第18話 覚醒:前編
朝餉の香りが広がる早朝の市場。
朝陽の下で轟くのは――魔物の慟哭。
覚醒したばかりの意識だが、まどろみはない。
思考ははっきりとしていた。
人間の跳躍速度を超えぬように計算し、風を切るように走る姿は――背の高い神秘的な銀色ウサギ。
銀髪赤目の美青年は訝しんでいた。
道行く魔物を主刀のみで首を刎ね。
ワン、ツー、スリー。
死屍累々に積んだ首のない魔物の群れを横切る、魔王たる私は考えていたのである。
「邪魔です――」
結論から述べると敵は弱かった。
街に出現した魔物は雑魚。
明け方の女神が生成したものではなかったのだろう。
何故そう考えたのか。
理由は単純だ。
もしあの女神たちが自分で召喚という形を取ったのならば、この程度の魔物では済まない。
やつらは神の基準で考え、人間の基準など気にしない。
彼らの手による魔物ならば、もっと強大な魔物を容赦なく生成しただろう。
ならば街を覆う程に湧いている魔物は、あくまでも周囲にいた魔物を呼んだだけ。
もっと言うのならば呼んだと言っても、実際に魔術やアイテムで呼んだわけではない。
あくまでも運命を弄っただけなのだろう。
私に幸福……金銭授与が発生する状態を作るために、全ての可能性を都合よく改変させたと、私は考える。
悲鳴は聞こえているが、犠牲者はまだ出ていないだろう。
何故それが分かるのかというと、それはおそらく私が眠っている間に習得していた新スキル。
或いは解放された権能。
【幸福なる魔王眼】。
盗賊や狩人など地図を書き記す役割も担う、いわゆるマッパーの力。
斥候系統のスキルだろう。
敵の居場所を欲し念じた私の脳裏に、液晶モニターのような地図が表示されており――そしてその地図上には赤いエネミーマーク。
生きた人間の数に応じた分だけ、そのマークが点滅していたからである。
もっとも、人間を示す赤い文字にはエネミーと表示されているのだが。
それはやはり、私が魔王だから。
ならば本来なら味方を示すだろう青色で表示されているマークこそが、魔物か。
「まったく、これでは本当に魔王のようではありますが、まあ、既に自覚はしておりますし、それを否定するつもりはありませんが」
魔王と自覚したことで覚醒でもしたのだろう。
私にはこの大帝国カルバニアについて、多くの景色を俯瞰した状態で眺めることができていた。
魔王が遠くを眺めることはごく自然。
魔王の専用スキルがいくつも習得されていると考えるべきだろう。
意識を集中させると、並列された思考の中にヴィジョンが浮かぶ。魔物と戦っている冒険者とおぼしき人間たちが映りだしたのだ。
街を守る冒険者。
冒険者以外にも騎士団が映りだす。
戦場は乱戦、統率はとれていない。
魔物側はというと――。
それは悪魔の群れだった。
「――ナイトメアビースト、中級悪魔ですか」
『まあ、どんな魔物ですのかしら』
再び聖職者の姿に戻った。明け方の女神である。
聖職者の格好で私と並走しているので、違和感はとてつもない。
「二百年前、私が冒険者ギルドで働いていた時に解体したこともある、四足歩行の馬面の魔物ですよ。夢を食らい、夢を愛する。眠り攻撃と、眠らせた相手に対してのほぼ即死に近い特殊攻撃の使い手なのですが……と、従業員として冒険者に魔物を説明していた時の癖が出てしまいました。それにしてもです――明け方の女神。何度も見ている筈ですが、ご存じなかったのですか?」
『あたくしが、雑魚を覚えているとでも?』
「真顔の疑問はおやめください、あぁ……プクーっとしても、可愛くないですよ。本来ならばその生息域はダンジョン中層。街に湧いていい敵ではないのですが――」
催眠攻撃を指を鳴らし妨害。
集団眠り状態になりかけていた騎士団と冒険者を目覚めさせてやりながら、私は再び、ワン、ツー。
確実に首を刎ね、命を狩る。
騎士団と思われる金髪碧眼の女騎士が言う。
「手刀で謎の魔物の首を、一撃で!? それも、何体も同時に……き、貴殿は……いったい」
「話している暇があるのなら手を動かしなさい」
「しかし! 貴殿は騎士団の人間ではないだろう!?」
「話をしている暇などないと、分からないのですか? それともこの街の騎士団という存在は、人の命よりもメンツとやらが大切だと?」
話している暇などない、話は後で、と話を打ち切る場合。
実際の場合、話した方が手っ取り早い状況の方が多いのだが、まさか二百年前に滅ぼされた魔王ですが復活しました。
などとはいえない。
人命救助の名目で騎士団を無視する私は更に加速。
明け方の女神が強い口調で言う。
『それはよろしいのですが。路地裏でおばあちゃまが襲われそうですわ。助けて差し上げた方がよろしいかと』
「驚きました――……女神がまさか老婆を助ける助言をするなど」
『あのおばあちゃま、資産家ですわ』
やはり女神は女神であった。
「……そういうことですか」
明け方の女神は悪びれることなく、静かに瞳を閉じ。
『本当に急いだほうがよろしいかと。今襲われているのは品のある、貴族みたいなおばあちゃまです。助けたら、後で旦那様に莫大の富が入り込んでくるのでは……と、そう思ったのは、事実でございますが、間に合わなくなってしまいますわ』
前言を撤回する暇もなく、私は路地裏にかけ。
間に合わなくなると計算し、影となっている壁にスゥ……っと侵入。
老婆を襲う悪魔の影から再出現。
魔物の胸を一突き。
「大丈夫ですか」
白髪の老婆は薄い瞳で、けれど驚いた様子で私を眺めていた。
瞳の色も薄い。
もう視力はだいぶ失われている、というかほとんど見えていない様子だった。
実際、品ある老婆は言った。
「あら、なにかしら……ごめんなさいね……目が、悪くなってしまっていて。でも、なんとなくわ、分かるわ。助けて……くれたのね。どうも、ありがとう。あなたは……あのぅ、ウサギの亜人さん? なのかしら」
「確かに今の私は大量の返り血を浴びております。怪談話のオチにもよく使われる上級魔物”殺戮ウサギ”が、魔術によって擬人化された姿……そう、言われても納得してしまう姿ではありますが――」
老婆が私を見上げ。
キラキラキラと瞳を輝かせ。
「殺戮ウサギ? まあ、外には怖い魔物さんがいるのね。けれど、あなたは優しそう。なんだか、まだ家族がいたころのことを思い出してしまうの。あなた、お名前は? あたしは、あら、なんだったかしら。年を取ると、駄目ね。昔のことは覚えているのに、今の事は忘れてしまうの。名前、あたしの、なまえ……」
少し、認知症の方もすすんでいるようだ。
手を伸ばそうとしたが、手は真っ赤。
これでは怖がられてしまうだろう。
どうしたものかと悩む一瞬。
耳元で音が鳴った。
まるで大量の蠅の羽擦れのような、ジジジジジジジっとした悍ましい音だった。
明け方の女神の声が響く。
『あらあら、まあまあ! 人助けではなく、ナンパでしたか?』
「まさか、老婆に嫉妬なさっているのですか?」
『そうですが、なにか?』
明け方の女神もまた、嫉妬深い女神なのだろう。
「安心なさい、見た目だけならあなたは本当に女神。淑女たる聖職者。聖女か高位シスターにしか見えませんからね。見た目だけなら、あなたは女神で一番好ましいと感じておりますよ」
蟲の羽音が止まる。
代わりに送られたのは、女神の微笑。
『そうやって旦那様は、あたくしの心まで盗んでしまうのです。いつでもどこでも、あたくしはいつでも、旦那様との素敵な時間を待っておりますのに……』
「それはよろしいので、この御老体をどこか安全な場所に連れていってください。さすがにここに放置するわけにもいきませんが、私は殲滅を継続しますので」
正しい判断の筈だ。
だが。明け方の女神は空を見て。
じぃぃぃぃぃぃ。
『どうやら明け方も終わりのようですので、あたくしはこの辺りでお暇させていただきますわ』
老婆の面倒を見るのは遠慮しますとばかりに、朝焼けの終わりと共に消えていた。
ゲスの極み。
使えない女神であるが、たしかに、あの女神に老婆の世話を頼むのも問題か。
私は空に向かい声を上げていた。
「アシュトレト、昼の女神アシュトレト! 聞こえているのでしょう!」
反応はすぐにあった。
『誰じゃ、妾を呼ぶ不敬の輩は!』
「私ですよ、女神よ――お久しぶりですね」
『その声は……! なんと! おぬしならおぬしと先に言わぬか! バカ者が!』
布団から落ちて、大急ぎでメイクをする女神の気配を感じる。
女神アシュトレト。
彼女も変わってはいないようだった。