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第220話 聖なる書に刻まれし悪魔


 魔王聖典に心変わりをさせようと動いていたのは、夜の女神や異聞禁書ネコヤナギ。

 そして裏三獣神と呼ばれる、かつて私の部下だった獣神たちも動いている。

 私が歩んだ道を眺め、私を通じ多くの者たちとの邂逅を果たしている魔王聖典。

 その心が変わり始めているかどうかはまだ分からない。


 おそらくはそう簡単にはいかないだろう。

 だが……皆がここまで動いているのなら、いつか必ず。

 けれど、それが”いつか”では困る。

 相手は世界から命を消そうとしているのだから、残り時間もそうないだろう。


 だから――。


 夜の女神が語り終えた後。

 観戦席を無事に解散させた私は研究室に戻りながら――その道すがら黄昏の中で、空を見上げ。

 黄昏に向かい語り掛けていた。


「黄昏の女神よ、バアルゼブブよ。あなたは――どこまで知っていたのですか」


 暮れる空が蠢き始める。


『……あ、あたしに言ってるんだよね?』

「あなた以外に黄昏の女神はいないでしょう、バアルゼブブ」

『そ、そうだよね――』


 問いかけに応じたのは、純粋だが人の心の機微を読むことが苦手な女神。


 黄昏に沈んでいく研究室への通路。

 斜陽のコントラストが目立つ、その四隅の闇がザァァァァァっと蠢き。

 それは一つの黒き女神の形となっていた。


 黄昏の女神の降臨である。

 だが、私は言う。


「大変申し訳ないのですが、あなたの中のバールを呼んでいただく事はできますか?」


 しばしの間の後。


『あ、あたしじゃ、ぼ、僕じゃあ、ダメなの?』

「……あなたはおそらくほとんど何も知らされていないのでしょう――黄昏の女神バアルゼブブ、その性質は無数の蟲悪魔の集合体。それぞれがあなたであり、それぞれが意思を持つ神の群体。仮に分類として……神の種族としての名をつけるのならばレギオンと呼称できる存在。レギオンとは……神話の一節にも刻まれし者。あなたの場合は――多くの王たる神を内包した、集合意識としてのレギオンでしょうか」


 バアルゼブブとはかつて信仰されていた様々な”王や主(バール)”が、争いに負け、”蠅の王(バアルゼブブ)”として歪められた者。

 その元となった王たる神はかなりの数、存在する。

 おそらくは歴史にも残されていない、名すら語られずに悪魔として蔑まれたモノもいるのだろう。


 だから。

 バアルゼブブの中には、無数の王がいる。

 それも――聖書圏を憎む、王だった悪魔が大量に……。


 かつて楽園に辿り着く遠い前から、救世主と呼ばれていた者だった私が言う。


「こうお呼びした方がよいでしょうか歪められた王のレギオン、救世主を恨む者と」


 バアルゼブブは何も答えない。


 ただ。

 じっと。

 佇んでいるだけなのだ。


 だが、その反応こそが反応か。

 ジジジ、ジジジジジっと。

 終わりを迎えるセミのような、弱々しい羽音が鳴っている中。


 瞳を大きく見開いた黄昏の女神に向かい、私は瞳を細め問う。


「私はおそらく、あなたを変質させた者たちから慕われ願われた者。あなたにとっては怨敵と言ってもいい存在。救世主と呼ばれたモノ。けれどそれはもう遠き過去、遠い昔の話。既に古き物語を他人目線で眺めるような……前世となった今の私はもはや、そのようなメシアと同じ存在とは言えないでしょう。それでも、一定の責任もある筈です。だからこそ私はバアルゼブブよ、あなたという女神……悪魔蟲群体王バールレギオンの中にいらっしゃる、全てを把握していたモノ達と交渉がしたいのです」


 そう。

 女神バアルゼブブは複数の意思を持つ女神。

 その中に、普段表に出ている彼女も知らぬナニカをなそうと蠢いていた個体がいる。


 私の中にはそんな確信があった。

 バアルゼブブは虫を彷彿とさせる無機質さで、グギギギギ!

 首をこてんと横に倒し。


『ぼ、ぼくが、あ、あたしが――知らない……ことを知っている、あたし?』

「あなたはただ純粋で、まっすぐな存在です。それは私が保証します。少し恥ずかしい言い方をすれば、ピュアといえるでしょう。だから、あなたが何をどうこうしていたとは思っておりません。ただ、あなたの中にはあなたの知らないあなたがいる。私にはそう思えてならないのです」


 斜陽の黄昏の中。

 蟲の羽音が声となり。

 誰もいない通路に響き渡る。


『……レ、レイドがそういうのなら、そうなのかな?』

『で、でも。あ、あたしは』

『ぼ、僕は――バアルゼブブだよ? アシュちゃんと、ダゴンちゃんと、そ、それに、レ、レイドと一緒にこの、混沌世界でね、いっぱい、楽しく暮らすんだよ?』


 それが彼女の純粋な想いであり、願いなのだろう。


「私もそのつもりですよ、だからこそ確認しておきたいのです。あなたの中にいる、バールたちと」


 私は首を傾げるバアルゼブブの瞳に語り掛けていた。

 黄昏のオレンジに染まる、彼女の漆黒の髪。

 垂れる髪が徐々に変貌し……それはやがて、王冠を纏う外套となり――異形なる姿へと変化していた。


 王冠と外套を装備した、真っ黒な影が。

 ギギギギギ。


 まるでダゴンが、聖職者の服の隙間から言葉を漏らすような。

 異形な怪音を鳴らすような、声を漏らす。


『余を、余らを、我らを呼ぶか、多くの神を殺せし救世主の残滓よ』


 誰もいない廊下。

 黒き黄昏の空間。

 そこに在ったのは、かつてバールと呼ばれた王者の神々。


「初めまして――と語り掛けたほうがよろしいのでしょうか、異教の王よ」

『さて、それは汝が決める事であろう……異教の救世主、その切れ端よ』


 くぐもった、けれど重厚な声が私の身体を揺らしていた。

 憎悪や怨嗟といった、暗い感情が魔力となってこちらの空気を振動させているのだろう。

 これがバアルゼブブの蟲の群れの中に混じっていた存在。


 おそらくは――。

 夜の女神ペルセポネーが外に送っていた”冥界神再臨のための力”を、見逃していた神。

 複眼を持ち全てを見逃さぬバアルゼブブの眼ならば、ペルセポネーが裏でやっていた目論見を眺めることができたはず。

 なのにバアルゼブブは何も知らなかった。


 そして今のバアルゼブブの性格ならば、過去にそのような異変があった事を隠したりはしない。

 ちゃんと聞かれなくとも必要な事を話す、そんな経験を積んだ筈だ。

 では見ていた筈なのに語らなかったのは、何故か。


 そう考えた時。

 思い当たったのがバアルゼブブが群体だという事。


「先に訊ねておきましょうか、バアルゼブブの中にいるバールよ――あなたはこの三千世界をどうしたいのですか?」


 バアルゼブブの立ち位置は知っている。

 彼女は私達と共に在るだろう。

 けれど、この王たちは?


 その答えを私は知らない。

 王のレギオンが言う。


『――余は、余らは如何が動くか』

『悩ましき議題』

『答えは得られぬ問いかけ。なれど――』


 黒き王は蠢き相談し。

 いくつかの蟲が羽音で魔法陣を作り。

 そして、じゅともいうべき単語を詠唱。


 声が響きだす。


『救世主の残滓よ――』

『こうして、王たるバールとして貴様と相対したのならば』

『余らの答えは――此れであろうな』


 ざぁああああああああああぁぁぁぁぁぁ!

 音と霧が、私を包んでいた。

 詠唱が響き渡る。


『嵐の丘よ』

『正しき覇道よ』

『余はバアル、バール、バエル。汝等が主と呼んだ真なる王。故に、我らは我らをこう定義する。すなわち、悪しきメシアを滅するもの――。”救世主殺し”と』


 救世主殺し。

 そう自認した王たちが、蠢き力を発揮。

 蟲の黒い霧の中から、魔術が発動されていた。


 バアルゼブブの中の王たちが、取った行動は鑑定の亜種だった。

 アイテム欄への干渉だろう。

 それは蠅の数だけの成功判定を持ち、それは成功するまで何度も繰り返す絶対的な命令。


 王者の職業にある者が使うスキル、臣下に強制命令を与える【王の勅命】に近い行為なのだろう。


 仮に、蠅王の勅命と名付けておくが、その効果はアイテム欄の強奪。

 王のレギオンが取った行動は、私の所有していた邪杖ビィルゼブブの破壊。

 私が最も得意とする装備を割ったと同時に、結界を展開したのである。


 周囲全てを蠅の群れで覆い始めた。

 その様子を眺め、冷静なままに私が言う。


「どうやら――戦いは避けられないようですね」


 まあこうなることは理解していた。

 バアルゼブブの元となったバールは間違いなく、かつての私を恨んでいた。

 そうなるようにと、人々から願われてもいたのだろう。


 確信していたからこそ、私は独りの時にバアルゼブブに問いかけたのだ。

 バアルゼブブが私に反旗を翻したとなれば、それは危機。

 他の女神達も外の世界の神々も、黙ってはいないのだろうから。


 この話はこの時だけの物語として、解決する。

 誰にも見せずに、ただこの場限りで――。

 それが私の選んだ答えだった。


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