありますね」
告げる私に――王妃の蛇のような瞳が、ぎぃぃっと歪む。
魔王アナスターシャの赤黒い瞳に反射しているのは、銀髪赤目の美青年。
仇を前にしても、私は存外に落ち着いているようだった。
対する魔王アナスターシャは焦っていた。
「あの時の悪意、返させていただきますよ」
『こざかしい!』
手にする錫杖から魔力の光弾が私に向かい放たれるが――。
さほどの威力もない。
『な……っ! 何故効かぬ!?』
「出力の差でしょうね。あなたは大陸神マルキシコスとそしてもう一柱の女神、合計二柱の神からの加護を受けている。対する私は、三柱の女神を従えている。魔王を魔王たらしめるエンジンは多ければ多い程出力を増す、単純な計算では?」
『何を馬鹿な事を、三柱からの神の加護など受けられるはずもあるまい? ほう、そうか。貴様、我を話術でやり過ごそうというのか。その手には乗らぬ!』
再び大魔女の手から放たれた魔力の光弾が天へと昇り。
それは光の粒となって、流星群のように降り注いでくるが。
私の周囲には詠唱せずとも結界が展開されていた。
『自動防御だと!?』
「ですから、ただ加護を受けるあなたとは違い、私は神を従えていると告げたでしょう――いえ、理解しようとしない者に説明するだけ無駄ですか。後ろのお二方ならば、この意味をご理解いただけると思います。降伏をお勧めいたしますよ」
言いながらも私は【鑑定の魔眼】を発動させていた。
かつてのギルドで行っていたレベル鑑定をアイテムなしで、無償で発動させる、コストパフォーマンスに優れた能力である。
相手の職業は私と同じ魔王。
長い茨のような黒髪を靡かせる彼女、その背後には二つの神影がある。
剣神とでも形容できそうな雄々しき神影の方がおそらく。
男神マルキシコス。
そして、ふわりとした印象のある幼き女神が、三女神に近い性質の異世界神だろう。
『降伏だと!? ふざけるでない――二百年前も我の計画を台無しにしてくれおってっ、どの面を下げ我の前に顔を出した! 答えよ! 我とは異なる女神の駒よ!』
「二百年前の計画? はて、何の事でしょうか」
『とぼけるでない――! よりにもよって、我が愛しきあの子に……、マルダーに我を殺させようとは! そして此度もまた、我の邪魔だと!? 許さんぞ、幸福魔王!』
「幸福魔王、あまりいい響きの名ではありませんね」
『名などどうでもよいわ!』
ぜぇぜぇと肩を揺らし発狂するアナスターシャ王妃に威厳はない。
余裕がないのは敗北を知らない経験不足。
強者を相手にしたことがないのだろう。
『まあ良い。して、勇者を手懐けた手腕は褒めてやるが――ふふふ、ふははははは! 愚かなり! 単騎でくるとは幸福魔王よ。さきほどまでの戦いが我の本気だと思っていたのなら、滑稽! 我の背後に見える神の力に気付かぬほどの愚物と見える!』
「たしかに、私は愚かでありました……」
『ほぅ、分をわきまえるだけの知恵はあったか。良い、貴様が我に従い眷属になるというのなら、そなたの暴挙。許してやらんでもないぞ』
私は肩を揺らし、魔王の如く嗤っていた。
いわゆる三段笑い、というやつである。
『な、なにを笑っておる!』
「いえ、失礼。こちらも仇の顔がどんなものかと確認しにきたのですが。とてもつまらないモノだったので、これは失敗だったと己の浅慮を嘲笑ってしまったようです」
『我を愚弄するつもりか、ええーい、もうよいわ! ここで貴様を打ち負かし魔力を食らい、完全にこの地へと再臨してくれる!』
神霊を後ろに従える大魔女が詠唱を開始する。
詠唱を読み解く限り、これは例の魔術。
『これに耐えられる者などおるまい。受けるがよい、我が最大の秘術』
「おや、【核熱爆散】ですか。残念ながら、あなたではもう発動しませんよ」
『戯言を! 妄言の中で埋もれ、疾く消え失せよ!』
彼女はまだ気付いていないのだろう。
そのまま普段通りに魔王たる大魔女アナスターシャ王妃が手を振りかざし。
召喚した魔導書を開き、光る指で複雑怪奇な文様を刻む。
開く書から正しく魔術を読み解き。
発動。
『吹き荒べ天の柱! 遍く全てを滅ぼす最大最強魔術、【核熱爆散】!』
だが。
やはり何も起こらない。
額に大きな血管を浮かべ。
『なにごとだ! なぜ何も起こらぬ!』
「当然でしょう。魔術とは神に愛された者が習得できる技術体系。神に愛されてそこで初めて魔導書を読み解け、魔術を習得する。その神が力を貸すことを拒否すれば、魔術も発動しなくなる」
『拒否だと!?』
アナスターシャ王妃は背後の神影を振り返る。
そしてようやく気が付いたのだろう。
彼女の神は戦う気を無くしていた。
現地の男神マルキシコスは震え固まり、戦意喪失。
もう一柱……三女神と同質と思われる幼き女神は、困惑するアナスターシャ王妃を眺めて微笑むのみ。
邪悪なのは――後者の方だ。
『なぜ震えておるマルキシコス! なぜ、我に力を貸さん我が女神よ!』
男神マルキシコスは黙ったまま、精悍なる顔を横に振り。
『諦めよ――王妃よ、汝の負けだ。余はこれ以上は関せず』
『な、なにをいう!』
『レイドと言ったな――王妃とは異なる、異世界の女神の駒よ。余はこの大陸を治める主神マルキシコス。余の滅びは大陸の滅び、故に、余は汝に余の命の保護を嘆願する。如何か?』
従う姿勢を見せているが、ようするに交渉。
自分を滅ぼしたら、この大陸の生きとし生ける者が滅ぶという脅しでもある。
「いいでしょう、ただし条件があります」
『聞こう、魔王よ』
「あなたにお願いするのは極めてシンプルな事。これからは種族、地位、立場、男女分け隔てなく、遍く全ての命を愛し魔術を授けて欲しいのです」
『魔王よ、その真意を聞かせよ――』
「決まっているでしょう。多くの者が魔術を掴めば、私やあなたですら想像していない新たな魔術が開発される可能性があります。一人よりも二人、二人よりも三人。使用者が増えれば増えるほど、新たな知識が増える。それは私の望むところ」
会話に割り込み、にこり。
幼女の女神の方が、くすりと微笑み。
『ふふふふふ、あははははは。ああ、面白い! いいわね! そうしなさいよ、マルキシコス!』
「あなたは……」
『ええ、三女神たちの同胞よ』
「アシュトレトたちの同類……ですか、あまり関わり合いにはなりたくないですね」
『露骨に嫌そうな顔をしないで欲しいのだわ』
「あなた方の性質を知っていれば当然では?」
それが本音だと知っているのだろう。
幼女の女神は顔の前で指を合わせて、満面の笑みである。
『それにしてもすごいのね! あなた、アシュトレトの名前を知っているだなんて!』
「ダゴンもバアルゼブブも知っていますよ。やはり、あなたがたにとって名とはそれなり以上に重要な要素なのですね」
『嘘でしょ? アシュちゃんなら、まあ本名を語ることもあるかなぁなんて思っていたのだけれど。あの笑顔鬼畜のダゴンと、うじうじバアルゼブブがあなたに名を? あなた! 女神に愛される才能がある人なのね!』
幼女の女神は唇の下に細い指を当て。
王妃アナスターシャを、ちらり。
『そりゃ、こんな駒じゃ勝てるわけないのだわ。あーあ、負けちゃったのだわ』
『我が女神よ! なぜ、なぜ! なぜ、諦めておいでか!?』
『なぜって……だって、この子。とっても強いのよ? 少なくともマルキシコスの数倍は上。あなたじゃあお話にならないのだわ。もう! お洋服が汚れちゃうでしょう、汚い手で触らないで欲しいのよ!』
『ありえぬ! なぜ、なぜ! 我をそのような目で見る、女神よ!』
魔王アナスターシャが幼き女神に叫ぶ。
あまりにもしつこかったからだろう。
女神に縋るその手が――切断されていた。
一瞬だった。
声なき魔力の悲鳴が轟く中。
ぞっとするほどの冷たさで、幼女の唇だけが蠢く。
『そんな簡単な事も分からないから、あなたはそこまでなのよ。アナスターシャ』
女神は女神。
価値観の異なる存在。
彼女は辛辣にアナスターシャを突き放していた。