第163話 六章エピローグ~始まりの地~
ここは魔術国家インティアル。
その錬金術研究所の、魔力の香りが濃い一室。
私はとある知人の女性と、ひと時の昼休憩を迎えていた。
私に恩を感じていながらも、救世主のようには平伏さない。
それがこの錬金術師ダブルス=ダグラスだった。
私は愚痴る様に、そして友人感覚で彼女に事情を説明していたのだ。
一連の流れを聞いた彼女はさすがに驚いてはみせたものの、全ては現実的に起こりうる魔術式の範囲内だと理解したのだろう。
眼帯に被さっていた髪を掻き上げ、キシシシとからかうような笑みを浮かべている。
「ぷはははははは! まじかよ、異世界の神がねえ。くくく……っ、そりゃあ大変だったようだね、エルフの王様。まさか、こっちのエリクシールを買い取ってもらう場所を作るために、そんな大冒険を繰り広げていただなんて。あたいも頭が上がらないね」
「笑い事じゃないのですが」
「けれど、あんたはそうやって笑って欲しいって顔をしてるぜ? ん? どうなんだい?」
ダブルス=ダグラスは言いながらも紅茶に手を伸ばし。
魔術詠唱。
保温効果のある自作の魔道具にて、私と自分の分の冷えた紅茶を用意し、コトリ。
瞳で感謝を告げた私は紅茶を口にし。
「なるほど、保温効果があるということはアイスティーも冷えたまま保温できるのですね」
「殿下のアイディアのパクリだけどな。あいつは本当に色々と知ってて、ああ、こいつ、やっぱり転生者なんだって嫌でも感じちまう毎日さ」
殿下とは転生者であるルイン王子の事だろう。
彼とダブルス=ダグラスは恋仲。
正式に付き合っているかどうかは知らないが、それは公然の秘密となっていて――。
揺れる紅茶の波紋を眺めながら私は言う。
「……彼はなんと?」
「さあね、けれど殿下がどう動こうと――あたいはこの世界に残るよ」
波紋に映るダブルス=ダグラスの決意は、固そうだ。
「愛しているのに、ですか?」
「よしとくれよ、愛しているとは限らない。そりゃあまあ、好いてはいるんだろうけれどね。あたいは、この国に恩がある。正確に言うなら、魔術王に恩がある。そして王はまだこの国の民を見捨ててはいない。だったら、答えは決まっているだろう?」
「魔術王もあなたの人生を縛るつもりはないでしょうに」
「あたいがあたいを許せねえのさ」
まあ、彼女は善人だ。
そしてエリクシール量産計画には必ず彼女の技術が必要となる。
その技術が技術体系となり、新たな回復系錬金術の柱となるのならば――この世界から出ていくことはできない。
ムーンファニチャー帝国のドワーフ達もエリクシールを必要としている。
復興に励むサニーインパラーヤ王国も、ドワーフの生み出す工具や素材が必要となる。
サニーインパラーヤ王国はムーンファニチャー帝国から素材を買い、その金でムーンファニチャー帝国は魔術国家インティアルからエリクシールを購入する。
問題となりそうなのは復興中のサニーインパラーヤ王国。
今のあの大陸には金がないが、そこも問題はない。
おそらくは女神アシュトレトが中心となり、エルフの貴族がオリエンタルな着物や髪飾りを購入するだろう。
そして刀や弓を得意とするエルフも多いことから、あの大陸独特の武器【倭刀・倭弓】の購入も検討されている。
ドワーフ皇帝カイザリオンが魔術を使用できるようになったとしても、回復魔術のコツを思い出すまでにはかなりの時間を要するだろう。
だから、おそらくは……ダブルス=ダグラスがこの世界に残るのならば、エリクシールをはじめとした回復アイテムの製造で――その生涯を終えるだろう。
もしルイン王子が元の世界に帰るのならば、もう二度と会う事はない。
互いが互いを愛しているのならば、それは悲恋で終わる物語となる。
ルイン王子がこの世界に残るというのなら、また話は変わるが。
もし彼が、望まずこの世界に来ているのなら――。
答えは私が決めるものではない。
だから私は、彼女に言ったのだ。
その背中を――押すように。
「愛のためならば何をしてもいい、というわけではないですが、あなたはもう十分頑張ったと私はそう思いますよ。あなたがルイン殿下と共に外の世界に行ったとして、それを誰が責められるでしょうか。そして、もしあなたがルイン王子と共にこの地を去ったとしても……その責任は私が取りましょう。それがルイン殿下を転生者だと見抜いてしまい、そしてその帰り道を照らした私の義務でもあるのですから」
もし二人でこの地を去っても、後は私が何とかする。
そう告げた私は揺れる紅茶の波紋を眺めていた。
波紋の中、腕を組んだダブルス=ダグラスは呆れたように口を動かした。
「レイドの旦那よぉ。そういう時はちゃんと人の顔を見て言えっての、なんで紅茶越しにあたいを見るんだい」
「照れと言うのもありますが――実際問題、私が直視することは、それはそれで魅了のような効果が発揮してしまいますから。あまりまっすぐみる事もできないのですよ」
「な、なるほど……陛下も大変なこって」
モテすぎるのも辛いねえ、と。
ダブルス=ダグラスはケシシシと苦笑し、吐息に言葉を乗せていた。
「そこまでしていただけるのはありがたいけどね。あたいは王子に付いていく気はないんだよ」
そこには、様々な思いが詰まっているように思えた。
少なくとも軽い言葉ではなかったのだ。
私の薄い唇は蠢いていた。
「彼が帰ると言っても、ですか?」
「ああ、あたいは――帰ったらきっと後悔するからね。それほどまでに、魔術王への恩義は重いのさ。まあ、これも一種のファザコンってやつかもしれねえがね」
育ての親への恩は、恋心に勝る。
か。
まあ、それも彼女の選択だ。
私がとやかく言う場面ではないだろう。
ダブルス=ダグラスが言う。
「レイドの旦那はどうやら助けた連中が、みんな目の色を変えて信者みたいになっちまうのが嫌みたいだね」
「突然なんですか?」
「おや、あたいの思い違いだったかい?」
「いえ、まあ……彼らが嫌いなわけではないのですが。そう思ってしまう事は、多々ありますね」
ダブルス=ダグラスは真剣な表情に切り替え。
魔術師としての声で言う。
「けれど、あたいはそうはならなかった。理由をちっと考えてみたんだけど、聞いてくれるかい?」
私は頷いていた。
ルイン王子もティアナ姫も私を過度に信じすぎている。
けれど、ダブルス=ダグラスだけは違う。
目線がそのまま、対等なのだ。
もちろん、彼女がこちらに恩義を感じているとは伝わるのだが――。
彼らの魔術耐性や精神汚染耐性に大きな差はない。
では、なぜ。
その差を是非とも知りたかった。
ダブルス=ダグラスが魔術式ではなく図説で示し始める。
そこに現れたのは私とダブルス=ダグラスと、魔術王の似顔絵。
「たぶん、あたいは――恩人の最上位、神のように崇めている存在に魔術王を置いているから、レイド陛下を一番にしていないんだよ。逆に考えると……あんたを一番の恩人と感じてしまった時に、精神汚染が始まるんじゃないか……錬金術師としてのあたいはそう考えるよ」
「なるほど、つまり言い換えれば信仰対象があなたは魔術王に設定されているため、私に汚染されていない――と、そういうことですか」
「まあ、単純にそう直感しただけさ。確定じゃないし、あんたにとっちゃレベルの低い小娘がちょっと思いついた珍説、ってことにしておいておくれよ」
珍説というが、興味深い見解である。
「参考にさせていただきます」
「あたいは……少しは役に立てたかい?」
「ええ、とても」
もし私を妄信してしまうシステムが間違っていたとしても、似たような理論である可能性は極めて高い。
新たな情報を脳に刻み。
私は言う。
「ルイン殿下は、どうするおつもりなのでしょうね」
「さあね、まあしばらく落ち着くまではどちらにせよこの世界にいるだろうさ」
ダブルス=ダグラス。
彼女は彼にどうして欲しいのだろうか?
いっそ連れ去って欲しいと願っているのか、それとも残って欲しいと願っているのか。
今の私ならば心を覗くことができる。
けれど、私は心を読まず。
未来もなるべく見ないようにし――。
彼らの行く末を、ただ幸せになりますようにと祝福した。
魔術国家インティアルは救われるだろう。
私と出逢ったことにより、運命を変えただろう。
国としては間違いなく良き変化だろう。
だが、個人としては?
その答えを私は持ち合わせてはいない。
その変化が良き変化であったことを、私はただ祈るしかなかったが。
ダブルス=ダグラスはそんな私の心を読んだかのように。
ふっと、淑女のように微笑し。
「なんて顔をしてるんだい、あんたには感謝してる。それだけは本当さ。どんな結末になろうと、この恩義だけは変わらないよ。まあ、他の連中みたいになんでも全部を肯定するほど、妄信はしちゃいないがね」
妄信していない知り合い。
それは私にとっては、とても……。
けれどそれを言葉にはせず、私は立ち上がる。
「それでは――またいつか。ルイン殿下がもし帰るというのでしたらご連絡ください、お力になれますので」
「ああ。それじゃあ。そうそう、帰る前に言っておくよ――さっきも言ったがあんたは恩人だ、その事実は変わらない。けどあたい個人は、あんたがちょっと抜けたところのある変人だってことは知ってるからね。あたいはいつでも来て貰っても構わない。そう思ってるから、まあ気軽に来なよ。女神様にも相談できない話ってのも、中にはあるだろうからね」
と、ダブルス=ダグラスは私が最も欲しい答えをくれたのだ。
人間にも心奇麗な存在はいる。
そんなことは分かっている筈だった。
けれど。
何故だろう。
いま、私は初めて――人類が持つ心の優しさに触れた気がして。
だからこそ、少しの照れが襲い――。
私は苦笑だけを残し。
言葉を残さず転移していた。
私のいなくなった部屋。
紅茶の波紋に映るダブルス=ダグラスは、静かに瞳を閉じている。
けれど私には見えていた。
このすぐ後。
彼女は驚いた様子で、瞳を大きく開くのだ。
そこにはおそらく、抱えきれないほどの花束を抱えたルイン王子が――……。
……。
プライベートな事だ。
彼らの行く末を詳細に語ることはしないが。
後の歴史にはこう刻まれることになるだろう。
魔術国家インティアルの新しき王は転生者であり、姉と共に国家の安定に貢献。
そしてその王妃は、稀代の天才錬金術師であり。
エリクシールを量産し、国家を支えた賢人であった。
と――。
これから長い間、偉人として後の民から慕われることになり。
私ですら恥ずかしいと感じる、美人像が作られることになるのだろうが。
今の彼女は、それをまだ知らない。
第六章 エピローグ 《了》
【再MEMO】
本章以降、原典「殺戮の魔猫」とそれに連なる作品の関連イベントが増えていきます。
本作単体でもお読みいただけますが、
原典読後だと趣が変わる部分が多く出てくると思われます。