第2話 家畜交換
私は言葉が分からない、けれどやれと言われたのだとは理解できた。
女神たちに愛されている少年は、その日、初めて魔術を発動させる。
魔術名を口にし手を翳した。
ただそれだけで手の先から氷の息吹を掌底として押し出し、馬車の半分ほどを凍らせたのだ。
凍結掌の魔術効果と分類は攻撃。
基本は触れた対象を氷状態へと変える攻撃補助魔術――しかし、戦場において氷壁に使われたり、馬の蹄を滑らせるためのトラップとして使われたり。
戦場での水分補給に使われたりと、汎用性の高い魔術であった。
ポーラはレイドの魔術に心を奪われていたようだった。
キラキラと輝く結晶が、まるで宝石のように見えたのだろう。
「綺麗……」
宮殿の魔術師に比べると未熟。戦いに出せる腕には遠い。だが――。
愚者でもわかる。
素人でもわかる。
それほどの奇跡だった。
男の魔術師は希少だ。何故なら神に愛されないから。
けれど、世界は広い。中には神に愛される男性もいて、彼らは例外なく魔術の才があり。
全員が全員。皆。
大成する。
それこそ、愚か者が多いとされる騎士貴族の男でさえ、これが別格だとすぐに理解できるほどの魔術だった。
「ポーラ、これはおまえにもできる魔術なのかい?」
「いいえ、お父様……あたしには、その……まだ」
綺麗な宝石に目を奪われていた少女の声はしぼんでいく。
ドレスの裾が引っ張り上げられているのは、ポーラがぎゅっとこぶしを握ったせいだろう。
「あ……ああ、そうか――いや、責めているわけではないんだよポーラ」
ポーラはその時すでに、狂わされていた。
魔術に揺れるレイドの銀色髪と、殺戮ウサギのような赤い瞳。
陶器のような美貌をじっと、横目で眺めていたのだ。
少女はごくりと息を飲む。
ピカピカきらきらとした少年の全てに、心を奪われていたのだろう。
そしてこう思ったのではないだろうか。
この子が欲しい、と。
だから。
七歳の少女の口から、七歳とは思えぬ含みのある言葉が漏れる。
「あのね、お父様。この子、すごい子よ」
「そのようだな」
「だから、その……、”雨を降らせる”のは他の子にした方がいいと、あたしは思うの」
父の表情は一瞬、ぎょっと固まっていた。
「ポーラ? おまえ、自分が何を言っているのか――分かっているのかい?」
「だって、その子がいなかったら他の子を使っていたんでしょう。だったら、同じことよ」
少女は知っていた。
いや、気付いていたと言うべきか。
そして、今口にしている言葉の意味をきちんと理解した上で、父に進言していたのだ。
少女は考えたのだろう。
どうすればこの銀色の子どもを自分の近くに残せるか。
あたしの手元に残せるのか。
そんな――子どもながらに子どもらしからぬ発想で、脳と欲望を蠢かせているようだった。
父親の騎士貴族は気付いたのだろう。
大人の話には絶対に口を出さない賢い娘が、ここまで言うならば――本当に、この少年が逸材なのだろうと。
「お父様。あたし、いいわよ。この子の代わりに沈んでも」
「なんてことを言うんだ!」
「だって、仕方ないでしょう? この子を失うのは国の損失、世界の宝が失われるのと同じ事よ。お母様が大切になさってる、世界に三つしかない宝石よりももっと貴重な原石なの。だから、いいわよ。この子の代わりになっても」
その時の彼女は、絶対に……父はそうしないと分かっていた。
すぐに馬車を引き返すと分かっていた。
その筈だ。
そもそも、今回の人身売買が国の命令で貴族の娘のポーラが生贄候補となり、それを阻止するために父が動いていたのだと少女は気付いていた。
だから本当に、自分が生贄になる可能性もある。
本来なら怖かったはずだ。
けれど。
ポーラの瞳はうっとりと銀色を眺めて、恍惚としていた。
まるで魔に魅入られたように。
「ああ、分かった。分かったから悲しい事を言うのはやめておくれ、ポーラ。分かっている、すぐに引き返そう。この子は駄目なのだね、分かった、生贄にはしない。それでいいだろう?」
「ありがとう、お父様!」
少女は父にではなく、ぎゅっと少年に抱きついていた。
少女の頬に少年の髪が刺さる。
レイドの鼻孔が高価な布の生地に掠れて揺れる。
これが女神の予定通りなのか。
結局、レイドは貴族の養子となることになった。
最寄りの街により、凍り付いた馬車を下取りに出し――格安の馬車を二台購入。
一台は彼らを乗せ騎士貴族の屋敷へ、もう一台は雇われた従者が操縦。
あの孤児院へと向かっている。
温かい屋敷に向かう馬車の中。
金髪碧眼の少女は、レイド少年を膝の前に抱き。
卵を守る鳥のように、ぎゅっと抱きしめたまま。
「今日からあなたはあたしの弟よ、恋人じゃなくて弟。だって、お姉さんなら、ずっとあなたと一緒に居られる。たとえあなたに恋人ができても、たとえあなたがどんな女に奪われても、お姉さんの席だけは奪えない。それってとても素敵なことだと思わない?」
けれどレイドには言葉が分からない。
こてんと首を倒している。
ポーラが自らを指さし、言う。
「あたしは、ポーラ。ポーラおねえちゃん」
「ポーラ……?」
「そう! ポーラ! あなたは?」
少年を指さし、少女が言う。
レイド少年は答えた。
「レイド」
「そう、あなたレイドっていうのね! あたしはお姉ちゃん、ずっとずっと、あなたのお姉ちゃんなのよ!」
「はぁ……まずは言葉を教えてやらねばなるまいな。手の空いている使用人にでも……」
「駄目よ! あたしが教えるの!」
ポーラの父は、娘がそんな欲望を剥き出しにする姿など、初めて見たのだろう。
明らかに、困惑していたが。
それでも可愛い娘の頼みは断れない。
好きにしなさいと、早い娘の反抗期に一喜一憂するのみ。
その日。
孤児院からは数人の子どもが買われていった。
騎士貴族に雇われた従者たちは、レイドが育った孤児院へと向かい。
そして役目を果たしたのだろう。
その日の夜。
大雨が降った。
ざぁぁぁぁぁぁっと音がする。
大雨の影響だろう。
広くて暖かい家の中。
ポーラおねえちゃんの寝室で、一緒に眠るレイドは怖くて眠れず外を見た。
騎士貴族の屋敷から見える大きな樹は、大きく揺れていた。
だから影も揺れる。
突然、子供が増えたのだ――騎士貴族の屋敷の人々も、揺れている。
レイドはただ、外をじっと眺めていた。
雷の光と揺れる窓の格子が、レイドの顔を反射し映し出す。
赤い瞳の、銀髪の人形がそこにある。
それが自分の顔だと、レイドは知らない。
その銀髪人形には、三人の女性がしな垂れかかっていた。
三人の美しい女性は、早く大きくなれ。
早く大きくなれと、人形をぎゅっと抱きしめている。
『おお! 今、妾を見たぞ! めんこいのう!』
『ぼ、ぼく、を、みみみみ、みたんじゃないかな?』
『いいえ、いまのはあたくしをご覧になったのです』
雷が鳴った。
本当に大きな、嵐のような恵みの雨だったのだろう。
水神が生贄に満足し、大きく唸っているのだろう。
窓の外に、雷に撃たれて倒れる樹が見えた。
その割れ方がひどく歪で――。
まるで、吊られた子供のようだった。
『大丈夫、あなたを虐めていた方々は、みんなもう、お休みになられました』
『こ、こここ、これで、も、もう、虐められないね? う、嬉しいよね?』
『さて、レイドが怖がっておるようじゃ。妾もひと眠りするか……』
レイドは慌てて布団にもぐった。
死ぬ筈だったレイドは生き残った。
だからとても幸福だといえるだろう。
貴族の養子となったレイド少年が、次にあの孤児院の前を通った時。
少年を虐めていたあの孤児たちは全員、いなくなっていた。
彼らがどこに行ったのか、どこに沈められたのか。
誰の身代わりになったのか。
レイド少年はまだ知らない。
銀髪の美しい少年は――女神とポーラおねえちゃんに祝福されていた。