第1話 揺れる馬車
孤児院で暮らす私に買い手がついたのは、やはり五歳の頃だった。
なぜ五歳なのか。
それは命の売買にもルールが存在したからだ。
五歳未満の子供の人身売買はこの国だけではなく、世界的に禁止されていた。
むろん、人権などという曖昧な概念を尊重したわけではない。
五歳未満の子供は急死しやすい、変死もしやすい。だから買った直後に死んだ、売った直後に返品したいというトラブルが発生しやすい。
だから、五歳未満の子供は売ることも買うことも出来ない。
もちろん、無償ならば問題ないが――そんなお人好しなど特級レア、竜の守る宝石よりも希少だろう。
ともあれ幸福な私には買い手がついた。
五歳になってすぐである。
◇
もはやどんな神を信仰していたかも、覚えていない場所。
灰と砂の香りがする聖職者の家。
孤児院の子ども達はその日、幸福なレイドに言ったのだ。
「おまえ、とうとう売られちまうんだってな!」
「銀髪で赤い目、バケモノの子なんだろう?」
「うわぁ、気持ち悪い。でも、それも今日までだ。ほら、なにか言い返してみろ!」
子どもは十歳ほどの孤児達だった。
孤児達はレイドが嫌いなのだ。
なぜならレイドは幸福だった。
孤児院の大人たちがいつも彼だけは絶対に殴らない、絶対に飢えさせない、絶対に――逃がさない。そう、徹底して、誰よりも何よりも優先していたからだろう。
それが孤児たちには特権階級のように映っていた。
実際、私は特別な存在だったのだろう。
なにしろ確実に金となる商品なのだから。
「ああ、そうか。おまえ、言葉が分からないのか。なら、教えてやるよ、お前は、こうしてこうなって、こうなるんだ」
孤児たちが、首を吊られ生贄となり死ぬ人間の真似をして。
ケタケタケタと大笑い。
幼いレイドはそんな彼らを見て思ったのだ。
言葉が分からない、それはなんて幸福なのだろうと。
おそらくそれが、自分をからかい貶め、苦しめようと嘲笑しているのだとレイドには理解できていた。
レイドは幸福なことに、知能が他人よりも多少良かったのだろう。
五歳児にしては落ち着いていて、聡明だった。
けれど同時に聡明ゆえに、自分が特別扱いを受けていたとも自覚をしていた。
だから銀髪の隙間から、赤い瞳を覗かせて。
ケタケタと嗤う孤児たちを眺めていた。
彼らは自分がいなくなったらきっと、幸せになるのだろうと。
誰かのために役に立つのなら、それはきっと意味のある人生だ。
多くの少年を救うために、おそらくレイドは死ぬのだろう。
レイド少年は買われる自分の運命を呪ったりはしなかった。
どこからともなく、声がする。
『さて、運命を少し弄るとするか――』
『ど、ど、どうする……の?』
『あたくしたちのかわいい子を虐めていたのよ? 蟲の分際で、なら、仕方ないですわよね』
次の日。
レイドは予定通り買われていくことになった。
周囲はぽかぽかとした温かな気候。
レイドは既に馬車の中にいる。
幼い私を購入したのは、貴族。
私を拾い育てた処刑場の聖職者、義父とは言えぬ拾い主が経営する孤児院からは離れた、隣国にある名家だった。
それは貴族令嬢ポーラとの出会いの物語でもある。
◇
ガタガタガタと揺れるその馬車の中は、狭い。
甘ったるい菓子の香りと古紙の香り。
そして、貴族が纏う香水の嫌な匂いが漂う空間だった。
女神たちが見守る空間でもある。
レイドを買ったのは身なりのよさそうな初老の騎士貴族である。
王家に仕える騎士の家系なのだろう。
高潔な貴族なのだろう。けれど高潔故に、奴隷同然の子どもにはさほどの興味もないようだった。
なにしろレイドはもうすぐ死ぬ。
レイドを買ったのは生贄用。
水神様への儀式のため、少年を海の祭壇へと沈める必要があるのだという。
それは神への供物。
雨を降らせるための、犠牲。
雨を降らせるという魔術儀式を、子どもの命という対価を支払い発動させる――魔術の一種といえるだろう。
馬車の中にはその貴族ともう一人、子どもがいた。
レイドよりも少し年上の少女である。
初老の騎士貴族とその子どもは親子なのだろう。
金髪碧眼の、自分達が神の血筋にあるものだと信じている異国人の親子だ。
貴族はレイド自身に興味はないようだが、貴族の子どもは違った。
青空のような、畏れを知らない少女の瞳が、キラキラと輝いていた。
勝ち誇った顔でレイドを眺めているのである。
少女は歯を見せるほどの人懐っこい笑顔で、魔導書を手にレイドに言う。
「ねえ、見なさいよ! あたし、もうここまでの魔術が使えるようになっているのよ! 七歳でここまでできる子どもなんて、他にはいないって評判なんですから。あなたに、できる? できないわよね? だって可哀そうな子供なんですものね!」
しかし、レイドは言葉がわからない。
思えば騎士貴族がレイドを買った理由の一つに、会話ができないこともあったのだろう。
話せない、コミュニケーションが取れない。
それは養子にするのなら不適当だが、生贄にするのならむしろ都合がいい。
感覚としては、調理された肉を捧げるのと同じ。
言葉を解さないのなら、人間ではない。
そう、思うことも出来る。
だが、少女にとっては自慢できそうな子供であったのに、できなくて残念だったのだろう。
「つまらないの、お父様。ねえ、この子、どうするの?」
「……ポーラ、お前は知らなくていいことだよ」
「そう……なら、聞かないわ」
七歳であっても貴族の令嬢。
ポーラと呼ばれた子ども、少女は大人の顔色を読むのが上手いのか。
子どもである自分が口を出せないこともあると、もう知っているのだろう。
すぐに話題を切り替えていた。
「あたしの魔術をお父様に見せたいのだけど、無理ね。今日だって、魔物がでたらあたしが退治するつもりだったのよ?」
「おまえにはまだ早いだろう。父さんは、お前が心配だよ」
「あら、どうして?」
「だって誰よりも大事な愛娘だからね」
初老の父は娘に貫禄ある笑みを送る。
人形のような少女は金の髪をふわりと膨らませて、にっこり。
大人の口調を真似て言う。
「だったらあたくしに魔術の家庭教師をつけてくださいまし。ねえ、いいでしょう、お父様! あたしはもう立派なリトルレディなんですから!」
「騎士の家で、魔術の家庭教師か……あまり歓迎はできないのだが」
それでもお父様はあたしのためになんだってしてくれる。
ポーラの顔はそう確信しているようだった。
そもそも、この旅にもわがままを言ってついてきているのだろう。
ポーラと呼ばれた貴族の少女は騎士の家系にあるが、魔術に興味があるのだろう。
だから精一杯、魔術の勉強をしてみせている。
ほら、お父様。あたしがこれだけ頑張っているんですから、十歳未満の子供が、ここまでの魔術を身に付けられるって凄いことなのよ? だから、きっと、家庭教師の話、約束してくれるわよね?
そう、語っているようだった。
実際、本来ならばそうなっていた筈なのだろう。
けれど。
そうはならなかった。
そこにはレイドがいたからだ。
どこからともなく、声がする。
美しい女神たちが、少年の顔を抱き――視線を返させた。
『さあ、レイドよ。あれが魔導書じゃ』
『ま、魔王になるなら……ふ、ふふふ、ふ、やっぱり、ま、魔術』
『このまま生贄にされたくはありませんでしょう?』
私の視界に、魔導書のキラキラが映り込む。
女神も私も既に。
この少女の人生を狂わせていた。
「なによ、そんなにこの本が気になるの? どうせ、読めやしないでしょ? 魔導書ってね、才能がない人間には一生読めないの。女神さまに愛されないと唱えることも出来ないの。どれだけ頑張っても、どれだけ祈っても、絶対にね。女神さまが愛するのは、神に祝福された清い女性だけ。ほら、読んでみなさいよ。まあ、無理だって事は分かってるから」
男が魔術なんて使えるはずがないと。
ポーラは勝ち誇った顔で笑っている。
実際、男の魔術師は貴重だった。
神に愛されねば魔術は使えない、けれど、神は男を愛さない。
レイドには言葉は分からない。
けれど少女が魔導書を指差していたのは理解できた。
レイドは幸福だった。
本来ならば魔導書は高価。一般人が目にする事など一生涯ないアイテムだ。
けれどレイドはこうして、魔導書を直接――目にすることができた。
『そなたなら、できる。安心せよ――さあ、その名を口にするが良い』
それは本当に幸福な事。
そして、更に幸福なことが起こった。
レイドにはその魔導書に書かれた名を、読み解くことができたのだ。
それは何故か。
少年が女神に愛された天才だったからだ。
美しい銀髪の少年の、既に整っているその唇から――言葉が紡がれる。
「【凍結掌】」
魔法陣がキラキラキラと馬車の中で輝いていた。
「うそ……でしょ」
ポーラは驚愕した。
彼女の父はもっと驚愕しただろう。
騎士貴族は、ごくりと息を飲み――命令した。
「使ってみなさい――」
と。
魔術は発動されていた。
貴族令嬢ポーラ、彼女はただまっすぐレイドの揺れる髪を眺めていた。