第30話 朝焼けのパンケーキ
翌朝、老婆の屋敷で出立の準備をする私の前。
昼の女神アシュトレトと黄昏の女神バアルゼブブが、ぐぅぐぅとまだ眠る中。
明け方の女神が入り込む朝陽から姿を現し、告げていた。
『おはようございます、旦那様。あたくしに何か御用のようですが、いったい、なんでありましょうか』
「女神ダゴン。確認したいのですが、もうお気は済みましたか」
『ガノッサさんの事でしょうか?』
「他にもあるのですか?」
返ってきたのは、聖職者の格好での静かな微笑。
でへぇっと、その影だけが嗤っているが。
『ふふふふ、どうでしょうか』
「私はあの男を責める気はないのです。ですのであなたの気がお済みならば、手を差し伸べるつもりですが。その前にあなたの意見を聞いた方がいいだろうと判断しました」
『あたくしは旦那様のご随意のままに』
「それでは困るのです――私はあなたの意思を無視したくはない。これから先も共にあるのなら、互いに価値観の違いを埋める努力はするべきだろうと私は思うのですが、あなたはどうでしょうか?」
女神ダゴンの頬が僅かに赤くなる。
『分かりました。お答えします、あの方は旦那様を殺したせいで、もう十分苦しんだ。なので、あたくしからは本当にもう、何も。旦那様に仇をなした存在がどうなるか、今後、多くの人がそれを伝承として知ることになるでしょう』
「それがあなたの目的ですか」
確かに。
勇者が魔王を殺せばそれ相応の神罰が下るとなれば、抑止力ともなる。
『それにあの男で遊ぶのはもう飽きましたし』
「……それは、あまり人前では口にしない方がベターでしょうね」
『ご忠告に感謝を、次からは気をつけますわ。ただ覚えておいて欲しいのです。根本にある心は一つ……あたくしはただ、あなた様を守りたいだけですわ。旦那様』
私はもう一つ確認しなくてはならない事を告げる。
「ヒーラーファリナの死には、あなたは」
『誓って、かかわっておりませんわ。あれは人間たちが勝手にやったこと。魔術師アナスターシャの伝説に怯えた人間たちが勝手に見た幻。いつか第二の大魔女が現れるかもしれない。魔術師にまた圧政を強いられるかもしれない……そんな集団心理が起こした魔術師への不当な迫害。人間の裏の部分ですわね』
「やはり魔女狩りに近い社会現象が起こっていたと」
『本来ならば旦那様がいれば、魔術師への恐怖も取り除くことができた。けれど、彼が旦那様を殺してしまった……。旦那様ならば魔術師の印象も良くするように動いていたことでしょう。けれど、時の皇帝はアナスターシャの影におびえて、それができなかった。旦那様を殺さなければ、こうはならなかった。その結果が、数十年と経ち、あの勇者の伴侶へと帰ってきただけですわ。第一、人間の顔などいちいち覚えていない……というのが本音ですもの』
そこには嘘も自己肯定も含まれていない。
「ただ見ているだけで、勇者は自らで傷ついていく……なんとも皮肉な話ですね」
『あたくしだって、旦那様を失い悲しかったのです。お互い様ですわ』
ダゴンは当時の勇者を思い出しているのだろう。
『勇者を観察していて、あたくし思ったのです。もうこれで十分だと――』
「意外ですね、あなたならばたとえ相手が死んでも、更に追い詰めそうな印象がありましたが」
『酷いですわ、あたくしをどういう目で見ていらっしゃるのです?』
「そうは言いますが、私をこの世界に連れ込むために殺したのは、あなたがたでは?」
女神ダゴンは目線だけを上に向け考え。
聞かなかったことにした様子で、静かに聖職者のベールを揺らす。
「まあ、もう気にしていませんよ。せっかくの機会です、互いの疑念や懸念は事前に埋めておきたい――他になにかありますか?」
『そうですわね……あたくしの観察対象となっていた勇者、ガノッサのことで少々……』
「お願いします」
『実はあの男、旦那様の研究を引き継ぎ……あのあと何度も蘇生の実験をしていたという経緯がありますの。一応耳にはお入れしておこうかと』
「蘇生のですか……」
たしかに私は二百年前の当時、蘇生の魔導書の依頼を出したことがあったが。
あれは依頼者である私の死で破棄されている筈。
『ええ、ですが、どれも対象指定の段階で失敗。魔術や秘術ではなく、いわゆる錬金術やダンジョンの宝、伝説のアイテムに頼り……何人かは蘇生させることができたようですが、狙った相手の蘇生はできなかった。この国で死んだ人間の中からランダムで誰かを蘇生させる、そこまでのアイテムを発見できただけでも、さすが勇者といったところなのですが』
「裏を返せば指定に失敗しただけで成功例があるのですか、それは素晴らしい」
この国で今まで死んだ死者の中から誰かを蘇らせる。
この部分が肝なのだろう。
「考えるに、生成アイテムは最初に定められたコストとでもいうべき数値を割り振り、性能や範囲を決めるやり方が主流。伝説級のアイテムであっても、蘇生効果の時点でほぼ定められた数値の限界、コスト上限に達する。それでも効果を発揮させるために、ほぼコストがゼロに等しい効果範囲に設定するしかなかった。その結果……対象を大規模ランダムとした。というわけですか――」
『絶大な効果を発揮させるには必ずどこかで破綻が生まれるのでしょう。勇者は少数の魔術師の蘇生には成功していた。けれど、何度やっても、あの男は、ファリナさんを都合よく蘇生させることなどできなかったということです。旦那様にいた世界ではガチャ、とでもいうのでしょうか。彼は何度も違う方を蘇生させて、いつか心が壊れてしまったのでしょうね――』
「全てが失敗に終わり、絶望したガノッサを見てあなたはようやく満足したと」
ダゴンの蠢く影は微笑んでいる。
男の嘆きや負の感情を食らって、満腹になったのだろう。
ダゴンとバアルゼブブは負の感情を愛する傾向にあるようだが……。
『これで旦那様に手を出したら不幸になると、多くの者が知ることになるでしょう』
結局戻ってくるのは全て、私のため。
彼女もまた、私のために動いている。
その手段や方法が悍ましいだけ、それが本当に人間が喜ぶかどうかも判断ができないのだろう。
女神とはある意味でとても悲しい存在なのかもしれない。
「最後にもう一つ――あなた方は何故、そこまで私にかかわろうとしているのです」
『旦那様を愛しているから』
「愛ですか」
『それではいけませんか?』
「原因には必ず理由がある、仮に前世で私があなたたちを惚れさせたとしたのなら、そのきっかけがあった筈。私にはそれが分からない」
女神は言う。
『あたくしたちは誰が人間を一番最初に落とすか、賭けをしておりましたの』
「らしいですね」
『けれど、旦那様は全員を拒否された。それが理由の一つでしょうね』
「意味が分かりませんが」
『これでもあたくし達は本当に強い神性ですのよ? だから今まで、ほぼ全てのモノが簡単に手に入りましたのに……あなたはそうならなかった。女神の誘いを断り、その存在すらも否定するなんて不敬。とてもぞくぞくするじゃあありませんか』
神の感覚はやはり理解ができない。
だが――。
「手に入れられないモノだからこそ、最も価値があるように見える。権力者の理論ですね。ですが、それは諸刃の剣。あなたがたはおそらく、私を本当の意味で手に入れた時には手のひらを返し、私に飽きてしまうでしょうね」
『それはどうでしょうか、人間の感覚など、あたくしたちには分かりませんもの』
「やられたらやり返す。気に入らないから嫌がらせをする、それを眺めて悦を感じる。あなたたちは実に人間的ですよ――もっとも、神に対して今の言葉は最大級の侮辱になるのやもしれませんが」
『旦那様ならば許されるでしょう』
女神ダゴンはふふふふっと微笑を浮かべるのみ。
「さて、女神よ」
『ダゴンとお呼びくださいませ』
「……女神ダゴンよ――率直にお聞かせください。今の私の力で、魔王アナスターシャを滅ぼすことは可能でしょうか?」
『造作もないことでありますわ』
ダゴンは私をよく知っている。
私と魔王アナスターシャの能力差をデータとして提示してみせていたのだ。
「これは――さすがですね。論理的に考える思考。あなたは三女神の中で一番、私と近しい考え方をしているのかもしれません」
それを最大級の賛辞と受け取ったようだ。
女神ダゴンは朝焼けの中で微笑み続ける。
『どうかご存分に、あの日の恨みをお晴らし下さいませ。バアルゼブブ……あの子もあの日の事をとても気にしておりましたから、その意味でも、どうか――』
「気にしているのに、眠ったままなのですね」
『あら? だってあたくしたちは女神ですもの――それはそれ、これはこれ。基本的には担当時間の女神の仕事ですわ』
告げた直後。
女神ダゴンの姿が消えていた。背後に気配がある。
屋敷の主。私とアシュトレトが世話になっている――最初の日に助けた資産家の老婆である。
私は老人に向ける若者として正しい表情。
柔和な態度で微笑んでみせた。
「こんなに早くどうかなさったのですか?」
老婆はゆったりとした声で、語りだす。
「いえね、なんだかとても綺麗でキラキラした人の姿が見えたから、あたしね、ちょっと気になってしまってね。もしかして、お邪魔だったかしら?」
「見えていたのですか?」
「どうなのかしら、分からないわ。あたしね、ほら、目がとても悪いから。けれど、今の人、きっとあなたが大好きなのね。だって、あなたがいる時にはいつも気配がするもの。大事なんです、好きなんですってね。あなたの背中に頬を寄せてね、静かに瞳を閉じているのよ」
かわいらしいお嬢さんですこと、と老婆は皺くちゃの顔に笑みを作る。
深い笑みだった。
「アシュちゃんも、本当は、あの女の人みたいな存在なのかしら」
「アシュちゃん……?」
「そう、アシュちゃん。あの子はとてもいい子ね。パンケーキを焼くのがとってもお上手なの。ハチミツもたくさん、あたしね、食べきれないほどにいっぱいに食べたわ」
アシュトレトにそんな特技があったとは思わなかったが。
豊穣の女神としての性質が残っているという事だろうか。
老婆はぷっくらとした頬に皺くちゃの手を当てて。
「あたしね、いまとっても幸せなのよ? みんないなくなってしまったけれど、それでもね。永いお眠りにつく前にね、また家族みたいに集まれて、とっても、幸せなの」
「永い眠り……あなたはご自分の事を」
「ええ、長く生きているとね。体の奥が、すぅ……っと離れていくの。手を見るとね、あぁ、あたしももう長くないんだってね、なんとなく分かってしまうのね。なぜかしらね。けれど、ちっとも悲しくない。きっと、あなたやアシュちゃんが最期に一緒に住んでくれたおかげね」
老婆の戯言だ。けれど、私は私のおかげだと言われたその言葉を、嬉しいと感じていた。
朝焼けの逆光の中。私の唇だけが動いた。
「あなたが望むのでしたら、寿命を延ばすこともできますよ」
「いいえ、やっぱり人間は、自然のままに永いお眠りにつくのが、いいと、あたしは思うのね。それに、あちらにはね、あたしを待っている人もいるだろうから」
風が吹いていた。
老婆の顔を朝の陽ざしが照らし出す。
老婆はまるで少女のような微笑みを浮かべていた。
自然に生き、自然に死ぬ。不老不死を得たガノッサとは逆の人生。
「それがあなたの答えなら、私はそれを否定はしませんよ」
先ほどの私はまるで――魔王そのもの。
人の心が分からない……あの三女神たちのようだった。
やはり、根本的な部分では私は彼女たちと波長が合うのだろう。
「ありがとうなのね。ところで、まだお時間はあるのかしら? 今朝はね、あたしがパンケーキを焼く約束をしたのね。あなたも食べていくでしょう?」
「ええ、ありがたく――」
「今日も図書館に行くのかしら?」
「いえ、少し仕事の方を」
「まあまあ、そうなの。お仕事が決まったのね。それはとてもいいことね。気を付けて行って、気を付けて帰ってきて頂戴ね。おばあちゃんとの、約束なのよ」
魔王アナスターシャが再臨すれば、余命も短い老婆の晩節を穢してしまうかもしれない。
残り僅かな人生とはいえ、それを潰されていいというわけではない。
ガノッサの無念も、少しだけなら理解ができる。
その後、私は老婆が焼いたパンケーキを口にし――。
騎士団の元へと向かった。
◇◆◇◆◇◆◇
計画通りなら作戦はすぐに終わる。
もう何日もこの屋敷の世話になっている。一宿一飯以上の恩だ。
それに報いるためにも、宿代代わりにこの国を救ってやってもいいかと。
魔王たる私はそう思い、待っていたライラとノーデンス卿に告げる。
「おはようございます。考えたのですがやはり、確実な勝利のために、池の水を全て毒としダンジョン内に」
「それは昨日却下しただろうっ」
「あの池には子供の生贄を要求するような外道な水神しかおりませんので、問題ないのでは?」
「水神様がいる時点で、普通の人間にとっては畏れ多いのだ……!」
何故か姫は頭を抱えていた。