第199話 バグ技―後編―
映像の中にあるのは、眠る魔猫陛下。
しかしこれは過去の景色。
今ではない空間に私は腕を伸ばし――口を開く。
少し砕けた、かつて部下である魔猫に問いかけたような。
そんな優しい声で告げていたのだ。
「ケトス、君は時計の魔術が使えるかい? 私のケトスには教えた記憶があるのだけれど、君の方がどうなのか――すまないが私には判断できなくてね」
もこもこ黒猫な大魔帝ケトスが、うにゅっと訝しむように顔を動かし。
『それはまあ、もちろん使えますが――』
「では時魔術の補助を頼むよ。大丈夫、すぐに片付くさ。ダゴン、あなたは夢世界からの干渉を二十秒ほど遮断してくださいますか? 可能ならばの話ですが」
『一分ほどならば確実にできますけれど、旦那様? いったいなにをなさるおつもりで?』
聖職者姿の女神ダゴンと、玉座に座るブリティッシュショートヘアーな大魔帝ケトスは互いの顔を見て。
私をじぃぃぃぃぃぃぃぃい。
意図を探っているようだった。
「ちょっとした魔術の実験ですよ――お付き合いいただければ助かるのですが」
『この状況を打開できる魔術があると?』
「まあ試してみましょう――少し時間をください、魔術を組み立てますので」
まだ楽園にいた頃。
草木の香りが心地よい草原で、こうやってダゴンと会話をした事があった。
ダゴンは逸話の上塗りにより汚染された、自らの魔術体系を恥じていたが……私は違った。夢世界の新たな魔術体系に大きな興味があった。
だから、何度も彼女と出会い――共に夢世界の魔術を研究した。
そして楽園を滅ぼし魔王となった後にはこうしてケトスとも……。
多くの魔術体系を開拓した。
私達は魔術で絆を深めたのだ。
思いに耽っていたせいか。
ふと、過去の記憶が今の記憶を上書きしそうになっていたと気付き、私の口は苦笑の形を作っていた。
断片的な記憶が、走馬灯のように走りだす。
それはさながら記憶の渦だった。
――私はレイドだ。けれどこうして懐かしい記憶に触れると、かつてのあの日が鮮明となっていく。
多くの者との思い出の積み重なりが、脳裏をよぎり続ける。
多くの人類と出逢った。
多くの神と出逢った。
多くの女神と出逢った。
多くの魔族と出逢った……。
女神アシュトレトとの出会いも、女神ダゴンとの出会いも、女神バアルゼブブとの出会いも全て……遠い過去に本当に在った逸話。
手を差し伸べ。
楽園に来ないかと誘った私の手を、彼女達は迷いながらも握り返していた。
そして、楽園でその心を癒し。
けれど……私が追放され、彼女達は私を追うように堕天して、その隙に……。
私の兄は殺された。
私の世界から、全ての色が失われていた。
絶望の果てに私の中に残った感情は、絶念。
私の意識も心も……絶望よりも重く沈んでいた。
世界への希望を見いだせなくなっていた。
だからだろう。
絶念の魔性と化した私は気付いたら楽園を滅ぼしていたのだ。
かつてあった偽りの神々の園は、崩壊していた。
そんな私を癒してくれたのは、魔猫と魔狼と魔鶏。
女神達も、私を探してくれていた。
楽園に誘った私がその楽園を滅ぼしてしまったのに、彼女達は、それでも私を慕ってくれていたのだ。
何年も、何十年も、何百年も……。
女神との、魔術を通じた思い出が多く蘇る。
楽園の上層部にて、私を追放するという不穏な空気があった頃、月の女神は私に言った。
どんなことがあっても、オレはあんたについていく。
だから――あんたはあんたのやりたいようにやればいい。
と。
上層部は人間に魔術を授けた私を問題視していた。
けれど当時の私には、人間にこそ魔術が必要だと考えていた。
楽園の神々に一方的に搾取される関係は、間違っているのではないかと考えたのだ。
けれど……。
魔術を得た彼らは楽園の崩壊後、弱き種族を虐げるようになる。
神々と同じことをしはじめたのだ。
ただ、立場が変わっただけ。
私は人類にも絶望した。
神々から虐げられていた彼らが哀れで魔術を授けたのに。
結局、ただ駒が変わっただけ。
しかし神に魔術を与えたのも、人類に魔術を与えたのも私。
ならばせめて、その責任を果たそうと手を伸ばした。
人類に虐げられていた種族を救い、集め、集団生活をした事が魔王軍のきっかけ。
私が魔王と呼ばれるようになる、始まりの物語。
そして時は流れ、私は人間を憎悪する猫を拾い、ケトスと名付けた。
ケトスは人間に復讐することを誓い、魔術を身に付ける。
加速度的な速度での成長だった。
成長したケトスは魔王軍最高幹部の地位にまで実力で上り詰めた。
私の不在時には魔王軍を束ねる幹部……つまりは魔帝となった。
私は日々に癒された。
けれど。
まつろわぬ女神達はその裏で私を探し続けていた。
私が彼らとの交流を穏やかで心地よいと感じている裏で、楽園を滅ぼした私の力になろうと、必死に追っていた。
そんな彼女たちの思いも知らずに、私は――……。
なにも、知らず。
なにも、せず。
なにも、与えてあげる事もできずに、今、私はレイドとなっていた。
「申し訳ない、話なのでしょうね――」
そして次に脳裏に浮かんだのは――私が勇者に殺される場面。
そこには、私を前にし号泣している黒猫がいる。
ケトスの泣き顔が、そこにあった。
陽気でドヤ顔ばかりを浮かべていた猫の顔が、絶望に染まる姿は……とても見ていられなかった。
彼はその後、世界を滅ぼしてしまうのだ。
それほどに、私の死が衝撃的だったのだろう。
こんな悲しい思いをさせてしまうのなら、いっそ魔術など……。
そう、死に際に願ってしまった事が私の罪になるのだろう。
そして、死んだ私を眺めていた者がいる。
深淵の海。
その底に引きずり込むように、一柱の女神が近寄って来たのだ。
勇者に殺され死んだ私の肉体を見つけたのは――ダゴン。
ずっと、探し求めていた相手を見つけて彼女は心底安心したのだろう。
おかえりなさいませ……、そう囁き。冷たい遺骸を抱きしめて。
静かに、ひしりと強く引き寄せていた。
死んだ私を抱くダゴンの頬は、濡れていた。
それが彼女の海としての属性の水だったのか。
彼女が流した心の一粒だったのか、それは私にはわからなかった。
その雫に反射する私の死体を、今の私が眺めている。
思い出と記憶の中。
現実へと意識を戻した私は魔術式を展開。
記憶を次々と魔術式に変え――全てを制御。
「どうか、力を貸してくださいダゴン。ケトス」
オーロラ色の空に、赤と青の無数の式が走り始める。
ダゴンは困惑をしつつも、夢世界に干渉するべく聖職者の服の隙間から触手を展開。
ぐじゅりうじゅりと、湿った音を立てつつも夢世界への介入に成功しているようだった。
ダゴンによる夢世界への浸食。
そして私が展開している魔術式の海。
二つの現象を瞳に宿した大魔帝ケトスは目を輝かせ、ハッと理解したのだろう。
『なるほど、その手がありましたか――では! くははははははは! 時間逆行魔術:【新・賞味期限よ、戻れ】!』
モフ毛を膨らませ、くはははははは!
無数の円が連なる”十重の魔法陣”を展開。
大きな古時計を召喚し、賞味期限が切れたお菓子の時間を逆行させる、かなり高位な魔術を使用。
時間に干渉する魔術を維持しながら、ニヤリ。
私のしようとしていることを理解し、咄嗟に補助を開始したのだ。
くははははははは!
と、モフ毛を膨らませ高位の時魔術を制御する大魔帝ケトスは実に楽しそうだった。
どうやら、くははははははは! と上げる哄笑を詠唱代わりにしているようだが。
この辺りのオリジナル詠唱も彼らしい。
懐かしさに包まれつつも、私は魔術式を更に編み込み。
ダゴンと私と大魔帝ケトスの魔術を合成。
「君も良い子だね、ケトス。それじゃあ――五秒でいいから、今の状況を維持しておくれ」
五、四、三……と時魔術による時計が音を鳴らす、その間に精神を集中。
私は伸ばした腕に力を宿し……。
オーロラの空に事前に浮かべていた魔術式を全て腕に這わせ、過去の映像の中に魔術的介入。
映像の筈の魔猫陛下の身体をそのまま抱き上げ。
ズズズズズズ。
よっこいしょ。
と、回収。
私の腕の中には、ぐっすりと眠る魔猫の私。
夢世界からの干渉を断った空間にて。
時魔術と映像の魔術の応用で、時間軸と座標を改竄。
本来ならそこにいない存在を無理やりに抱き上げ回収。
時間をバグらせるケトスの時魔術と、私の腕に這わせた魔術式とで世界を騙したのだ。
こうして、無事に救出を完了させたのだが。
皆は沈黙したままである。
さすがに。
いま実現してみせた、たった一瞬での救出に神々は驚愕を隠せずにいたようだ。
それはおそらく魔導書の私も同じ。
今頃は、力の核とする筈の魔猫陛下を奪われて混乱しているだろう。
まあ実際、いまやってみせたことは例外中の例外。
夢世界を扱えるダゴンと、時魔術の達人でもあるケトスが手伝ってくれなければできない、世界のバグを利用した裏技である。
まあ、神としても魔術師としても裏技過ぎて、かなりドン引きされているようだが。
救出できたのだから問題はない。
良くも悪くも空気を読まないガノッサが、釈然としないままの様子で。
「……んだよ、できるんじゃねえか」
「まあダゴンと大魔帝が協力してくれましたからね」
「ったく、全員で脅かしやがって――」
魔術師ではないからこそ、彼の空気は軽い。
「魔術とは、世界の法則を捻じ曲げる現象。魔術式さえ組み立てることができるのならば、そこに不可能はない。それが魔術の基本ですよ、ガノッサさん」
「へえ、じゃあ式さえ組めりゃ、なんでもできるのかよ。随分と便利な力だな、魔術ってのは」
「便利かどうかは――まあ今、ご覧に入れた通りですよ」
魔術式の流れをようやく解読し終えたのだろう。
ムルジル=ガダンガダン大王が手にしていたキセルを、ぽろりと落とし。
ゴゴゴゴゴゴゴ!
ヌヌヌヌヌっと猫口を震わせ、毛を膨らませカカカカカ!
『なーにが、ご覧に入れた通りですよ……であるか! こちらは誘拐されたその方の心配とか、色々とアレがアレでアレだったのであるぞ!?』
「おや、大王。何か問題が?」
『――できたのならとっととやらぬか! このたわけ!』
張りつめていた緊張が解けたようである。
ムルジル=ガダンガダン大王によるジャンピングキックを避けた私は、大魔王ケトス。
つまりは、私のケトスがいるだろう空間に言う。
『魔猫陛下は救出した、魔導書の私も混乱しているだろうからね。今ならば空間を開く隙がある。座標を送るから――君たちもいったん戻ってきたまえ』
声に反応したのだろう。
蠢く何かが次元を割って、顕現し始めていた。