第156話 あなたに感謝をもう一度
外からの闖入者は去った。
私もダゴンも無事。
空間を切り替えていたので、大切な古書にも問題はない。
現代的なインクとは違う、獣脂の香りの中。
人類の歴史を刻む冒険者ギルドの隠しエリアにて、私は心配そうにこちらをみるダゴンに口を開いていた。
太陽は届かぬ場所だが、明け方の女神だからだろう。
朝の陽ざしが私たちを照らしている。
「――あなたが私の蘇生に関わっていた事、更にそれを皆に隠していた事。気にしていませんよ、ダゴン。そしておそらくは、あの二人も――あなたを責めたりはしないでしょう」
女神ダゴンの能力ならば、たしかに……かつて勇者に滅ぼされた”始まりの魔王”の肉体。
つまり、あの方の欠片を拾い上げ。
人間として転生させることとてできたのだろう。
それが現代社会に生きていた私。
何を研究していたのか。
それも私は既に思い出していた。
私は生命の研究をしていた。
その認識は間違いではなかった。
けれど、それはもっと広い意味での研究であり――
あの方と呼ばれた始まりの魔王。
その魔王が転生した人間の私が、モニターの前、蒼白い光を受け――指を動かし続けている。
画面の中――表示されているプログラムは現実世界の法則で作り出された、物理現象で構築されている理論だ。
しかし。
そこにたった一つの例外。
たとえば魔術を生み出せるほどの男の魔力を、一滴でも加えたら。
それは奇跡となって、世界に広がっていただろう。
始まりの魔王から転生した人間、生前の自分を思い出し――。
私は言う。
「転生したばかりの私には、楽園で住んでいた時の記憶が残っていませんでした。いえ、ほぼ全てを忘れていたと言ってもいいでしょう。そして、それでも一つの願いだけは思い出していた……理論は違う、原理も異なる。けれど私は――世界から魔術を消す研究を、ずっと、機械の中の箱庭で実験していたのですね」
それは機械の中の世界実験。
私は延々と、魔術式を作り出すように物理現象として世界の法則を書き換えようとしていた。
目的は、魔術の完全排除。
他者に魔術を授けてしまった愚かな自分を消しさり、全てを無かった事にしたいと……そう願っていた。
後悔を思い返せば、いつでも辿り着くのは楽園にて魔術を神々に与えてしまった事。
私の罪は、魔術を生み出してしまった事。
魔術が神も人も狂わせるのならば、いっそ物理現象を用い時間逆行し――あの日の自分を殺したい。
そんな妄執に囚われ、私は毎日研究を続けていたのだ。
コンピューターの中の世界で作り上げた新しい歴史を、外の世界に上書きさせる。
常識的にはあり得ない事だ。
ましてやただの人間に転生していた筈の私に、そんな事ができるはずがない。
しかし、私は幸か不幸か――存在が異質なのだろう。
やろうと思えば、できてしまっていたのだ。
魔術がなかった世界へと、世界を作り替える。
全てを無かった事にする。
皆との出会いも、思い出も――。
そうすれば、多くの悲劇は回避される。
だから――。
「魔術という概念を破壊し全てをリセットすることにより――魔術無き世界へ……。かつてあの方と呼ばれた私ならば、それもできてしまう。だから、私は殺される必要があったのですね」
私を止めたのは、おそらくダゴン。
魔術のない世界を無意識に組み上げようとしていた私に近づき、他の三女神を誘い。
ダゴンは私を殺したのだ。
彼女は正しい。
世界を魔術のない世界に作り替える事は、たしかに多くの悲劇を回避できる。
魔術無き世界では、魔術のない通常の歴史が進むことだろう。
けれど、そこに起こるのは悲劇の回避だけではない。
誰かの幸福すら、リセットしてしまう。
多くの幸せも捻じ曲げてしまい、なかったことにしてしまうのだから。
魔術のある世界と。
魔術のない世界。
どちらが正しいというわけではない。
けれど既に魔術が存在する世界になっているのなら、それを書き換える事は宇宙規模での大量殺戮に等しい行為だろう。
もし今の私ならば、確実にそれを止めている。
気持ちはわかるが、馬鹿な事をするなと戦いを挑んででも妨害するだろう。
そして、女神ダゴンは私と考え方の近しい女神。
だから。
彼女は独りで計画し、独りで皆を扇動し、独りで私を殺すと決めたのだ。
全ては私のために。
私に、無辜なる者を殺させないように。
きっと楽園にいたころの私ならば、魔術を全てなかったことにする事を是としない。
ダゴンはそう考え。
動いてくれていたのだ――。
ずっと。
ずっと。
誰にも知られず。
誰にも褒められることもなく――世界を救っていたのだ。
それも、自分を邪神と貶めた。
恨んでいた。
救いたくもない世界と人類を……私のために。
立ち入る者のない書庫の中。
私は感謝を告げていた。
「ありがとうございました、ダゴン。私を殺してくれて――私は、何も知らずに、何も思い出せないままに、多くの命を消してしまう所だったのですね」
心の底からの感謝だった。
ダゴンは困ったように唇をぎゅっと噛み、僅かに目線を下げていた。
とても、申し訳なさそうにしていた。
けれど、どこか理解していた、悟っていたような顔で唇を蠢かしていた。
『旦那様は――気付いていらっしゃったのですか?』
「まあ、あの時……勇者に殺された私の肉体を発見し、そして蘇生できるとしたら……三女神の中ではあなただろうと想定はしておりました。その様子だとやはり、他の女神達にも黙ってやっていたのですね」
ダゴンは微笑んだ。
とても綺麗な笑みだった。
『あたくしはただ、旦那様のためを思ってしたまでのこと――悪意は一切、ありませんわ』
「分かっています、ずっと一人で抱え込んでいたのでしょう。すみません、辛かったでしょうね――」
『いいえ……魔術を消し去りたい、あの悲劇を無かった事にしたかった旦那様の無念を思えば、あたくしの心など』
私の無念、か。
かつての私。
楽園の騒動から魔王となり、多くの魔物を従え勇者に殺された私は――三つに割かれた欠片の一つ。
あの方と呼ばれた男の肉体部分を司る、三分の一の転生体。
肉体には脳がある――だから、勇者に殺され再び絶望を思い出した時……全ての悲劇を回避する手段を思い浮かべてしまったのだろう。
魔術を否定したのだろう。
無念を抱いたのだろう。
ああ、魔術など伝授しなければよかった――と。
もしダゴンが転生した私に気付き、そしてただの人間に過ぎない私の野望を止めていなかったら。
今頃は全てがリセットされていた筈。
だから――。
「ダゴン、あなたは多くの信徒から邪神と貶められてしまった存在なのかもしれません。けれど、あなたは自分の信念に従い、私を止めた。殺してでも止めた。言うならば――世界の救世主なのかもしれませんね」
『勘違いはなさらないでくださいまし、あたくしが救いたかったのは世界ではなく、旦那様。ただ御一人』
それは本音なのだろう。
世界などどうでもいいが。
私のために、彼女は全て動き続けていた。
勇者ガノッサに私が殺されたときも、ずっと、彼女は二百年も私を見守り続けていた。
だから、きっと。
少なくとも……私にとっての女神ダゴンとは、明け方の如き優しき光を放つ者。
それは聖母にも等しき後光と共に微笑み。
私を包み、見守る女神。
「あなたがいてくれて、本当に良かった――ダゴン。謝罪ではなく、あなたに感謝をもう一度……」
すみませんではなく、ありがとうを。
それが私の答えだった。
女神ダゴンはぎゅっと唇を結んで、瞳に大粒の涙を浮かべていた。
私の腕は彼女を抱きしめ。
彼女もまた、私を抱きしめ返していた。
顔の角度が変わったからか。
陽ざしは――僅かに、そして前向きに傾いていた。