第21話 黄昏の恋
上質な紙とインクの香りが、鼻孔を擽る良い時間。
図書館に満たされていたのは静寂。
ここは学びの場所、知識の泉――沈黙に包まれるこの空間は静寂の中で知識を得る事を、是としている……。
わけではなかった。
魔王たる私はこの沈黙の意味を察していた。
単純に入館料が高すぎて、誰も利用していないのである。
私が騎士団から受け取った幾ばくかだと思っていた金銭は、実はそれなり以上。十五前後の子どもが一カ月暮らせるほどの額があった。
私は図書館の入館料と比較して、受け取った時に「幾ばくか」と判断していたのだが、実際は図書館の料金が異常だったのである。
後で騎士団には感謝しないといけないだろうが。
ともあれ私は既に受け取った金を入館料に使ってしまっている。
だからだろう。
誰もいない黄昏の部屋。
部屋の四隅から、ブブブブブブブブっと羽擦れの音と共に、それはやってきた。
明け方の女神の羽音と似ているのだが。
彼女ではなく、時間通り黄昏の女神であった。
口を開かなければ儚げな、黒い清楚な乙女である。
無視して読書を継続する私の前、机の上に胡坐をかいて黄昏がうっとり。
私の顔を覗き込んで、えへへへへ。
むろん、邪魔である。
「おはようございます、と言った方がいいのでしょうね」
『お、怒ってない?』
「ガノッサに殺されたことですか? 別にあなたには怒っていませんよ。稚拙な作戦が完璧に進んでいると思っていた自身の愚には、まあ思うところはありますが。貴女個人には、なにも」
黄昏の口が、イヒヒヒヒっと蠢く。
喜んでいるのだろう。
「怒ってはいませんが、あの時間はあなたが私を観測していた筈。何故助けなかったのか、理由をお聞かせいただいても?」
『ゆ、ゆゆゆ、勇者の、な、仲間には……わたしたちは、あ、あんまり干渉できない。し、し、してもいいけど、た、たぶん、ほ、他の駒の持ち主が、き、気付いちゃうし、駄目』
「他の駒? ああ、魔王の駒は私だけではないという事ですね。あのアナスターシャもあなたたちのような愉快犯……失礼、また別の異世界神の駒ということですか」
『そ、そうだよ?』
ならばこそ、あそこまでの強権を握り、カルバニア王国を混沌とさせていた理由に説明もつく。
つまり私は――。
駒同士の戦いで負けた、ということだろう。
「何故それを教えてくれなかったのですか」
『??? だって、き、聞かれてないよ?』
まあ、その後アナスターシャもおそらくは勇者に干渉されて死んでいる。
討ったのはあの愚物殿下であったが、勇者が介入している可能性が高い。
図書館で本を読み耽っていると、歴史が見えてくる。
あの殿下は本当に大成したのだと思われるが――初代皇帝なのだ、歴史を良いように書いているという可能性は捨てきれない。
「魔王の駒は何体いるのですか」
『し、知らない。ほ、他の神のことなんて、ど、どうだっていいし……わ、わたしには、ぼ、ぼくには、き、君さえいれば、それでいいんだし』
まだ神託には引っかからないのか。
それとも私に負い目があるのか、黄昏の女神は質問に前向きに応じている。
「勇者もあなたがたの駒なのですか」
『あ、あ、あ、あれは、この世界が、つ、作ってるから、ち、ちがうの。レ、レイドとか、ア、ア、ア、アナスターシャ、みたいな、異世界からの、こ、駒を、排除するために生まれた、め、免疫? みたいな、もんだ、だと思う……』
私は明確に本から目線を上げていた。
「ならば、最も巨大な異物たるあなたがたも危険なのでは?」
『レ、レイド? し、心配してくれているんだね。で、でも、平気。こ、こうみえて、ぼ、ぼくたち、あたしたちは、本当に、強いから』
確かに、女神アシュトレトは自分達の事を創造神であると匂わせていたが。
胸の前で、指先同士を何度もたたき合わせて、黄昏の女神は、えへへへへ。
『そ、それにしても……ふふ、ふふ。やっぱり、レイドは、おもしろい、ね』
「何がですか、黄昏」
『だ、だだだだ、だって、お金。全部、使っちゃった』
入館料の事だろう。
「冒険者ギルドからは金をまだせしめていませんからね――。……誰から金銭をせしめるべきか。総合的に考えた魔王たる私は一つの結論を見つけ出しました。貰えそうな全員から貰えばいいだろうと。依頼人が異なれば問題ない。報酬の二重取りは違法ではありません」
全員を助けたのだから、問題などない。
『じゃ、じゃあ、あの老婆から、も?』
「ああ、資産家の老婆ですか……あれは例外です。認知症を発症しはじめている孤独な老婆から交渉――金を巻き上げるのは心が痛む、それも本音です。そしてなにより非効率。その最たる理由は、どうしてもやりとりに時間がかかる事でしょう。それに……今、あの老婆には」
言葉の途中で、女神が言う。
『へへへ、へへ、そ、そうだね。また勇者、の、ななな、仲間に、みつかったら、こ、殺されちゃうかもだし』
黄昏の女神の言葉に読書を中断、私は指を顎に当てていた。
既に私は魔王として覚醒しているせいか――死ぬこと自体はさほど恐ろしいと感じない。だが、この時代の知識を吸収できないまま死にたいかと言われれば、それは私の矜持が許さない。
私はもっと知識が欲しいのだ。
この大陸の外も気になる。
魔王がいて勇者がいた。その関係性も気になる。
二百年も経ったのだ、新しい魔術が開発されている可能性もある。
世界はこんなにも夢と希望で溢れている。
私は思わず、微笑していた。
――ああ、この世界に生まれてきて良かった。
強くそう思っていた。
前の世界は退屈だった。
けれどここは違う。
私は確かに、幸福を感じていたのだ。
――ここは、私の知らない理論や議論で溢れているのだから。
貪欲に、私は私の知らない知識を欲している。
『う、ううう、嬉しそうだね。レイド』
「あれから二百年後の知識をこうして入手することができましたし。私が倒すべき相手、アントロワイズ家の仇たるアナスターシャは、最も愛した息子がその首を取ってくれました。私の名を呼び、やっと終わったよと……天を仰いだと記されておりますからね。歴史書がどこまで正しいのか、正確なのかは疑問ですが、大筋は正しい筈。あの王妃は本当に、息子に殺されるとは思っていなかったようで――さぞ愉快な最期を迎えたのだろうと、思うと……ふふ、下品ですがね。多少は因果応報との感情が浮かんでしまいました」
魔王の微笑を止め。
ふと真顔になる。
ここまで考え、私は思い至った。
「黄昏の女神」
『な、なに?』
「あなたのこの世界での目的を教えて頂いてもいいですか?」
『へ、変な事を聞くね。ぼ、ぼくたち、あ、あたしたちは、君が幸せになってくれるために、た、ただ、それだけのために動いているんだよ?』
私は――二百年前の敗因を確信していた。
「つまり、私自身が仇であるアナスターシャを討つよりも、マルダー殿下がアナスターシャを討った方が溜飲が下がる。私はそれを幸福と感じる。そう思っていた場合は――」
『う、うん。だ、だから、二百年前は、き、君が、死んじゃったんだ、と思う。じ、実際。あ、あのあと、あの王子は、ほ、本気で、母親を、に、憎んだ。ほ、本気で、君の、仇を、取ろうとした。ぜ、絶対に逆らわない息子に、魔王アナスターシャは、ゆ、油断して。こ、殺されたんだよ。だ、だから、も、もし、レ、レイド、本人が、し、死にたくないなら……、う、うまく、僕たちを、使ってね?』
女神たちは幸福を運ぶ。
望む望まないは別として、私の幸福を優先する。
歪んでいるが――黄昏の女神の表情に悪意はない。
「女神とは、本当に厄介な性質を持っているのですね……」
『そ、そうあるべき、と、あ、あたしたちを、余を、そうあるべきと望んだのは、き、きみたち、人間だよ?』
黄昏の女神の身体が揺れる。
ジジジジジっと羽音も鳴る。
これは明け方の女神からも聞こえていた音であるが――。
「あなたはあの時、見ていたのですね」
『な、なんのこと?』
「昼の女神アシュトレトは私が起きていたことに気付き、驚いていた。けれど、あなたは驚いてはいなかった。明け方の女神から聞こえていた羽の音は、あなただったということです」
うっ、と黄昏の女神は机の上を後ずさる。
「なぜその時に顔を見せなかったのです」
『だ、だって、レイド、ま、まだ怒ってるかも……って』
「アントロワイズ家の件はともかく、二百年前の事に怒りはしませんよ。しかし、ずっとそうやって顔色を覗かれているのも、些か疲れます。女神よ、神託を賜りたいのですが、よろしいですか?」
『え? で、でも……べ、べつに、レイドなら、神託じゃなくても、と、特別だから、お、教えちゃうんだよ』
私は黄昏の女神を正面から見据え。
「あなたの名を教えてください。これは神託ではないと聞けないのでしょう?」
『聞いて、くれるの?』
「女神アシュトレトには聞いているのです、それに、いつまでもウジウジされても困りますからね」
えへ、えへへへへと黄昏の女神は澱んだ乙女の微笑を浮かべ。
ジジジジジジっと大きな羽音と共に、その真名を名乗った。
『ぼ、僕は、あ、あたしは、わ、わたしは――女神バアルゼブブ。こ、今後とも、よ、よろしく』
こぼれるような笑顔という言葉があるが。
実際、彼女の頬は蠅となって零れていた。
黄昏の女神、バアルゼブブ。
その正体は蠅のような小さな神の集合体なのだろう。
「バアルゼブブ……蠅の王。糞の王。たしかウガリット神話における主神バール神が聖書圏内で敵対視された時に、悪魔へと貶められた神性、でしたか」
『よ、よく知っているね』
「これでも様々な研究を行っていましたからね。科学と宗教、科学と民話は存外に共通点も多い……と、話が逸れそうなので止めておきますが、以後、覚えておきますよ……と、なんですか、その不安そうな顔は」
黄昏の女神バアルゼブブはなぜか不安そうな顔で、私をじっと見上げていた。
『だ、だって、蠅なんだよ?』
「それがなにか?」
『こ、怖くない? き、気持ち悪くない?』
「蠅とは腐食者、生死のサイクルに必要不可欠なスカベンジャーの代表です。蠅がいなくては死肉はそのまま放置され、疫病の元となる。蠅とは汚いイメージを持たれがちですが、実際は世界の穢れをウジとして喰らい清める存在。太古の文明では神聖なイメージさえあったとされている筈ですが?」
告げて私は、女神バアルゼブブの頬に手を添えた。
ジジジジジっと蠅の慌て驚く音がする。
それでも私は彼女の頬から手を離さない。
「気取った女神よりも、面倒な事ばかりな人間よりも。むしろ私は蠅の方がまだ理解ができます、共感ができます。泣くのはおやめなさい」
『レ、レイド』
涙を拭う私の指に、うっとりとバアルゼブブは頬を寄せるが。
私はぼそり。
「泣くと本が濡れます」
『レ、レイドは、ぶ、ぶれないね……で、でも、うん。え、えへへへへ。レイドは、ぼ、ぼくに触っても、気持ち悪がらない。と、とっても、う、嬉しいよ』
「蠅ぐらい誰でも触れるでしょう?」
空気が、一瞬止まった。
私には理解ができなかった。
実際、研究で何度も触れていたが。
女神バアルゼブブは、でへりと口の端を溶かして、ニヤニヤニヤ。
女神は、両手で頬を押さえて、えへへへへへっと恍惚としている。
本当に――嬉しそうに笑顔をこぼしているのだ。
「なにか?」
『う、ううん。な、なんでもないんだよ。そ、それよりも。そ、そろそろ閉館だよ。き、今日の、や、宿はどうするつもり?』
「実はアシュトレトから連絡を受けているのです」
先ほどは言葉を途中で中断させられたが、あの老婆にはアシュトレトがついていた。
正確に言うのなら――。
なぜかあの昼の女神アシュトレトはもうすっかり老婆と打ち解け、歓談しているのである。
しばらく老婆の屋敷に厄介になると連絡を寄越してきたのだ。
私がどこかであの老婆を心配していたことを察し、私の感情を汲んだ可能性もあるが……。
老婆からもお礼がしたいから、是非あのウサギさんも泊まってくれと言われているとのこと。
寂しいという事もあるのか。
自分の終わりを感じ取っているのか。
あの老婆はおそらくもう、先は長くない。
肉体と魂が外れ始めていた、すなわち、寿命によって天寿を全うする時期が迫っているのだ。
……。
アシュトレトが老婆の屋敷に向かったのは、ただの遺産目当ての可能性もあるか。
その日は老婆と女神アシュトレトを挟んだ奇妙な食事をし。
私もしばらく、老婆の勧めで屋敷を拠点とする事を選択。
翌日に冒険者ギルドに向かう事にした。
目的は金銭をせしめる事と、そして勇者の情報と、更にアナスターシャ王妃に関する情報収集。
三女神の駒たる魔王の私が再臨しているのだ。
あの王妃も再臨するという可能性はゼロではないのだから。