第238話 帰還 ―勇者と魔王と目覚める世界―
終末世界の赤い空が、昼の陽射しで満たされる。
それは陽光。
女神アシュトレトの放つ威光によって、世界が明るく染まる瞬間だった。
空を割り、冥府から帰還した男は斧勇者ガノッサ。
もはや勇者に迷いはなかった。
魔王が明ける空を見上げる。
魔王の瞳は勇者を見た。
それは明け方の星よりも明るく。
昼の陽射しよりも輝いて。
そして、黄昏のように少しだけ悲しい顔。
魔王が言う。
『斧勇者ガノッサ――なぜあなたが再び……っ』
「終わらせてやる! オレが、おまえを――レイド!」
勇者の叫びが空を切る。
それは。
空から落下しながらの乾竹割だった。
咄嗟に動いた焔の貴公子が、号令を上げる。
クリムゾン殿下による集団スキルが発動されていた。
強化と号令を受け――。
全員が斧勇者ガノッサに集団でバフを発動させていた。
打ち合わせのない連携が可能だったのは、風の勇者ギルギルスの伝令のおかげであろう。
混沌世界の戦闘員。
民を守る者たち。
世界を守ろうと願う者たちの願いが、勇者の斧を強化する。
そして。
邪杖ビィルゼブブを装備した魔王が腕を伸ばす。
落ちてくる太陽の如き勇者の、その英雄の一撃を打ち破ろうとしているのだろう。
だが。
邪杖は何故だろうか。
まだ耐久度も寿命もあったはずなのに。
その髑髏の先端にひび割れが起き。
割れていた。
『ビィルゼブブ? なぜ、何故動かないのです!』
魔王にとっても予想外だったのだろう。
粉々に割れる邪杖ビィルゼブブはずっと魔王と共にいた杖。
だから、その意思は主人を第一に考えた行動を取ったのだろう。
音を立て灰となり【邪杖ビィルゼブブ】が消滅する。
杖を失い慌てた魔王が、装備を魔王聖典の魔導書に切り替えようとした。
その瞬間。
魔王聖典も魔王も、動きを止めていた。
迎撃するには空を見る必要がある。
だから。
見えてしまったのだろう。
そこには太陽よりも明るい希望を背に乗せる、勇者の顔があった。
人々の心を乗せているのだ。
だから。
人々の心に憧れた魔王は、その目が離せなくなる。
魔王は、それを美しいと感じたのだろう。
尊いと感じたのだろう。
だから。
動きが止まったのだろう。
そして、勇者の奥には女性の顔。
女神アシュトレト。
彼女はなにやら唇を動かしていた。
最後に言葉を残したのだろう。
誰の最後か。
ああ、理解した。
斧勇者ガノッサ。
その決意と悲痛が込められた一撃を受けながら。
私はレイドとして出会った全ての命に感謝するように。
言った。
「ありがとうございます」
体はそのままだ。
けれど。
魔力が。
縦に断たれていた。
「私を止めてくださって、本当に……感謝しています」
それは幸福を求め暴走した魔王としての私ではなく。
レイド=アントロワイズ=シュヴァインヘルト=フレークシルバーとしての、声だった。
斧勇者は私を見た。
「坊主……っ」
「全ての事情は……ここに……」
言って私は、一冊の魔導書を勇者に託していた。
三柱の女神を従える魔王が綴られた表紙。
その書のタイトルは。
―魔王レイドの幸福なる一生―
ここまでの歩みが記された、私の人生を記した書だった。
書を受け取った男は言葉を選びきれないようだった。
不器用なのだ、この男は。
彼と出会った酒場での思い出が、私の脳裏を過っていた。
だから。
私はかつて少年だった、レイドとしての顔で言う。
「私はとても、幸せでした。だからどうか――共に喜んでください。見送ってください。ようやくこれで、私は……幸福の呪縛から解放されるのですから」
だから。
「すみませんでした、我が友よ。そして人類よ。どうか皆さまに」
笑顔を残し。
私は言う。
「ささやかな幸福がありますように――」
ああ、本当に……。
あなたたちと出逢えてよかった。
そう告げた私の身体が、消えていく。
消え去る私の肉体を、空に舞っていたイナゴが拾い。
そして。
私の姿は消えていた。
明ける空。
イナゴに運ばれる私の魂を三つの魂が出迎えていた。
それは父と母。
産みの父ではなく、育ての親。
アントロワイズ家の面々だった。
既に転生していた筈の姉ポーラの姿もある。
レイドとしての私の人生。
その思い出の中で最も記憶に輝く者たちだ。
終末世界に浮かぶイナゴたちは、最後に彼らと私を再会させたかったのだろう。
まるで冥界神のようだ。
と、私の意識は瞳を閉じて。
もう二度と、目覚める事はなかった。
魔王レイドは死んだのだ。
◇
多重結界の中。
混沌世界と表示される場所。
眠る猫の瞳に、一筋の涙が流れていた。
それが目覚めの合図となったのだろう。
あまり見たことのない神殿で目覚めた三毛猫は、口を開いていた。
永い眠りの影響で、欠伸を漏らしていたのである。
それはかつて猫になることを願ったオスの三毛猫。
魔王の欠片の一つ。
三毛猫陛下は眠っていたので事情を把握できていないのだろう。
周囲を見渡し。
そして、流れる涙の意味を考える。
誰かが、夢の中で泣いていたのだろう。
それは悲しみではない。
では何故。
考えている間に、声がしたようだ。
三毛猫陛下の耳を揺らしたのは、三匹の獣の声。
『お目覚めになられたのですね、魔王様』
『ああ、ケトスか。大魔王の方の君が……本気の姿となっているという事は、何かあったのかな』
夢見る魔猫たる主人を守る猫。
大魔王ケトスが言う。
『はい、かつて勇者に殺されたときのあなたの、その欠片たちの件で少々……』
『そうか……キミも動いてくれていたのだね。ケトス。それに、ああキミたちもいてくれたんだね』
三毛猫陛下の周囲を囲んでいた多重結界。
その正体は裏三獣神だったのだろう。
彼らは本体と呼ばれる悍ましき神性にて、憎悪と怨嗟と嫉妬の魔力を揺らし揺蕩っている。
そしてその中央には、眠っていた魔猫の王。
黒き神鶏と、黒き神狼も頷き。
先にニワトリが嘴を動かしていた。
『ご気分はいかがでありましょうか、魔王陛下。体調が優れないのでしたら、余が治してご覧にいれますが』
『いや、大丈夫だよ。それよりもこれはいったい。説明して欲しいのだけれどね』
猫の髯をくねらせ説明を求める三毛猫陛下に、神狼が従者の声で咢を蠢かす。
『――長くなります故、後ほど御説明いたします。それよりも先に、奥方様やご息女との再会が先ではないかと――心配されていましたので』
『そうだね……どうやらたくさん心配をかけたようだ』
三毛猫陛下はそのまま言う。
『長い夢を、見ていたんだ。とてもカオスな世界で、けれど……なんだろうね、とても楽しくてね。あれ、どうしてだろうね……なんだかとても、涙が止まらないんだ』
裏三獣神は顔を見合わせ。
代表として大魔王ケトスが言う。
『多くの事がございます、けれどまずは心配してくださった皆に顔を見せてあげてください。そして、その後に、大事なお話があります』
『大事な話かい』
『はい、実はあなた様が眠られている間に、懐かしき者たちがこの三千世界に戻って参りまして――』
それはおそらく。
大魔王ケトスが涙で洗い流してしまった、かつての世界。
三毛猫陛下はなぜ自分がそれを知っているのか。
なぜ、分かるのか。
考える。
そして。
自分の中に増えた。
重なった記憶を知ったのだろう。
それは。
魔王聖典と呼ばれた世界の平和のために動き続けた、三分の一の欠片と。
幸福の魔王と呼ばれた一人の、少年だった魔王の物語。
かつて分け放たれた自分の欠片が、集まったのだと。
今、魔王は悟ったのだ。
猫を夢見た魔王が言う。
『本当に……長く眠っていたようだね――』
『はい、ずっとお待ちしておりました』
魔王に仕える三匹の獣は、深々と頭を下げていた。
そんな彼らを横目に。
欠片ではなくなった猫の魔王、三毛猫陛下が言う。
『――もうひとりの彼は幸福を感じることができたのだろうか。幸せを知ることができたのだろうか。ワタシには、その答えが分からないんだ』
魔王の言葉を大魔王ケトスが訝しみ。
『あなたの中にはレイドと呼ばれた欠片がいる筈。ならば――』
『それがね、分からないんだよ。ケトス』
『それは、つまり――』
魔王は苦笑し告げた。
『どうやら――そういうことらしい』
彼の行方を知りたい。
三毛猫陛下がそう命じるより早く。
裏三獣神は動いていた。




