第206話 聖戦の伝道者
それは――まさに蹂躙だった。
普段、空中庭園内の本は爪とぎを禁じられていて。
そしてニャースケは主人である女暗殺者の言いつけを守る、良き猫。
けれど……禁じられるとやりたくなる。
楽園の物語もそうだ。
禁断の果実だからこそ、人類は手を伸ばしたとされている。
けれど、ここの魔猫達は破ってはならない領域を見極めていた。
魔導書には力がある。
女神達の秘蔵の書もある。
その背表紙で爪とぎをしたら本気で怒られると知っていた。だから彼らはルールを守って爪とぎを我慢していた。
届かぬ書棚を見上げ、彼らは常日頃思っていたのだろう。
あの書物の背で、バリバリしたい。
ああ、あの白きページを開き、カカカカカカっと引き裂けば――それはきっと白い雪の雨が降る。
白い破片が獲物のように跳ね。
それはとても奇麗に羽ばたき、飛んだだろう。
でも、ここにいる魔猫は決して本棚の本では爪とぎをしない。
しかし、それがもし侵入者ならば。
大義名分があったのなら、爪とぎし放題。
それは一種のパラダイス。
自由。
それが彼らの本能を解放したのだろう。
禁断の果実が目の前に転がっていたら。
自由への翼を得たケモノは、瞳を輝かせギラーン。
モフ毛を膨らませ、鼻孔も膨らませまっしぐらとなり飛んだのだろう。
ニヤリと口角を吊り上げ猛ダッシュ。
空中庭園で行われたのは、魔猫による爪とぎ大会。
魔猫を襲えぬ魔王聖典をモフモフたちが追いかけまわし、ぎにゃははははは!
本来ならば神レベルの敵の集団襲撃なのだが、魔猫パラダイスが展開されていたのだ。
魔猫の爪とぎ攻撃は発動し続ける。
魔王聖典が次々と討伐されている光景は、悪戯猫の独壇場。
後にこれが歴史となるのならば、この戦いはどのように美化され記されるのだろうか。
……。
まあ本当に、好き放題爪とぎしているだけなのだ。
さすがに反応に困ったのか。
クリムゾン殿下が眉間に硬い皴を作り言う。
「……どうなのだ、これは」
「どうとは?」
「いや、たしかに助けられているが――仮にも相手は宇宙と呼ばれる空の彼方にある空間から、全ての生命を絶とうとしている魔導書なのであろう? それをこう、なんだ。どう言ったらいいか分からぬが、童話のようにバリバリバリと爪とぎで撃破し対処というのは……」
誰が一番、魔王聖典で爪とぎできるかを競い合う魔猫の群れに目をやり。
心底癒される私は、瞳を細め。
「勝てればそれで良いではありませんか」
「それはそうなのだが――我らエルフは長命。この時代の歴史を短命な人類から聞かれた際、どう返したらいいか……判断に困るだろう。これは」
「事実をありのまま伝えればいいのでは?」
そう、猫が可愛かったと。
うんうんと頷く魔猫に甘い私とは違い、兄は困った顔で。
「信用されない伝道者も問題だろう」
「まあ将来の心配はともかく、としてです――これで各国、各組織の代表も魔猫グルメ計画の重要性を理解できたはず。このタイミングでの襲撃は僥倖といえるでしょう。そして王たちも愚者ではない。自国を守るため、彼らも彼らでグルメに全力を入れる筈ですからね、世界が大きく動きますよ」
私の言葉に兄は怪訝そうな顔である。
「単純な話です。特需が生まれればそれまで伸びていなかった分野や才能が拾われ、また新たな文化が生まれるのです。もちろん特需は特需、一時の需要でしかありませんがそれは一攫千金を目指す者たちにとっては、希望ともなる。これもバタフライエフェクトと言うのでしょうか、たとえ蝶のような羽ばたきでも、それはいつか風となり嵐となり、嵐が恵みの雨となり――乾いた大地に命を授ける。全ては繋がっている、全てが誰かの影響を受け、世界を回しているのです。グルメを欲する魔猫達の登場で、この世界の人類に新たな活力が生まれることでしょう」
猫を見守り、その先にある変革を見据える私を目にし。
何を思ったのか。
寂しさとも違う、けれどどこか達観したような瞳で兄が言う。
「世界を上から見下ろす神の目線……か」
「兄上?」
「いや、今はまだ早いだろうが。遠い未来、我らエルフにとっても長いと思える先には、おまえは神として外の世界に向かうのではないか。今、ふとそう思ってしまってな。女神達の事もある今はまだ、此処にいて貰わねば困るが、そう遠くない内にでも――せめておまえが自由に動ける選択肢を作れるようには、この世界を安定させたいと……そう俺は思ったのだよ」
その表情を言葉にするならば使命感か。
兄は未来視能力者ではない、けれど、いつかくる先を見据えているのだろう。
未来を知ってしまう事が幸福とは限らない、そして未来とは変わるもの。こうして、見えない未来をより良くしようと掴むべく生きる――命の営みともいえる彼らの輝きが、私は好きだった。
それを魔導書と化した私、魔王聖典は摘んでしまおうとしている。
それはとてもよくない事だ。
そう、もう一度今回の相手の計画を止めると決意する私の前。
クリムゾン殿下はジト目で魔猫を眺め……。
「しかし、彼ら魔猫はなぜここまで強いのだ。本当に大陸神ほどの力があるように見えるのだが」
「少しふざけた話に思えるかもしれませんが、私という存在は自動的に、そして恒常的に発動される種族強化能力を有しています。モフモフした動物や、モフモフしていなくとも愛らしいと感じる動物系魔物へのバフ効果を発揮していますからね。それだけでも強化されているのですが――更にここに要因が重なっております。それがなにか、お分かりでしょうか?」
マダムたちが喜びそうな知的な顔で、兄は考え。
「……なるほど、確かこの三千世界と呼ばれる場所は、本来ならあり得ぬ世界融合が起こっている状態にある。多次元宇宙が過去の事件により重なった状態にあるので、様々な例外が発生している。お前という存在も、そのひとつ」
「ええ――私という存在は現在、複数存在するのです」
魔猫の強さの秘密を説明するべく、私は杖を翳し。
映像を投射。
自分の同一存在を提示し、話を再開する。
「この私と、魔猫へなることを願った私。魔王聖典になった私を除くとしても、勇者に殺されなかった世界の私もいます。少なくとも三柱の私が魔猫への能力向上効果を発揮していますし、なにより魔猫は多くの世界で信仰されています。特に、遠き青き星と呼ばれる私の故郷では、毎日機械の箱や板の中に映る魔猫を拝んでいますからね。それは一種の信仰となり、彼らの力となっている。女神や私が人々に望まれ強き神となったように、魔猫という存在がまた神に等しい信仰を受けているのでしょう」
「愛らしく可愛い事で、多くの信仰を受ける存在か」
まあ分からないでもないが……と、どうも言葉を濁している様子。
「信仰対象は猫だけではなく、犬も対象となっていますし。それに何より、魔猫という種族には主ともいえる者がいる、王であり神とされる強大な魔猫が存在するのです。彼もまた、私のように存在するだけで魔猫の能力を向上させていますからね。彼ら猫は、何重もの基礎能力向上状態を維持できているのですよ」
バフの重ね掛けの重要性と効果の程は、戦いの修業を積んだものならば言わずもがな。
「魔猫の王……それが大魔帝ケトスということか」
「ええ、その通りです。尤も、魔猫も魔猫でグルメの為ならば努力や鍛錬を怠らない種族。変な言い方ですが、楽をするための努力、サボるための努力もできる変わった種族ですからね。様々な要因が重なり、並の猫だとしてもこの世界の英雄や勇者と呼ばれる人類と同等以上の力を持っている、というわけです」
その証拠に、まだニャースケ程は強くない新米猫が、猫に襲われ困惑する魔王聖典に猛ダッシュ。
四肢で抱えて、ニヤリと嗤い。
バリバリバリバリ!
バリョリョリョリョリョリョ!
引っ掻いてもいい敵に向かい、全力全開の爪とぎ攻撃を展開している。
見事な爪とぎぶりに、彼らの長であるニャースケも満足そうに頷いていた。
無言であるが――もう、おまえも立派な猫戦士だな、と――風に靡くネコ髯が語っているようだった。
まあ、見た目はドヤ顔で魔王聖典を引き裂く猫と。
それをドヤ顔で見守るボス猫。
これを後に聞かれる立場となるクリムゾン殿下としては、複雑。
「俺は、この愉快な光景を後の神官や語り部たちに伝えなくてはならぬのか……」
「無理に語る必要もないと思いますがね」
「いや――もしおまえという存在が外の世界に出たとして、おまえを知っている者がいないと帰ってくる場所もなくなってしまうだろうからな。此度の戦いは歴史となり、神話となり、人々の記憶に残り続けて欲しい。おまえがこの世界に帰ってくるための、目的となって欲しい。俺は、そう感じている」
遠い未来。
この光景が伝承ではどう伝わっているのか。
「逸話の変化を楽しむために帰ってくる、それもまた一興かもしれませんね」
「変わらず伝わってくれることを願っているが、どこかで逸話が変化するのであろうな――普通は、こんな話が史実だとは思うまい……」
本当に、この光景をどう伝えるのか、そしてどう伝わってしまうのか。
まだ先の逸話を憂えているようだ。
だが、その憂いこそが日常の証。
兄は、この世界が滅ぶことなど全く想定していないのだろう。
それはおそらく私への信頼。
今回の事件も私ならば解決できると、信じてくれているのだ。
兄の信頼に応えるのも弟の務めだろう。
入り込む昼の陽射しの下。
兄の憂いから前向きな明日を見出した私は、討伐されている魔王聖典を確保。
その解析を開始し始めた。




