第204話 ロイヤルエルフの野心
ここは空中庭園に用意された第二執務室。
雲の上に浮かぶこの庭園内では、いつでも太陽が入り込んでくるおかげだろう――この執務室は昼の陽射しの魔力で満たされている。
まあ最近はフレークシルバー王国の公務や、一連の緊急事態のせいで多くの者が利用している状態となっているが、本来、ここは女神アシュトレトの領土なのだ。
彼女の陽ざしの魔力で満ちていても不思議ではない。
時刻はさきほどの直後。
各国の代表や組織の代表との会議の後である。
皆の理解と協力を取り付けた私は女神達の帰還を待ちながらも、一息。
落ち着ける場所に戻り、僅かな休憩時間を堪能していたのだ。
会議の後という事もあり、僅かな疲れがある。
だが、まだ動けるからと見張りを眠らせ仕事をしようとしたのだが――。
ぷすぅ――。
遠距離から、空中庭園のどこかにいるムルジル=ガダンガダン大王による”レジストマジック”、いわゆる魔術妨害が発動されていた。
どうやら大王が未来を少し変えたようだが……。
睡眠魔術は失敗に終わった。
となると、目の前には見張りともいうべき、あの男がいる。
椅子に座り寛ぐふりをする私の前には、腕組みをした赤髪の貴公子。
兄たるクリムゾン殿下の燃える色の瞳が、戒めるように私を眺めていた。
目線には少し怒りの気配が乗っている。
既に兄とは長くの時間を過ごしている、こちらの考えなどお見通しだったのだろう。
「俺に睡眠の魔術をかけ、いったいどこに転移するつもりだったのだ?」
「かないませんね、そこまで読まれておりましたか」
「どのような存在とて、休息は必要だ。おまえがかつてどこかの異世界で救世主と呼ばれた存在であったとしても、楽園と呼ばれた地の大物だったとしても――おまえはおまえだ。可能な時に休むのも王の務め、そうであろう?」
ようするに私に休みを与えてくれようとしているのだ。
正直な話、疲れという概念も今の私ならば魔術でどうにかできてしまうのだが。
それをすれば、おそらく兄は本気で私を叱りつけるだろう。
私はフレークシルバー王国の小さき民……子供たちが送ってくれている感謝の言葉を記した、魔導メッセージに目を通しながら言う。
「分かっていますよ、兄上。それとも兄さんとお呼びした方がよろしかったでしょうか?」
「どちらでも構わんさ」
「おや、浮かない顔ですが――何かトラブルでも?」
大魔帝ケトスが南の大陸を占拠してからというもの、あまり暇な時間はなく。
そして私にしか対処できない大事という事もあり、国を空ける期間も機会もかなりのものとなっていた。兄にはフレークシルバー王国の多くを任せている状態にある。
おそらくは多少のトラブル程度なら私にまで報告を上げていないと、私は分析したのだが。
焔の貴公子と、貴族のご婦人たちに評判な美貌に、僅かな疲れをにじませ。
溜息。
あまり口にしたくない言葉を押し出すように、兄が言う。
「トラブルではないが、色々と考えてしまってな」
「大魔帝ケトスや魔猫の事ですか? 彼らの事ならば心配ありませんよ、私もある程度の未来は見えますからね。魔猫はグルメ提供を受けた場合においてのみ、この世界を裏切るルートは観測されていません。そのためのグルメでもありますから――魔猫はああ見えて、かなり義理堅い存在なのでしょう」
グルメがある限り、彼らは絶対に裏切らない。
魔猫はグルメを愛する種族。
人類が金銭を求めるように、彼らはグルメを求めグルメを至上と崇めている。
それは大魔帝ケトスの影響らしいが……。
ともあれ。
ある意味でそれは召喚契約、雇用契約と似たような効果をもたらしているのだ。
これで心配の種はないと思うが。
だが、兄は言う。
「いや、魔猫の事は信用している。愛らしいと感じることもあるからな」
まあたしかに、兄は存外に可愛いもの好きだ。
自室の隠しエリアに、多くのモフモフぬいぐるみを保管していることも実は把握している。
ではいったい、何を考えているのだろうか。
分からず、メッセージから目線を上げた私は振り向いて。
「これから大きな流れが発生するでしょうし――もしなにか懸念があるのなら、ここで解決しておきたいのですが」
「気にするな、おまえにはこの事態を解決して貰う必要があるからな。こう言ってはなんだが、些事に過ぎぬ事で、あまりおまえの負担を増やしたくはない」
「些事かどうかは聞いてから判断しますよ。むしろこのままでは気になって、そちらの方が心労となります」
問いかけに、兄はしばし考え。
ゆったりと口を開いていた。
「懸念……とまではいかないが、私が考えていたのは……お前の事だ、レイド」
「私ですか?」
「ああ、おまえは――今後どうするつもりなのか。俺には分からなくなっていてな……」
兄はしばし考え、やはり考えを喉の奥から押し出すように。
淡々と、感情をこぼして語りだす。
「――おまえは俺にとってはただ唯一の弟だ。プアンテも身内だが、母との繋がりがあるのは……おまえだけ。もしおまえがこれからはかつて神だった時の存在として、この世界から出て行ってしまうのならば――どうしたらいいのか。いや、そもそも……おまえがどうしたいのか、それも俺には分からない。俺たちフレークシルバー王国のエルフはおまえをレイドだと思っている、けれど、俺たちが知らないおまえのかつての知り合いが多く顕現していて――俺には……分からなくなっているのだ」
本当に心の整理がつかずに漏らした本音、といった様子の言葉だった。
多くを語った後に、しばし俯き。
けれど言った後に考えたのだろう――焔のような髪を揺らし、殿下は顔を上げ。
「すまん、おまえを責めているわけではないのだ。追い出したいわけでもない。けれど、俺たちが知らないかつてのおまえに連なる者達が現れて、おまえがどんどんと遠くに行ってしまう様な、手に届かぬ存在になってしまったような。なんであろうな……焦燥、のようなものが、胸に引っかかり続けているのだ」
それはおそらく。
兄だけではなく幹部たちも感じている事だろう。
かつての記憶が呼び起こされてから、確かに私は外の世界の事ばかり。
兄が心配するのも無理はない。
「どうやら、多くの御心配をおかけしているようですね」
「すまんな……おまえほどの存在を心配するなど、おこがましい事なのかもしれないが。それでも、おまえという存在が、いつかふわりと我らの腕の中から消えて行ってしまいそうに思えて。だが、おまえのためを思うのならば、いや、そもそもだ……この国におまえを閉じ込めておくこと自体が、三千世界にとっては悪しきことなのではないか――そんな考えまで浮かんでいて」
数百年と生きていながら情けないな、とクリムゾン殿下は微笑していた。
「私はこの国の王であり、あなたと同じ母を持つ王族。レイド=アントロワイズ=シュヴァインヘルト=フレークシルバーです。前世やかつての功罪が外の世界と連なっていても、私は私です。必ずこの地に帰ってくる。この国の方々には、私の帰るべき場所であって欲しい。それが私の本音であると信じていただけると、助かるのですが」
「――そうか、そうだな……」
「ああ、けれどです。もしあなたが野心を抱き私を追い出し、自分が王になりたいというのでしたら全力でバックアップもしますが」
私の冗談に、兄は微笑を苦笑にして。
「俺に王の器はないさ」
「それはどうでしょうね。あなたは私や女神と共に暮らしている影響で、かなりレベルも上がっています。この国はおろか、周辺国家を束ねる事とて可能でしょう。それが難しくないスキルも習得されている。王の資格というのならば、既に十分すぎるステータスをお持ちではありませんか」
「ステータスだけでは、民の心はついてこないだろうさ」
「あなたには人望がありますよ、それは私が保証します」
実際、兄の手腕は多くのエルフ、多くの周辺国家から支持されている。
強大過ぎる私よりも、兄を……と推す声もあると、兄も知っている筈だ。
だが、兄はあくまでも身内の王を支える兄の顔で。
「民は、おまえを欲している。そして俺もおまえとこの国を支えていきたいと思っている。そうだな、おまえがこの国に残り続けてくれることこそが、俺の野心といえるのかもしれん」
こうして兄の心を聞く機会はあまりなかった。
兄も兄でこの状況が不安なのだろう。
だが、私達は悪い関係ではない。
なにかもうひとつ、少し意地悪なジョークでも飛ばそうかと思った。
その矢先だった。
私はふと、立ち上がり。
手を翳していた。
「……どうしたというのだ?」
「どうやら、ネズミが入り込んでいるようです。兄上、私の背後に――」
大王が睡眠魔術を妨害したのは、これを警戒したからだろう。
未来は変わり、私はまだここにいる。
気配は――。
空間を割ってやってきた。